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閑話
「賢者の元カレがさぁ、魔神だったって話。知ってる?」
のほほんと間延びした声に、眠りかけていたランザ・ベイルマンの反応は一瞬遅れた。
……また突然、なにを言い出すのか、この男は。
壁を向いて横たえていた身体を仰向けると、ベッドの横で水のグラスを持って立っている男の半裸が見えた。眠たげでも顔を見せたことに喜んだのか、腰を折ってランザの額、鼻の頭、唇へと順にキスを降らせる。それからもぞもぞと上掛けの中に潜り込んできて、冷えた腕でやっと汗の引いたランザの身体を抱き寄せた。
「ランザさん、眠い? 起こしちゃった?」
などと気づかうようなことを言ってみてはいるが、もとより睡眠を妨害する意図が見え見えである。しかし休日の早朝に前触れもなく降って涌いた、しかも奔放で粘着質な彼との情事に疲労困憊ではあるが、時刻としてはまだ昼前だ。
明日は仕事だし、起きていなくては生活のリズムが狂ってしまう。ぼんやりと砂色の瞳を見ていたら、彼――シュッツェ・ブラウストはくすっと笑った。
「寝ぼけてるランザさんも、可愛いね」
形よく筋肉をまとった腕に促されて遠慮なくそれを枕にし、ランザは乱れた金色の髪をかき上げてため息をついた。
「……賢者って、だれのこと」
いま王家から称号を賜っている魔術師は三人いる。だが元カレというくらいだから女性で、となればダラハーガの『境界を越える者』を指しているのだろう。残る二人は高齢で、男性だ。けれどランザは、いきなり半年も音信不通になったくせに今朝方ひょっこり、まるで昨日もそうしたと言わんばかりに自分の部屋を訪れた彼に意趣返しがしたかった。
「あれぇ、ランザさんったら妬いてるのぉ?」
しかし素っ気なくシラを切ってもわざわざ曲解などされて、それすらも面倒になってしまう。極限まで昂揚した心と身体が鎮まりかけているときに、頭を使うのは億劫だ。
「わたしが妬かなきゃなんない賢者といったら、ベルテジェネ様しかいないわね。……まあ、あんたなんか相手にされっこないでしょうけど」
「ランザさん、ひどぉい」
まるきり傷ついていないその笑顔に疲れが増す。自分の顔立ちが女性に与える効果というものを、十分以上に知っているのだ、この男は。
「で? 魔神が元カレってどういうことよ」
「知らない? あの賢者殿、メイ直々の招聘蹴りまくりでダラハーガに居着いてるんだって。生まれ育った町だからってことだけじゃなくぅ、死んだ恋人の思い出に殉じて」
「死んだ……じゃ魔神ってなによ、比喩?」
「ううぅん、そのまんま」
埒が明かない。
肩から背中、腰へと下がろうとする冷たい指先を後ろ手にぎゅっと握ったとき、ふと学院時代に履修した講義を思い出した。
「待って、ダラハーガの魔神って聞いたことがあるわ。確か世にも美しい青年の姿とかいう……。そうそう、『陽光を編んだ冠の如き黄金の髪、ダラハーガの海を閉じ込めた碧の瞳、夕暮れ色の魔法を編めば』って歌があったじゃない」
「えー、そこぉ? ダラハーガの魔神オルデスト・ロンハリドっていえば、人に交じって暮らした唯一の個体とか、顕現年数が記録上ぶっちぎりの一位とか、なんかいっぱい尾鰭のあったヒトなのにぃ?」
シュッツェが鼻に皺を寄せ、心底嫌な顔をする。
「あら、ほかにも知ってるわよ。魔神のくせに海賊だとか、兄弟船に隻眼の双子を乗せていたとか。素敵よねぇ?」
夢があるわ、と続けかけて言葉がとまる。
だがその美しい魔神は賢者の恋人で、死んだとシュッツェは言ったのか。
現役の学生か研究職なら、教授や塔の担当者などを経由して噂も耳に入るだろうが、いまのランザは魔術師組合で金庫番をしている職員だ。大都市とはいえ王都から遠く離れたダラハーガの、まして魔術師の商売にはまったく無関係な魔神の話など回ってこない。
