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魔術師組合  作者: れもすけ
第三章 悪夢
16/19


 だれかが呼んでいる。

 ミルクを薄く流した水の中にいるような、薄明るいとも仄暗いともいえる霧の中。手を上げた自分の指先さえ見えない。

 だれかが呼んでいるのだ。聞こえない声で。知らない名まえ。

 自分が目を開けているのかもわからない。でも閉じてはいない気がした。そして若いとも老いているともつかない声が、呼んでいるのだ。


 ああ、いつもの夢だ。これから怖ろしいことが起きる、惨い結末を見ることになる、もう二度と味わいたくない苦痛が襲ってくる。知っているのに、目覚めることができない。

 もうすぐ流れてくる。身じろぎひとつできないまま立ち尽くすうちに、あの不気味な影がこちらに流れてくるのだ。赤い気配、黒いひと、真紅の闇、漆黒の光。

 やめてと叫んでも、嫌だと首を振ろうとも、唇をこじ開けて流し込まれる甘い毒。


 だれかが読んでいる。

 知らない歴史を、忘れてしまった思い出を、失くしてはいけなかった存在を。風が歌うような囁きで、ふさいだ耳に流し込む。

 なぜそれを読むのだろう。なぜ、覚えのない記録を繰り返し繰り返し、頭の中からあふれてしまうほど聞かされなくてはならない。


 呼んでいる。行かなくてはいけない気がする。でも、絶対に振り返ってはいけない気もする。

 だれが呼んでいるのだろう。なぜ、知らない名まえなのに自分のことだとわかるのだろう。どうしていつもいつも、目が覚めるとこの夢を忘れてしまうのだろう――。


 甘い匂いがする。飲みたくない。それはひとが口にしていいものではない。あきらめたら負けだ、飲んでも飲んでも尽きぬ毒――その味を知っているのなら、自分はもうひとではないのだろうか。

 絶望のやわらかい腕が手招きしている。

『――――』

 つま先から侵食する恐怖に、ネーナはそのひとの名まえを呼んだ。





 

 今朝の目覚めも最悪だった。

 あいかわらず黒いような赤いようなドロドロした夢を見てうなされ、息が詰まって飛び起きたときには、全身汗みずくだ。

 同じ集合住宅の隣室に住むバニーは早朝出勤なので、毎朝必ずネーナを起こしに寄ってくれる。でも今朝はまったくもってその必要もなく、逆にネーナのほうが腹立ちまぎれに彼を叩き起こしたくらいだった。

 それにしても、今日はひどい。

 いつもと同じ参内と出勤の喧騒に包まれた大路で、ジールに手を引かれて歩きながら、口をとがらせてむっつりと黙り込むネーナの周囲だけがどんよりと暗い。頭のてっぺんに分厚い本でも乗せているみたいで、身体がひどく重かった。眠い、ダルいと文句をたれる気力すらわかない。


 踵を擦りつけるように歩いていたら、不意にジールの手が歩道の内側へとネーナを引っ張った。突然の方向転換にたたらを踏むと、黒いインバネスの胸に頬を打ちつける。

 人の流れからはみ出た場所は職工ギルドの正門横で、敷地を囲む石造りの塀とジールの腕とで囲われ、ネーナは半分しか開かない瞼の陰から彼を見上げた。

「おまえ、明日から出張だろうが。体調が悪いなら無理をするな」

 その突き放した口調にむっとして顔をしかめたら、眼鏡越しに覗き込んだ青緑色の瞳が気遣わしげに眇められた。

「眠れないのか」

 そんなこと見ればわかるだろう、この充血した目と立派な隈。


 声を出すのも億劫で黙っていると、あたたかい指先が頬に触れた。それが思いのほか気持ちよかったので、目を閉じてほっと息をつく。

「……組合まで歩けるか? 一人の部屋に帰るより、医務室で寝ていたほうがいいだろう」

 ネーナが小さくうなずいたのを確認して、ジールは手をつなぐのでなく肩を抱き寄せるようにして歩き出した。

 今朝ほどではなくても、近頃こんな体調不良に見舞われる朝が増えていた。だが実のところ、仕事場に行きさえすれば不思議とこのダルさは消えうせるのだ。あの足の踏み場もないほどの散らかり加減に癒されるのか、それともあまりの多忙さに半狂乱になった職員の悲鳴が脳を刺激するのか、はたまた隣のデスクの岩石魔人の能天気さが効いているのか、とにかく職場では嘘みたいにすっきりしてしまうのが常だった。


「朝はなにか食べたか」

 食べた。箱いっぱいの焼き菓子を、ひとつ残らず。

 ジールに食わせてぎゃふんと言わせようとしたことも忘れて、ぼーっとコーヒーを飲みながら、はっと気づいたときには王宮印の焼き菓子を全部平らげていた。しかも味なんかわからない状態だったから、その悔しさたるや並みの話ではない。

