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闘技場の前では、チケットを高値で転売する者や、温かい飲み物を売ったり買ったりする人でごった返していた。出場者の家族もいるのか、怪我をしないようにとか、もし優勝したらといった会話が切れ切れに聞こえてくる。
「裏口いこうよ、裏口。こっそり入れたらおもしろいじゃん」
「なにか食べなくていいの?」
「あとにする。バニーのオゴりで」
はぐれないように太い腕にしがみつき、ネーナは常になくはしゃいだ声で言った。
髪を結い上げて高価なコートに身を包んだネーナと、都一有名なギルドの制服をきちんと着込んでニコニコしているバニー。二人の姿は、傍目には身分違いの恋に身を投じた恋人同士に見えたかもしれない。
「バニー、いちいち雑貨屋の前でひっかかるなってば! そんな髪飾りどこにつけんだよ、ハゲのくせに!」
「んまぁ、ハゲじゃないわよ! 短くしてるだけじゃないの、ネーナの意地悪っ」
しかしてその実体は、口の悪い娘と繊細なオカマの親友同士なのであった。
人ごみと遅々として進まぬ列に悪態をつくネーナの口に飴を放り込んで、バニーは彼女の髪をなおしてやる。栗色の巻き毛を結い上げてやったのも、眉を整えて化粧してやったのもバニーだった。
「ネーナは黙ってたら美人なんだから、もうちょっと身なりと言葉づかいに気をつけなさいよ。さっきの髪飾りだって、あなたの薄茶の瞳によく似合ってたわ」
「めーんどくさーい」
鼻に皺を寄せて顔をそむけ、ネーナは壁沿いにどんどん進んでいく。ぶつかったり押しのけられた人の迷惑顔にも、おかまいなしだ。やがて出場者や裏方のスタッフが出入りしている扉を見つけると、バニーの後ろに下がった。
入り口に立っている兵士の制服を見たところ、王宮から派遣された警備らしい。そちらを顎でしゃくり、相方の鼻先にびしっと人差し指を突きつけて命令する。
「ほれ、魔術師組合デスって言えよ」
「え、えぇ? それって効果あるの? むしろ組合の名前は出すべきじゃ――」
「知ったこっちゃないよ。おなかすいてんだから早くしろ!」
「なんの関係があるのよぉ」
すごい顔で睨んでくるネーナと警備兵とを、おろおろしながら交互に見やっていたバニーが、あっと小さく声を上げた。
「見て、ネーナ! どっか行っちゃった!」
見てと言っておきながら、彼は振り返る間もなくネーナを肩に担ぎ上げて走り出した。振動でごつごつの肩が腹に食い込んでは吐きそうになるのをこらえ、ネーナは身をよじって進行方向を見やる。
「お、おぉ! でかしたオカマ!」
「オカマって言わないでッ!」
言い終えると同時に裏口から闘技場に滑り込み、バニーは天井から下がったカーテンの間をするすると移動した。ほどなく狭い廊下に行きあたり、小さな目をくりくりさせて周囲をうかがう。壁にかけられた蝋燭の明かりだけが頼りで、おそらくは出場者が控え室からアリーナに出るために使う通路だ。
「ここ、すごく入り組んでるのよねぇ……メイはどちらにいらっしゃるのかしら」
「高貴なお方は高い場所が好きって相場が決まってんでしょ。一番高いとこ行きゃいいじゃん」
二人の声は石壁に反射して、意外なほど大きく響く。
「私たちが行ってどうするの。おそばには近づけないんだから、お姿が拝見できる場所をさがすのよぅ」
「拝見とかいって、単なる盗み見じゃんよ」
バニーの肩に担がれたまま、ネーナはつぶやいた。
さっきの騒ぎで飴玉を丸々飲み込んでしまい、胸につかえている気がしてもやもやする。叩いてみても咳払いをしてみてもなおらず、いらっとした彼女はバニーの背中を力任せに殴りつけた。
「いたぁいっ! ちょっと、なにするのよぉッ!」
「うるさい! チケット買わずに忍び込んでるんだから、静かにしろ!」
バニーよりよほど声が大きいのは自分なのだが、そんなことは棚の上に放り投げる。
人に見つからないようしばらくウロウロしてみたが、絶好の覗き見ポイントもなかなか見つからない。観覧席の入り口で、係員がチケットを検めているのも一因だ。そのうち建物を揺らすほどの歓声が遠くから聞こえてきて、本日の第一試合が始まったことを知った。