それはおいても、授業で習った存在が知らぬ間にこの世から消失していたことに、思いのほかショックを受けた。
「……魔神って、死ぬのね」
やけに神妙に響いてしまった自分の言葉が不吉で、縋るように彼を見やると、砂色の目が猫のように細められた。
「そりゃ死ぬよぉ、顕現した肉体は物質界の法則に準拠するっていうからねぇ。でもオルデストは死んだっていうかぁ、殺されたらしいよ?」
「えっ」
しんみりとした心地まで吹き飛ばし、驚いたランザの思考がしばし停止する。ランザの常識では魔神は不死身で、消失は本人の意思によってのみ起こることだからだ。
塔の研究によると、魔神というのは魔法界、特に数法界に漂う巨大な『意思』の中から遊離して、物質界に完全な肉体を構成し顕現した個体を指すという。一説によれば彼らはこの世界を創る基である原始魔導式そのものであり、現代の魔術師が操る式とはまったく別系統の魔法が完結した形である、ということらしい。つまり存在自体が特級魔導具のようなものなのだ。無論ごくごく稀な存在で、かつ彼らが人間を好まないために資料はそう多くはない。
「殺されたって……だれに? どうやって!」
知らずランザは肘をついて起き上がり、寝転がるシュッツェを見下ろす。まっすぐな性の金色の髪がさらりとたくましい胸の上でわだかまり、彼はくすぐったそうに肩をすくめた。
「それは知らなぁい。けど、心当たりなら、ある」
仔猫の顎でもなでるように優しい手つきで髪を払いのけ、ランザに倣って両肘をついて身を起こす。かくん、と首を傾げてランザの菫色の瞳を覗き込む彼の口元には、皮肉げな笑みが浮かんでいた。
「軸にする数の記号に基づいて、魔神は概念の上に拠って存在してる。同じことを話していても共通の言語でなければ会話が成立しないように、その概念を同義でありながら別の記号に変換して式を組めば、魔神にはその解が導けない。魔導は完全理論に基づく学問でもあるけど、決して数理じゃないんだよぉ」
「……ごめん、意味がわからない。解が導けない?」
動く原始魔導式である彼らにとって、現代の魔導式など児戯に過ぎないのではなかろうか。そんな疑問が眉のあたりに刻まれたランザに、シュッツェは下瞼を押し上げるようにして目を眇めた。
「たとえばぁ、東大陸にも魔導士はいるじゃない? 漢字って知ってるでしょ? あれで数字を書いて出鱈目に散らして、古バルファイ語の式を組んだらどうかな。塔の言い分だと法界での魔神の素同士っていうのはぁ、『意思』の中で、意識下による観念的な、会話に類似したものはあるとされてるわけ。隔離された情報を持つ部分を仮に個として、それを『意思』に融け込ませた段階で個ではなくなるんだって。でも西大陸で顕現する魔神の基礎言語は、必ず古バルファイ語なんだよねぇ。他のどの言葉を学ぶにしても、翻訳の基準が母語になるってとこは人と同じ。式を解読する時、自分の認識からかけ離れた記号に置換されるすると、意味を読み取れたとしてもラグが生じるでしょ。会話なら問題ないレベルでもね、魔術の展開や発動時のそれは致命的な遅れになるんだよ」
「…………」
わかる? とばかりに小首を傾げられ、ランザは軽い敗北感に陥った。
流石、とは口が裂けても言いたくないが、やはり腐っても白鷹騎士。しかもシュッツェは究極に難解な魔導式の展開と発動を同時にやってのけ、そしてそれを延々と繰り返すことのできる凄腕の魔導士だ。だからこそ白鷹騎士団の中でも特別なポジションにいる。
学院時代の成績は中の上、平々凡々な一般学生だったランザには、彼の解説が半分も理解できなかった。言っていることはわかる、でもどうやって実現するのか、一体どんな結果を導き出す事象なのか、見当もつかないのだ。
こういう時、ランザはシュッツェを自分の恋人だと思えなくなる。
