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思わずガチンとかんだフォークから、鉄の味が舌の上に広がる。びっくりして固まったネーナの横で、ジールが口先からパイの欠片をつまみ取って皿に戻した。
舌の上で溶けていくケーキを飲み下し、目玉だけ動かしてファイスの姿を上から下まで眺める。
やわらかそうな毛皮を裏に貼ったベージュのショートコートに、白いシャツ、厚手のズボン、歩哨が履くようなゴツゴツのブーツ。つやっとしてさらっとした黒髪は、くくらずにうなじからコートの襟に吸い込まれている。それだけなら普通の若造なのに、胸元と指を飾る派手なシルバーのせいで、途端に七番街をうろつく不良のように見えてしまっていた。
それがまた甘さを排したファイスの顔立ちに似合っているものだから、店中のおねえさま方がピンク色のため息をつくのもむべなるかな。昨日のように騎士服ではないけれど、黒ずくめの魔術師たちにまみれた空間で、今日も彼は別の意味で目立っていた。
「……他にも席は十分に空いているが?」
静かに答えたジールは、まだ頬から手を離さない。ネーナのほうにかがみ込んだ背も戻さない。
ジールの声など最初から聞こえていない顔で、直射日光を浴びる席にどかっと腰を下ろしたファイスはネーナを睨む。なぜそんな目で見られねばならんのだ、と睨み返すネーナの前から、カフェオレのカップが持ち去られた。
断りもなくひとのお茶を飲んだジールは、ゆっくりと身を起こして背もたれに寄り掛かった。
「座っていいと言った覚えはない」
冷ややかなその声、その視線。
(出た、陰険眼鏡! いけ、エロ騎士をやっつけろ!)
内心で手を振り上げての熱烈な声援を送るが、現実のネーナの手は皿の上の食い物を口に運ぶという仕事を忘れない。雪の精霊も裸足で逃げ出す極寒の空気を互いに醸しながら睨みあう二人を横目に、己の手が促すままに口を動かした。
「あんたの許可がなくても、俺はこいつと同席する権利がある。そうだな?」
ちろりと向けられた空色の瞳は凶悪だったが、ネーナはあっさりと首をひねった。そんな遠回しな言い方をされても、よくわからない。
ネーナの血の巡りの悪さをいつも馬鹿にするジールは、しかし都合よく普段の悪態を封じてみせる。
「彼女の同意は得られなかったようだが」
「本当にそうか、ネーナ? 忘れているなら、思い出させてやってもいい。いま、この場で」
唇を吊り上げるようにして微笑みかけてくるファイスの目が、笑っていない。ホットサンドを口に押し当て、ネーナは食いちぎった分を噛まずに丸飲みした。
これまで、忘れたことを思い出せたためしなどなかった。しかしいま、できないことでもやってみせなければ命に関わる――そんな強迫に駆られ、食べ物を皿に置いて居住まいを正した。
「えっと……なんだっけ……」
頭の中で必死に昨日までの記憶を探る。おもに目の前にいる騎士についてだ。そしてまんまと屈辱の出会いから驚愕の謁見などをぶっ飛ばし、薄暗い馬車の中で、酒場の狭い部屋でされた行為だけに光をあててしまった。
「……ッ」
かーっと顔を赤く染めてあわててうつむき、ネーナはぎりぎりと奥歯を噛んだ。なぜこんなことを忘れていられたのだろう。乙女の平穏を乱すセクハラ野郎にはもっと毅然とした態度をとってしかるべきなのに、うっかり堂々とテーブルにつかせてしまったなんて!