 おまけに今朝のジールは一口大の極小タルトを持参していて、なめらかなカスタードクリームと生フルーツの前にあっては、一日置いた焼き菓子など膝を屈するしかなかったのだ。たとえ生き残っていたとしても。

 襟の毛皮にやわやわと頬をなでられつつ、ネーナはジールの胸に遠慮なく寄りかかって足を進めた。倒れるとでも思ったのか、肩をつかむジールの手に力がこもる。馬車が奏でるガンガラガンガラと目茶苦茶な車輪の音がうるさい。

「……大丈夫か」

 頭のてっぺんに口づけるようにして、低められた声が囁く。それが本心からネーナを案じているように聞こえて、緩慢に顎を引いた。




 魔術師組合の職員は、制服を着ている間は必ずどこかに組合章をつけるという決まりがある。組合長の眼鏡の秘書は、出勤途中はインバネスの襟に、そして就業時間内は上着の襟につけかえるという手間を惜しまない。

 ネーナ・ヴァス需品課課長補佐の場合、スカートの飾りボタンがあった場所に縫いつけてある。これならなくす心配もないし、つけかえる手間もかからない。

 ルールなんぞ破ってなんぼと公言する無精で無法なネーナがこの徽章を大切にするのには、わけがあった。ヒラ職員と役付きでは徽章の素材が異なる。炎をバックに二本の杖をぶっちがいにした紋は同じだが、課長補佐以上はその地金が魔導鉱石だ。つまり魔導式を組み込んで安定させる必要のある、レアで高価な鉱物なのである。

 給料のほぼすべてが飲食費に消えてしまう貧乏なネーナが持つ、唯一の魔導具。それだけで完結した魔導式といわれる、魔術師憧れのアイテムなのだった。なんの役に立つかはこの際問題ではない。


「まあ、二級だけどなー」

 バニーのデスクに向けて脚を組み、ネーナはあっけらかんと言い放った。既に朝の頭痛とダルさは、十分の一程度にまでしぼんだ気がする。

「二級だってすごいわよぉ、私たちのお給料じゃ買うのタイヘン。なくしちゃダメよ?」

 束ねた書類の端をクリップでとめながら、バニーは分厚い唇をすぼめてみせる。

「そうだねぇ……さすがにパパもお咎めなしで新しいヤツはくれないだろうな」

 というよりもまず、組合章を紛失した場合は需品課長に始末書を提出し、あらためてその小さなバッジを支給してもらわなければならない。面倒だし時間がかかる。与えられた徽章に組まれていた魔導式を無効にする手続きも、これまた別の部署に申請しなくてはならない。

 明日からの出張(・・)に、ネーナはそれを持っていくつもりだった。特に使い道があるわけでもないのだが、身に着けているとなんとなく妙な安心感があるのだ。末席のはずれの向こう側に籍を置いていても、やはり自分も魔術師ということだろうか。

 

 などと考えながら組んだ足先をぶらぶら揺らしたら、デスク脇に積まれたガラクタの山にぶちあたってそれがどっと地すべりを起こした。ほとんど反射的にバニーに目を向けるが、彼はそっぽを見ながら「まぁいいお天気」などと裏声でほざいている。

「……ちッ」

 聞こえよがしに舌打ちをし、ネーナは仕方なくわけのわからないアイテムたちをつま先でかき集めた。しかし雑多な品々は山の裾野にも万遍なく広がっており、一体どこまでを拾えばいいのか見当もつかない。

「なんだよこれ、どうやって山になってたんだよ! やった奴がもっかい積めよ! ってかだれだよ置きっぱにしたの、片づけとけよ!」

 椅子に座ったままかぱっと開いた脚の間から腕を伸ばしつつ、イライラと独りごちれば、周囲が一瞬で静まり返る。そうかみんな犯人に心当たりが、と思って顔を上げると、課内のほぼすべての目がネーナの上に集まっているではないか。


「え――あれ……?」

 きょとんと目を瞠って己を指さすネーナに、バニーが目尻に光るものをハンカチで押さえながら大きくうなずいた。

「よく言ったわ、ネーナ。そうね、あなたの言うとおりよ!」

 そして「はいこれ」と手渡された巨大な空の木箱は、どこから現れたものなのか。

 覚えはないが、みんながそういう態度ならば犯人は己なのだろう。ネーナは下唇を盛大に突き出し、床にガゴンと放り投げた木箱の中に手当たり次第ガラクタを放り込み始めた。

「なにこれ、計量カップ? なんでこんなもん――ああ、魔導銀の計量用か……。こっちは木のボール? なになに、『まず水を張ったバケツを用意しましょう。一つ浮かべれば癒しのアイテム、二つ浮かべればさらに癒され、三つで完璧にあなたを癒します』――アホか!」