急にいなくなったり現れたりする彼に文句を言いつつも、騎士団の任務ゆえであろうことは察し、あえて問いつめたりせず寂しさや恋しさはひっそりと我慢した。いつ命を落としてもおかしくない仕事だ、彼のことがとても心配だし、愛しているはずなのに、いまは同じベッドにいることがひどく疎ましい。
多分、とランザは思う。シュッツェの言動は時に、ランザの心を過去に戻してしまうのだ。血を吐くほどの努力をしても、影の先にすら追いつけない、優秀な魔術師たち。自分に才能がないことを認められず、胸が焦げつくほど嫉妬して苦しかった、学生時代に。
トランティア女王国の誇る白鷹騎士団。その中にあって最強の魔導士――それはつまり、西大陸における魔術師の頂点を指す。
それが自分の恋人なのだと、誇らしく思うにはランザのプライドは安すぎた。学院を卒業して何年もたつのに、まだ見果てぬ夢に残す未練を捨てきれない。
魔導士になりたかった。真っ白に輝くローブをまとい、青い宝玉を嵌めた白磁の杖を携えて。自分の指先から放たれる魔導光の色を、この目で確かめてみたかった。
だが夢が形を取ることがあったなら、この男の姿をしているのだろう。
「……ランザさぁん」
黙り込んだランザへと囁きかける声に甘い気遣いを感じ、唇を歪める。
死んだ者を生き返らせろと言うくらい、ランザの未練は虚しい。その苦しみはわからないくせに、苦しんでいることだけは知っているシュッツェ。彼が隣にいなければ、もっと早く忘れることもできたのに――。
二人の汗を吸ったシーツの上、身じろぎしたのは無意識だった。そこに生まれたわずかな隙間を、互いの心が寄り添えなくなる瞬間を、強引な仕草で摘み取ったのはシュッツェだった。
俯せたランザの背を滑った手が腰を引き寄せ、あっと声を上げる間もなく仰向けになったシュッツェの胸に抱き上げられていた。
「わぁ、いい眺め」
垂れた目尻をいっそう下げる彼の視線を追って、自分の胸が捧げもののようにシュッツェの顎先に突き出されていることに気づいた。
「スケベ!」
ぱちんと音がするほど勢いよくいやらしい目元に掌を叩きつけて覆い、逆の手で胸を隠す。厚みの異なる唇が弧を描いているのを見て、強張っていた身体から力が抜けた。
忘れさせてくれないのは、彼が傲慢だからではない。恵まれただけの思いやりがないひとだからでもない。人間が弱いものだと、簡単に楽な方へと歪んでしまう生き物であると、知っているからだ。おそらくは、自らもそうだから。
ただ、歪みたがる自分を矯めずには、理想の道を進めないことも知っている。苦しみ悶えさせてでも、ランザと共に行きたがってくれている。つぶれてしまうかもしれないけれど、それでも。
高潔で、潔癖で、停滞を許さない求道者。彼がこの世のだれよりも優れているとしたら、魂の在りようが美しいからだと、ランザは思った。太陽に嫉妬しても、眩しすぎてその姿を睨むことすらできないのだ。
灼けるような憧憬と絶望を、忘れることは難しい。でもその記憶をすんなり流してしまうほど、自分は愚かでも浅はかでもないのだと、ランザを支えてもくれるのだ。安いプライドでも、ランザが魔術師であり続けるためには必要で、そしてそれを失いたくないと強く願っているのだから。
魔術師とは世にも度し難い生き物なのだと言ったのは、そういえばダラハーガの『境界を越える者』ではなかったか。
「……あはは」
不意に些細なことで深刻ぶった自分がおかしくなって、ランザは声に出して笑った。そうすると、すうっと心が軽くなる。
ここにいるのは、自分の恋人。スケベなくせに浮気はしない。隠し事はしても嘘は吐かない。態度は軽薄なのに、ランザをなによりも大切に愛してくれる男。
十分だ。なにがというわけでもないけれど、もう十分だった。
シュッツェの目を隠したまま、ランザから口づけた。やわらかく食んだ唇が薄く開いて、ランザの舌を誘う。あっさりと誘惑に負け、深く甘いキスにしばし溺れた。いつの間にか手は彼の頭を抱え、下肢をすりつけ合うようにして体の上下が入れ替わる。