「……おなかすいたなぁ」
「さっきは後にするっていったくせにぃ」
「いまの騒ぎで急に徒労感に襲われた、そうしたらおなかすいたんだよ。バニーのせいだ。なんとかして。飴はやだよ」
頭の上からきっぱりと言い切られ、バニーはため息をついた。ネーナの大食らいは今に始まったことではないし、彼がそのわがままし放題を許してきたのもまた、今に始まったことではなかった。
そっとネーナを床に下ろし、バニーは支給品のコートを脱いで足元に敷いた。観覧席近くの通路は、舞台裏よりは明るくて暖かいが、それでも石畳の上には座らせられないと思ったのだろう。たとえ相手が、大食いと力持ちだけが自慢の乱暴者であったとしても。
「ここに座ってて。絶対に動かないで。おいしいものをチラつかされても、知らない人についてっちゃダメよ?」
「わたしは子どもか!」
「あら、十七は子どもよ」
岩のような顔を笑みの形に作り直して、バニーはキョロキョロしながら通路の向こうに消えた。
バニーのコートに遠慮なく腰を下ろし、ネーナは膝を抱えて小さくなった。劇的な効果はなかったが、それでも尻にわずかなぬくもりは感じる。
自分の膝に額を押しつけ、目を閉じる。うねるような歓声が大きくなり小さくなり、心地よく耳をくすぐると、空腹よりも眠気が強まったように感じた。
(眠い……昨日、遅くまで仕事してたのがいけなかったか)
昨夜は今朝に備えて――ネーナにしては珍しく酒も飲まず――家に持ち帰った書類を相手に悪戦苦闘していた。
ドワーフの王国の略史と、産出される希少魔導鉱のリストの読み込み。それらを元にして造られる各種魔導用具の発注用書類の作成。経理課が出してよこした予算と、開発課が持ってきた見積は、天と地ほどの開きがあったように思う。
暖炉の前に広げた書類を思い浮かべるが、思い出せるのは表紙とタイトルだけで、内容はさっぱりだった。あんなに読み込んだのに。何度もノートに書き取ったのに。
「……やっぱわたし、本物のバカなんだな……」
わかっちゃいたけど、と盛大に息をついて顔を上げると、目の端に黒いズボンの裾が映った。
一瞬バニーかと思ったが、気配も足音もなかったことに気づいて身体が硬直する。それでもゆっくり、目玉だけ動かして脚から上の付属品を確認した。
まず剣を包んだ銀の鞘。赤い石が埋まった柄。幅広の相当な大剣だ、ネーナでもなければ持ち歩くのがやっとだろう。普通なら腰に佩いて平然としていられる大きさではない。きっと魔導鉱を例の魔術でちゃちゃっと細工して、変性させたものだ。自分の給料じゃあ一年分ではきかないな、と計算してしまうのは、需品課職員の悲しい性か。
磨き上げた黒いブーツのつま先、足首まで覆うたっぷりとしたマントの表は黒、裏地は暗い赤。銀糸で大きくなにかの縫い取りがしてあるようだ。魔術師のものに似ているが、材質があきらかに異なる。その人が腰に手をあてているために肘で布地が持ち上がっているが、そうでなければ袷が深くて服まで見えなかっただろう。
それから腰丈の上着。ベルトに竜の横顔を打ち出した銀のバックル、上着のボタンはかなり大ぶりでなにか文字が彫ってある。学生時代に記号学の授業で習った気もするが、ネーナには花や星と同じような絵にしか見えない。
そして左だけつけた肩当。――竜の爪を象った。
「……ま、さか……」
そして衣装の持ち主は、頭のてっぺんから顎まで覆う黒い被り物をしていた。ネーナの角度からでは、咽喉仏しか見えない。よく見ると薄い紗を重ねたその布は、きっと内側からなら外の様子がよく窺える。
額のあたりから頭部を、複雑な曲線を描く細い銀細工の輪で囲い、被り物をとめている。少々の風では脱げたりしないだろう。
全身黒尽くめ。正体を隠すように被った布。そして片方だけの肩当。
「……黒竜、騎士――?」
初めて見た、と呆けている場合ではない。
トランティア騎士団の頂点、黒竜騎士の実態は太子の親衛隊だという。今の太子はメイを名乗るガリオン王子。今ここに黒竜騎士が現れたということは、女王の名代であるメイに随行してきたというわけで。それはすなわち、この近くにメイがいるということに他ならない。
ネーナは貧血に似た眩暈を感じつつ、視線を下げてあわてて両手を振った。