 説明書きのあまりのくだらなさに、腹立ちを通り越して激怒する。なぜこんなものをよりによって魔術師組合の需品課に持ってくるのか、そしてなぜうちの職員は受け取ってしまうのか。

 だがキッと振り返って睨んだ課内の面々は、さもありなんと言わんばかりの顔でうなずいている。犯人はおまえだ、とまたしても雄弁に語る視線に、ネーナは塩を振られたナメクジのように小さくなって机の下に隠れた。




「おや、ネーナじゃないか!」

 聞き覚えがある、なんてものじゃなく耳に馴染んだおっさん声に呼び止められたのは、北棟への渡り廊下の真ん中だ。いい機会だからとデスク周りのガラクタを全部片づけさせられて、倉庫へ向かっている途中だった。

 胸に抱えた木箱ごと振り向くと、丸い腹を揺すりながらせかせかと足早に歩み寄る組合長の姿があった。背後には私設秘書も控えている。

「あっれー、パパじゃん。なにやってんの、こんなとこで」

 若干息を切らし気味にネーナの前までやって来て、ボスはチョビ髭の先を指でひねりつつ胸を張った。

「組合長ともなればね、こうして組合の中を見て回るのも立派な仕事のうちなんだよ。受付のお嬢さん方はおしゃべりに花を咲かせていないかとか、応接室の周りはきちんと掃除が行き届いているかとかね!」


 ボスは小鼻を膨らませてさも得意げだが、ネーナはちらりとジールの苦い表情を窺って了解した。これはただの散歩だ。はっきり言えばサボりである。

 だがそれを指摘する暇もなく、ボスがかっくんと首をかしげてネーナの顔を覗き込んできた。

「ところでネーナ。今夜は一緒に食事できるだろう? 誕生日に行ったレストラン、ちゃんと予約しておいたよ」

「は、誕生日? 悪いけど覚えてないなぁ。ってか今日はバニーがなんか作るって言ってたから、無理」

 すげなく断ればチョビ髭のおっさんはショックを受けた顔で固まる。イベントを丸っと忘れたことか、義父よりも岩石面の同僚を優先したことか、どちらに衝撃を受けたかは割とどうでもいい問題だ。

「え、で、でも、一昨日ほら、即売会の会場でさ、一緒にご飯食べようって誘ったら、『美味い店ならつきあってやる』って言ったじゃない? だから君が美味しいって言ってたレストラン……」


 まるで若い愛人の機嫌を取るエロ親爺だ。その衝撃の源が、わずか二日前の出来事でさえ忘却の彼方にすっ飛ばす養女の才能にあったことを悟り、ネーナの眼差しも冷え込む。

「ジールと行けばいいじゃん。そんでほら、ヤツにあーんってしてもらうの。わあうらやましい」

 感情のこもらない棒読みで「うらやましいなあ」と繰り返し、くるっと踵を返す。デスクワークに飽きてフラフラしているボスとちがって、こっちは忙しいのである。なんといっても、いま抱えているものと同じ木箱をあと七個は運搬しなければならないのだ。面倒でならないが、それが終わらない限り帰さないと仲間が無言の圧力をかけてくるから仕方ない。

 ブーツの踵がカツカツと鳴る音にまぎれて「あ、待っておくれよ、ネーナぁぁあ!」という情けない声が追ってくるが黙殺。


 しかし自分のものでない足音が追いついたのは、無視できなかった。規則正しくやや小幅に響くそれは、眼鏡の悪魔のものだ。

「一服するからつきあえ」

 案の定、無愛想に上から目線で要求され、ネーナは鼻に皺を寄せた。

「見てわかんないのかよ、いま忙しい」

 腕に抱えた木箱を揺すり上げると、ガチャガチャと甲高い不協和音が響く。文句を言うのもむなしくなって、そこらに落ちていたものを片っ端から放り込んだ結果だ。もしかしたら必要なものもあったかもしれない、だが知らん。そしてもちろん相当な重量になるわけだが、ネーナにとっては屁でもない。一年ほど前には、こんなふうに大荷物を右から左へ移動させるばかりの毎日を送っていたものである。むしろ書類仕事よりもよほど歓迎できる労働だ。


 これを倉庫に置いたらボスに挨拶して、今日は帰宅する予定だった。挨拶と言えるかどうかはともかくボスには会ったし、こんなところでジールなんぞにかかずらってる暇はないのである。

「じゃーな!」

「カフェの新作パイ」

 目の前を通り過ぎようとした耳に、低く囁かれて足が止まった。

「……うそ。もう出てたっけ」

 確かめるように上目づかいに窺えば、眼鏡の向こうで冷たい双眸が細められる。

 組合本部に隣接するカフェは良心価格でメニューも豊富。味もボリュームも申し分ないのだが、いかんせん給料日前で懐が寂しい。誘ったのだからジールがパイの一切れとコーヒーくらいは奢ってくれるだろうけれど、ケースに並んだ軽食を見たら絶対に食べたくなるに決まっているのだ。朝食から数時間、そして昼食までも数時間。すでにネーナの腹は次の補給を渇望している。


(三個はパイを奢らせて、サンドイッチかなにかを自腹? うーん、でもなぁ……あ、パイはホールで!?)