「……どうして」
「ん……?」
離れた唇を名残惜しげに目で追うシュッツェに、ランザは微笑んだ。
「魔神は概念だけの存在なのに、どうしていちいち式を読む必要があるの?」
その瞬間彼が浮かべた表情に、ランザは満足した。この男の意表を突けることなんて、そうそうない。
「えー……いまぁ?」
わざとらしくしかめ面をし、兆しかけた腰を押しつけてくる。上掛けの下で艶かしく脚を彼の身体に巻きつけながら、機嫌よくうなずいてみせた。するとしばし葛藤する時間を挟み、シュッツェは諦めたようにランザの胸に突っ伏した。
「だからそれはぁ……なんだっけ……実体化に伴う固有意思の形成で、人に近い思考形態を持ったからだよ。顕現の形が人を参考にしてることは確実でしょぉ、当然感情の振幅も大きいじゃない。つまりぃ、人に酷似した肉体を作れるような、発動する魔法の強い魔神ほど、結局は人と同じ弱点を抱えるってこと」
そもそも自分から始めた話なのに、ぼそぼそと説明するシュッツェはとても不満げだ。時折もどかしげに身じろぎするのが可哀想で可愛くて、ランザはやわらかい砂色の髪をゆったりと撫で梳いた。
「それって、概念だけで式を読み取る――感じることもできるのに、つい字面を追ってしまうってこと?」
「そーそー。つい、だよ。人の魂を弄ぶために似せた姿が、自分たちの足を掬うわけ。場を形成して幻像で顕れることもたまにあったみたいだけど、肉体を伴って顕現しても人間に交わろうとする魔神っていうと、オルデスト以前は皆無だったんだよねぇ。消失後『意思』に戻っても知識の蓄積に時間差ができてぇ、結果ぁ、ここ数百年の魔導学の飛躍的な発展に、奴らの前時代的な認識が追いつかない」
「ふぅん……さっき漢字って言ったけど、適当に自分で作った記号でも惑わせられる?」
浮かんだ疑問を口にすると、シュッツェはランザの胸に頬をつけてこちらに顔を向けた。
「魔導はきちんと体系立てられた理論だよ。諸説あっても、世界の真理に向けて端から芯に近づいてる。魔神は、言ってみれば純粋な理論の中でしか存在することができないんだ。だから魔神と魔術師の間に、共通した理論と認識がなければ無理」
「ああ、なるほど。――え? じゃあ賢者の元カレを殺したのってだれよ。西大陸の魔術師には絶対無理ってことじゃない」
『境界を越える者』の異名を持つ賢者、ベルテジェネ・ヨリュッカが称号を賜ったのは、彼女がダラハーガ魔導学院の在学生だった五年前だ。当時卒業試験を控えていたランザは十九歳で、新しい賢者が自分より一つ年下であることを知って荒れた。その時の悪行がもとで組合に就職することになるのだが……それはともかく、当時もいまも、魔術師と名がつけば卵だろうが魔導士だろうが、大抵のプロフィールは掴んでいるはずだ。学生時代は周囲が気になって仕方なかったし、いまは都の魔術師すべての所在と経歴にアクセスできる部署にいる。
だが、理論と認識を共有しつつ、魔神が知識として法界に蓄えながらも不慣れな記号を操ることのできる魔術師。そんな矛盾した人物の情報など、耳に入ったことはなかった。
「だからさ、それは知らないって言ったじゃなぁい」
「心当たりならある、とも言ったわよ」
やわやわとした手つきで膨らみにおいたをする手を、ぴしりと叩く。むう、と唇を尖らせてから、シュッツェは不意にランザの耳元に顔を寄せ、低く抑えた声で囁いた。
「ここだけの話、黒竜の仕業じゃないか、って思うんだけど」
「え……」
魔神といえばそもそもが貴重で稀少だ。過去の記録ではなく現在に限れば、東西大陸をあわせても顕現が確認されている個体は、確か三――いや、オルデスト・ロンハリドが既に無いのなら二体だ。まして『ダラハーガの魔神』は二百年以上の顕現期間を誇り、かつ人と暮らすことでわずかながらも得難いデータを残してくれた、特別な存在だったはず。
それを、メイの親衛隊が殺した――?