「ネーナ?」
頭の上にジールの訝しげな声が降る。だが顔を上げられない。思わず椅子の上で腰をよじり、頭を抱えて彼の背中に半身を隠した。
芋づる式に引っ張り出された情景によれば、確かにファイスにはネーナと同席する権利がある。なぜなら彼は、ボスであり義父である人、それから雲上におわし史上稀なる太子殿下も認めた、ネーナの――夫なのだから。
怒り狂う猛獣の如く叫び出したい欲求と必死で闘い、勝手にぴくぴくする鼻を酷使して深呼吸する。やがて血液の濁流がいろんなものを押し流してようやく、ネーナは顔を上げることに成功した。
テーブルに向かい乱れた髪を手櫛で整え、場を仕切り直して自らを鼓舞するための咳払いをひとつ。しかし腕を組んでふんぞり返るファイスの顔は見られないまま、歪めた唇を嫌々開いた。
「……わかった。そこにいてよし」
横からジールが非難の眼差しを惜しみなく注いでくれるのだが、ネーナとて好きで許可したわけではない。それでも見るからに彼と気の合わない、というより話の通じない相手と自分の都合で席を一緒にさせるのだ。さすがに申し訳なくて、トンとジールの肩に肩をぶつけて小声で謝った。
「ごめん。マジで。食べ終わったらすぐ出てくから、ちょっとだけ我慢してよ」
言いながら早速皿をきれいにするために手を伸ばす。ジールは耳のあたりに頬を寄せ、ぼそぼそと囁き返してきた。
「おまえも一緒にか」
「そりゃ……だってわたしになんか用があるっぽいし」
「出張にはあいつが同行するんだろう。大丈夫なのか」
なぜ知っているのだ、とジールを振り仰ぐと、拳ひとつ分も離れていないところに仏頂面があった。
そういえば、昨日あの騎士は組合長に会って話をしているのだから、もしかしたら秘書としてジールもその場にいたのかもしれない。いや、事実いたのだろう。
気づいた途端、全身にボッと火がついたように熱くなった。
一時期とはいえ寝食をともにし、平均的倫理観を持つ若い女性なら「責任とって結婚して!」と言い出しかねない姿まで晒した、本物の家族のようなジールと――時も場所もこちらの困惑もおかまいなし、雄の眼差しでしかネーナを見ようとしないファイスが、一緒のテーブルについている。
ネーナは頼りなく眉を下げたまま、ちらっと一瞬だけファイスの顔を見やった。なにやら不快指数が上昇したかに見える彼の、薄い唇。あれが自分に触れたのだ。表面ばかりか粘膜を用いての接触まで強いられたのである。
なぜだか無性に恥ずかしかった。舌が口の中をまさぐる感触まで鮮明に蘇って、それがお粗末な脳みそから周囲にダダ漏れになってジールに知られてしまいそうな気がする。苦労して下げた血がまた頭のてっぺんまで上り、ネーナは真っ赤になって思わず手の甲で唇をこすってしまった。
「……おまえがどうしても嫌なら、なにか別の方策がないか検討してみるが」
ジールの唇が耳をかすめ、小さく首を振る。自分と親友のためだし、高貴なお方とも約束した。既に多方面に多大な迷惑をかけているのだから、一緒に旅する男が怖いなんて理由で逃げたくない。
「だいじょぶ。頑張る。すぐ戻ってくるんだし、そしたら二度とヤツに会うこともないんだし」
意識して口の端を上げ、ネーナはジールにうなずいてみせた。痛ましげな表情をしたジールがなにか言いかけた途端、ゴンとテーブルの脚を蹴る音が響く。
「内緒話は終わったか」
なんて乱暴な、と抗議するよりもネーナはファイスを睨んだ。彼にはちょっと、己こそがこの魔術師組合における異分子なのであって、職員の皆々様の安らぎのひと時をぶち壊す邪魔者なのだという自覚が足りない。もちろん第一の被害者はネーナだ。
据わりきった目を向けてくるファイスに怯むことなく、一歩も引かぬ構えであると顎を上げて表明する。ネーナ自身は婚姻契約という形でこいつに関わる羽目にはなったが、事情を知らない知人にまで不愉快な思いをさせていいはずがない。
しかし無言のまま膠着状態に陥りかけたとき、重いため息をついたジールが渋々といった感じで腰を上げた。そして上から冷却光線をファイスに浴びせつつ、口ばかりはネーナに話しかける。
「……俺は戻るが、嫌なことは拒否してかまわないんだぞ。あちらもなにがしかの権利を有しているようだが、おまえもあちらに騎士としての職分や礼節を弁えてもらう権利がある」
小難しい言い回しがいまいち理解できなかったが、とにかくネーナのために牽制してくれたようだ。ありがたく神妙な面持ちで了解し、ネーナはくるりと踵を返して立ち去るジールを見送った。
「――なんだあれは」
憎々しげに独りごちたファイスの視線は、遠ざかる秘書の姿を追っている。なぜ組合長の秘書が、こうまで露骨な敵意を自分に向けるのかわからないのだろう。しかし事情を知らないジールからしてみれば、彼は単なる無礼者である。