「あ、怪しい者ではございません! ちょっと迷子になっただけで、メイを覗き見しようとかそんなことは!」
騎士は黙って、腰にあてていた手を上げて腕を組んだ。鞘が揺れて剣を吊った鎖がベルトにあたり、かすかな金属音が響く。
「の、覗こうとは、思ったりもしましたが……メイご本人にどうとか、そういうわけじゃ……」
よく考えたら、まだタダ見を目論んだことがバレたわけではない。しかしそれに気づいたところで、今さら誤魔化すにも手遅れだった。
「その……」
反応のない騎士に気圧され、口ごもった。遠い歓声が聞こえるたびに、なぜか絶望的な孤立感を味わう。
かすかな衣擦れの音に、ネーナは顔を上げた。
かしゃん、と銀の輪が飾りの鎖を鳴らし、黒い紗が引き下ろされ――騎士の顔が露になる。伏せていた瞼を開け、その騎士はまっすぐにネーナを見下ろした。
若い男。おそらくネーナといくつもちがわない。
ざっくりと伸びた黒髪は、首の後ろで束ねられている。尖り気味の顎、薄い唇、高い鼻梁。それらが形作る顔立ちは端整だが、なにより夏の空みたいに澄んだ明るい青の瞳に、ネーナは呼吸をするのも忘れた。
こんなに明るい青、見たことがない。
「あ……の……」
放心したまま、口が勝手に言葉を吐き出そうとする。すると騎士は眉を上げ、人の悪そうな笑みを浮かべた。
「なんだ、見惚れたか?」
はっきりとからかう低い声に、ネーナは我に返った。
「ち、ちがう、びっくりしただけです! 黒竜騎士が顔を見せるだなんて――」
今度は自分の発言に驚いて、言葉を飲み込んだ。
そうだ、黒竜騎士は主の前以外では絶対に顔を見せないはずだ。顔どころか、全身をマントで覆い、身体つきすらわからなくしている。そしてたとえ宰相閣下に求められても、決して一言も発さないと聞く。徹底して個人を特定させないのだ。
「……見せるだなんて?」
騎士の口元には余裕ありげな笑みが浮いたまま、眇められた目は明らかにネーナの様子を観察している。わかっているのに、釈明の言葉ひとつ出てこなかった。
高みから見下ろされることにも威圧されるが、空色の目にまっすぐ射抜かれて、文字通り床に磔にされているような心地になる。しかもその目はお世辞にも笑っているとはいえなかった。
「――ごめんなさい。そんなにメイのおそばに近づいてるとは思ってなくて」
ネーナが目をそらしてうつむくと、さっきより金属音が大きく聞こえて、彼が自分の前に片膝をついたのがわかった。
「そんな、この世の終わりみたいな顔をしないでくれよ。メイは試合をご覧になっておいでだ、近くはないさ」
一転、優しげな声とともに差し出された手を、まさか断れるはずもない。渋々とって立ち上がり、バニーのコートを拾い上げる。すると騎士はそれを指差して、なぜか不快げに言った。
「随分デカいな。話し声がしたのは……彼氏か?」
「は? いえ、これは友達のです」
あんな岩の怪物みたいなオカマがカレシだなんて、いまこの状況よりもありえない。
バニーのコートをたたもうとして、ネーナは気づいた。
炎をバックに、二本の杖をぶっちがいにした紋章――胸に大きく、魔術師組合のワッペンが輝いていることに。
「あっ!! あの! しょ、処罰されるんですか? どこに出頭したらいいんでしょう、騎士団の詰所ですか?」
背後に隠すには巨大すぎる布の塊を床に投げ捨て、ブーツのつま先で横に押しやる。
だが要人警護のプロに、稚拙な誤魔化しはきかなかったようである。
おそるおそる見上げると、騎士はその端整な顔から表情を消して細く長い指を顎にあてた。
「おまえのトモダチ、魔術師組合?」
「はぁ。いや――友達がっていうか、その、わたしもっていうか……」
しどろもどろで答えると、今度は頭のてっぺんからつま先まで、責めるように眺めてくる。その遠慮も容赦もない視線に気圧されながらもまだ、顎を上げてそれに耐えるだけの根性はあった。
(くそぅ、なんでこんなことに……ボスの呪いか? いや、ジールの野郎だ! 前から怪しいと思ってたんだ、あの陰険眼鏡め! 鍋の見張り番を放棄したくらいで、これだから根暗なガリ勉はいやなんだよっ。上昇志向のエリートなんか大っ嫌いだ!)