「――嘘。黒竜騎士って魔術師じゃないじゃない」
トランティア五騎士のうち、魔導力の保持者が所属するならそれは必ず白鷹騎士団だ。シュッツェの説と矛盾する。
続きを促す視線を向けるが、彼は肩をすくめてあっさりと流してしまった。
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどねぇ」
「なによそれ」
「えー、だって僕、ただ寝ちゃいそうなランザさんにかまってほしかっただけだもーん」
言うなりがばっと起き上がったかと思うと両脚を脇に抱えられ、ランザはぎょっと菫色の瞳を瞠った。
「ちょ、ちょっと待って! もう嫌よ、疲れたしおなかすいたし!」
「大丈夫、あとで僕がご飯作ってあげるから。ちょっとだけ、ね?」
脚の間に陣取る彼が腰に押しつけてくるものの、一体どこがどう「大丈夫」で「ちょっとだけ」だと言うのだろう。
だが厚みの異なる愛嬌のある唇で顎先をくすぐられ、それが唇をふさいでくる頃には、あきらめ半分嬉しさ半分で彼を受け入れていた。
たとえランザと恋人といえる間柄であっても、シュッツェは命令が下されれば、いつでもどこにでも飛んで行ってしまう男だ。無論、出立の挨拶など受けたこともない。今生の別れを交わしておくべき危険な任地へ旅立つときでも。
シュッツェが自宅のドアを叩かない日が数日続くと、ようやくランザは彼の不在を知る。そのたびに、胸が張り裂けそうな不安と闘わなくてはならないのだ。やはりこうして二人きりの部屋で抱き合い、互いの体温を確かめる時間を無駄にはしたくなかった。
「……ん……っ」
舌が絡み合い、唇がこすれ、ランザは小さく呻いた。身体の奥に灯った火で、気がつけば彼の手もひどく熱くなっている。
またいなくなるの?
どこへ行くの?
いつまでかかるの?
生きて帰ってこられるの?
彼がどこか遠くにいるであろう間、唇からこぼれ出そうな気持ちを飲み込みながら、普段とかわらぬ日々を送るよう努力する。あんな男一人、いてもいなくても自分になんの影響もないと自らに言い聞かせながら。
でないといつか、行かないでと泣いて縋ってしまいそうで怖かった。
けれどランザは、彼の所属も特殊な立場も知っている。とめてとめられる男ではないし、女に泣かれて仕事を疎かにする男などお断りだし、なによりそんな愚かな女になりたくはなかった。
ランザも魔術師だ。目指す理想と現実の狭間、理と律に頑ななまでに囚われ、不自由に悶える魂を抱え、自分が感情や主観に流されない生き物だと実感する瞬間にこそ無上の喜びを覚えるような、度し難いほどに魔術師なのである。そう、境界を越えた賢者が言ったように。
だから言えない。お願いだからそばにいてと、普通の女のように可愛い台詞を口にすることはできない。
音にならない言葉は、熱い吐息とともに拡散して、消えた。