「あんたこそなんなんだよ」
目の前にずらりと並んだ皿に手を伸ばす意欲もなくし――今日は午後から天気が崩れ、空から槍が降るにちがいない――、ネーナはじっとりとした目でファイスを見やる。
「迎えに来た」
しれっと答えるファイスに、ネーナは既視感を覚える。確か最近も同じことがあったはずだ。
「またかよッ! 今度はどこに」
「どこに? 予定が一日繰り上がった、と言えばわかるか」
自分が衆目を集める存在であることをわきまえているのか、はたまた単に極秘任務だからか、ファイスは目的地をぼかした。
「繰り上が――え、じゃ今日出発? いま? でも、明日の夜だって」
「それが繰り上がった、と言ったが?」
堂々巡りになる会話を楽しみ始めたか、余裕を取り戻したファイスの瞳に揶揄の光が浮かぶ。既に慣れ始めた眼差しに、ネーナはむっと口を閉ざした。
向かい側から伸びてきた手が、頬にかかる髪をそっと取りのける。そのまま指先が顎の線をたどり、親指で唇をわずかに開かれた。
「おまえの隣はいつだって俺に優先権があるというのに……おまえまで俺を邪魔者扱いしたな」
空色の瞳は甘い光線をネーナに放つが、低くかすれた声には若干の批難が混じっている。
拗ねているのだ、と気づいたらなぜか心臓がコトンと音を立て、なにやら咽喉の奥がむず痒くなる。
「本気で思い知らせてやろうかと思った。おまえにも、あいつにも」
親指でふにっと唇を押され、不吉な予感がして奥歯に力を入れた瞬間、顎先の大きな手が仰向くように促す動きを見せた。
顎を引くネーナと、それを持ち上げようとするファイス。バカバカしくも全力の真剣勝負は、後者があきらめて決着する。
「……ネーナ」
「っだよ、用があんならふつーにしゃべれよ!」
威嚇するように睨みつけると、しばしの沈黙の後、ファイスは大きく息をついて手をはなした。あぶない、奴なら立ち上がってテーブル越しに不埒な行いに及ぶことなど、屁でもなかろう。
「俺を忘れてはいけないと、教え込んだのにな?」
恨めしげに言った彼が見つめたのは、多分、安堵して知らず舌で湿したネーナの唇のあたりだ。
「俺はこの世で一番おまえが可愛いと思う。思うが、少し賢者殿から恋人に向ける正しい態度というものを教わっても、罰は当たらんだろうな」
ひそめた声を聞くために耳を傾け、ネーナはそのまま首を傾げた。
「……賢者って、恋人いんの? 嫁とかじゃなくて?」
ファイスの発言に若干不適切な部分があったことは聞き流し、拙い想像力を駆使して脳内に賢者図を描く。
黒いローブの裾をずりずりと引きずる白髭の爺様に、恋人。それはやはり年相応なご婦人か、それとも年甲斐もなく若いお嬢さんなのか。
「……嫁? あの方が女性だと、俺はおまえに言わなかったか」
訝しげな顔をされ、一応思い出す努力はしてみたが、わからない。
「さぁ。あ、そういえばなんか、思ったより若かったような?」
脳内賢者図から白髭をさっ引き、平均的トランティア人仕様の黒髪女性に変更してみる。すると恋人は男か。
ふむふむと斜め上を見ながら無意識にカフェオレに手を伸ばすネーナのほうに、怪訝そうにしていたファイスが身を乗り出す。
「……よくあるのか」
「なにが?」
「記憶が曖昧になるのは、頻繁に起きることか」
曖昧になる。ネーナは目を瞠った。バカだの物覚えが悪いだのと罵られたことは多々あるが、そんな親切な表現をされたのは初めてだ。
学生の頃、ネーナは必ず見聞きしたことをノートに記した。資料や教科書を読んでも、「聞いたのに忘れた」ことと「まだ教わっていないから知らない」ことの区別ができないからだ。両方を突き合わせてみて初めて、自分がその講義を受けたかどうか確認できた。
いまでもネーナはよくメモをとる。できれば頭の中に知識として蓄積したい、覚えておきたいと思うことは、自分の手で繰り返し書いてみる。もちろん、その努力が報われることはほとんどない。
しかし曖昧になる、とは言い得て妙である。確かに賢者に会うこと自体は覚えていたが、その詳細は忘れていたのだから。が、よくあることかと問われれば、自覚がないから答えようもない。
「いや……どうだろなぁ。みんなマタカって顔するから、そうなんじゃないの?」
言われてみれば、このところ記憶の虫食いがやや激しいような気もする。ファイスの「権利」に思い至らなかったのは単に迂闊だからかもしれないが、賢者の件に関してはおそらく昨日の話だ。それにボスは、一昨日なんだか約束をしたと言っていた。
もしかしたら他にもなにか、自分が考えるよりはるかに多くの出来事を忘れてしまっているのではなかろうか。
(……あれ。これってなんか、まずくない……?)