歯を食いしばって平静を装うその内側が、かなり支離滅裂になっていると本人は気づいていない。
いけすかない組合長秘書の首を絞める妄想に浸っているうちに、騎士はなんらかの結論に達したようである。
「もしかして、おまえ――」
つぶやいたきり、騎士は難しい顔で何事か考え込み、やがて首をかしげるようにしてネーナの顔をのぞきこんだ。
「メイに、会いにきたのか?」
「はぇ?」
思わず間抜けな声で聞き返したとき、騎士の背後から野太い悲鳴が響いてネーナの鼓膜を突き刺した。
「きゃあぁぁぁ! ネーナになにをするの、痴漢! 強制猥褻で訴えてやるーぅッ!」
床を鳴らして突進してくる怒れる小山。ぶちあたったら昇天できる勢いのそれを、ネーナを抱えて軽くかわした騎士は声を上げて笑った。
「痴漢に間違われたのは初めてだ」
「図々しいわねッ! ネーナを放しなさいったら、こ、の――」
猛牛のごとく見事なターンで振り返って正面から騎士の姿をとらえた岩石魔人は、おもしろいくらい顔色をなくして小さな目をいっぱいに見開いた。
「あ、あなたは――」
そして喜劇の大道具かと思うほどしゅーっと小さくなって、冷たい石の床に座り込んだ。
「うそ、だって、そんな……」
「あんた、早とちりの天才だよ、バニー」
自分たちがチケットなしで裏口から忍び込んだことを忘れて、メイの親衛隊を痴漢呼ばわりしたのだ。処分どころの話で済みそうにもなかった。
「仕事クビかな……もしかして牢屋に入るのかな……」
知らずつぶやいた言葉に反応したのか、バニーは心持ち立ち直った様子でネーナを見上げた。
「だ、だだ、だってだってネーナにキスしてるように見えたんだものっ! 泣かないでよ、ネーナ! 牢屋だってどこでだってが私が守ってあげるからぁ!」
「おまえは男用の監獄に行け!! あほか!」
「ひどーぉいぃッ!」
大きな石に窪みをつけて埋め込んだような小さな目からぼろぼろと涙をこぼし、バニーがネーナの腰にすがりついて泣く。その頭を抱えながら、泣きたいのはこっちだ、と思ったとき。
「確かに、メイの暗殺を謀った咎で罰することもできそうだな。俺が個人的に名誉毀損で訴えるのもかまわんが、公務中の黒竜騎士の素顔を見たから反逆罪でもいいな」
(顔!? 顔なんてあんた、勝手に見せやがったくせに――)
その場違いに愉しげな声に猛烈に腹が立ち、ネーナは騎士をぎっと睨みつけた。
「お好きになさればいい! でもこのオカマはちがう、わたしが忍び込むよう命令したんです。こいつはわたしに逆らえないから。それと、組合も無関係です。勤務中に不謹慎なことをしたのは確かですけど」
しかしネーナより頭一つ以上背が高い騎士は、彼女が睨んだくらいでは怯む様子もない。
「メイがご臨席される試合の会場に制服で忍び込んで、無関係ね。魔術師組合から、騎士団への挑発行為と受け取ってもかまわないぜ?」
返す言葉がなかった。
「うっうっ、いやよネーナ……まだ離れたくないわよーぅ」
おいおいと声を上げて泣く親友の頭を抱え、短く刈り込んだ硬い焦げ茶色の髪をなでながら、ネーナは唇をかんだ。かみやぶってしまう寸前、冷たい指が頬に触れる。顔を上げると、あの青い瞳がネーナの目を覗き込んでいた。
「全部、見なかったことにしてやってもいい。――そのかわり」
「そのかわり……?」
途方に暮れる思いで力なく見つめ返すと、騎士は端整な顔を傾けてネーナの耳に低い声で囁きかける。
「結婚しないか、俺と」
「え――?」
だが続く台詞は響き渡るひときわ大きな歓声に大半がかき消され、ネーナにこれは夢なんだと思わせた。