急に心細くなって、ネーナはそわそわと身じろぎした。
だれと会い、なにを話し、どんなことが起こったか。もしもその中に、大切にすべき言葉や思い出があったとしたら――明日の自分は、それを覚えていられるのだろうか。
いや、もう既に、忘れていたとしたら。
「――――」
冷たいものを飲んだように、腹からじわりと寒気が広がる。
いまはまだいい、バニーやボスの顔は見ればわかる。だが滅多に会わない人たちのように、彼らの顔を忘れてしまう日が来るかもしれない。そうなったらどうすればいい。これが単なる物忘れでなく、進行する病気かなにかだったら――。
「ネーナ」
自分の名を呼ぶ声に、はっと息を飲む。いつの間にか混みあいはじめた店のざわめきの中、大きくはないのに不思議と明瞭な響きで耳に届いた。
「大丈夫だ、なにも心配はいらない。大丈夫だ」
うなされて目覚めた朝のように激しくなっていた嫌な動悸が、繰り返される言葉に落ち着いていく。
ぎこちなく顔を上げると、テーブルの向こうからファイスがネーナを見つめていた。訝しげでも、痛ましげでもない眼差し。穏やかで優しいその瞳の色に、不意に涙が出そうになった。本当に、なにもかも大丈夫なように思えてきて。
「どんなに怖いことがあっても、俺が必ず守ってやると約束しただろう? ……大人になっても、ずっとそばで守ってやると」
問いかける声に胸が軋んだ。覚えていないからだ。それを聞いたのは昨日か、一昨日か。ふざけてじゃれついてくる彼の記憶に、そんな台詞は出てこない。
大人になっても? 十七歳は子どもだと、だれかが言った気がする。でもいまの自分の輪郭すらおぼろげなのに、いつか大人になる日など想像できない。
なにも言えずにうつむくネーナの腕を、かすかに椅子を鳴らして立ち上がったファイスがそっとつかんだ。強引な仕草、だがふわりと引き寄せるようにネーナを立たせ、店の出口へと促す。
ドアを開けた先には、突き刺すように冷たい世界が広がっていた。瞬く間に鼻の奥まで痛くなり、それが涙腺を刺激するのが悔しかった。
「……おまえのせいじゃない」
コートの裾を広げてネーナを胸に抱き込みながら、ファイスが煉瓦の小道に歩み出す。慰めとも言い切れない不思議な確信に満ちてはいたが、反論せずにはいられない。
「でも、あんたがなにをしても、なにを言っても、それがわたしのためでも、きっと忘れる」
ずるいな、と思った。予防線を張っているのだ。後になって、そんなことがあるかわからないけれど、二人で優しい時間を重ねた後で責められたくないから、容易に起こりうる未来を予言してみせる。
「それでもいいさ」
まるでちょっと気の利いたジョークでも聞いたように軽く笑い、ファイスは身をかがめてネーナの額にキスをした。
「忘れたと言うなら、それでもいい。忘れるたびに、何度でも約束しよう」
通りに出る正門の横で、ファイスは立ち止まった。コートの中で反転させられたネーナは、ぴったりと胸を合わせた格好で苦心して背の高い彼の顔を見上げる。薄い唇はやわらかく弧を描き、空色の瞳は熱を孕んで細められ、ネーナを見つめた。
「大人になるっていうのは、面倒だな、ネーナ。義理やしがらみや、自業自得の厄介ごとですぐに身動きがとれなくなる。だがなにを見ても、なにを聞いても、おまえが都合よく全部忘れてくれるなら――俺はいつまでも、あの頃のガキでいられる気がするよ」
あの頃、って? 訊き返したかったけれど、胸が詰まって言えなかった。忘れてもいいなんて、そのほうがいいなんて言い方、いままでされたことがなかった。なかったと断言できる、だってすごく、すごく嬉しいのだ。
「……ヘンなやつ」
このままでは泣き出してしまいそうだったから、白いシャツに額を押しあて、ぼそぼそと口の中でつぶやいた。ファイスは頭の上で朗らかに笑い、厚いコートごとぎゅっとネーナを抱きしめた。