 挨拶を済ませたら七番街の食堂で激安定食を掻き込もうと目論んでいたネーナが悩んでいると、ジールはズボンのポケットからすっと手を出して、人差し指と中指に挟んだ金色のコインをきらっと光らせた。

「この時間に俺の手が空くのを、少しは不思議に思え。ボスに感謝するんだな」

 小馬鹿にしたような表情には普段なら腹を立てるところだが、スポンサーがついたならばネーナに否やはない。頭の中でカフェのメニューをばらばらめくり、瞬時に五品は決定できた。

「遅いよジール、ちゃっちゃと歩く!」

 無造作にその手を握り、ネーナは先に立って廊下を歩き出す。片手で抱えた木箱はそのへんに放置した。通路の真ん中にそんなものが落ちていれば、無視できなかった几帳面で苦労性なだれかが拾って倉庫に運ぶだろう。需品課の仕業と気づいて苦情を持ち込まれるかもしれないが。


 北棟を突っ切って東棟へ渡り、大階段を下りて正面玄関を外へ出る。昨日は例の騎士とともにまっすぐ通りへ出たが、今日は煉瓦敷きの小道を右に折れて小さな建物を目指した。

 赤銅色のフェンスに冬でも青い蔓薔薇が優雅に巻きつく前庭の中央、焦げ茶の木材と白い石のタイルが鮮やかなコントラストを描く可愛らしいカフェ。小さいとはいっても、それは組合本部の巨大さと比較するからで、数ある組合付属の飲食店の中ではかなりの大きさだ。

 入口までの道は冬でも可憐な花をつける植物で飾られ、大きく張り出した庇の下には、チェッカー柄のテーブルセットが並んでいる。冬場はガラ空きで必ず座れるから迷わずそちらに向かうのだが、ジールにつないだ手をぐいっと引かれて抵抗された。


 ランチには間がある時間だったためか、運よく暖かい窓際の席が空いていた。待っていろ、というスポンサー代理の指示におとなしく従ったネーナの前に、ほどなく次々と皿が運ばれてくる。

 白木の四角いテーブルに置かれた皿は、パイが三つとケーキが四つ、ホットサンドは野菜のマリネとローストビーフの二種類。大きなマグカップにはたっぷりのカフェオレ。ネーナは胸いっぱいに吸い込んだ空気を、ほうっと吐き出してうっとりした。

 これ以上の素敵な眺めがあるだろうか。あるに決まっている、山盛りの肉と籠いっぱいのパンが追加されたテーブルだ。青菜とベーコンのスープはバケツいっぱいあってもいい。

「眩しいな……」

 向かいの椅子に腰を下ろしていたジールの独り言が、口の端から涎をこぼしそうなネーナの耳に届く。ちらっと見れば、ちょうど眼鏡に日差しが直撃していた。今日は久しぶりに厚い雲が払われ、薄い青の空から太陽が光線をまき散らしているのだ。


「席移れば? でなきゃ仕事に戻るといいよ。むしろそうしろ」

 温かいうちにとホットサンドに手を伸ばしながらお勧めするが、ジールは欠片も気にしたふうのない様子で立ち上がり、ネーナの横に座りなおす。

 組合員が商談や休憩に使う店内は、半端な時刻だというのに七割近く席が埋まっている。ボスと行動をともにするジールは有名人なうえに、観賞に堪えうる容姿の持ち主だ。こちら方面に向かって露骨に秋波を送る女性たちは、彼がわざわざネーナのすぐ隣に移ったのを見て敵意に満ちた眼差しを向けてきた。そんなものはこちらの知ったことではないと思うのだが、いささかうんざりだ。


 いっそ移る席は他のテーブルにしてほしかった、とは思っても言わない。先払いで品物を受け取っているが、間違いなく追加を注文するのだから、まだ財布係の機嫌を損ねるのは得策ではなかろう。

 椅子の背を片手で抱えるようにして、ジールはテーブルに頬杖をついてこちらを向いた。組合長の自宅で同居していたころも、彼はよくそうしてネーナの食事を見守ったものだ。どうも口元のパン屑やら食べこぼしやらを、すぐさま取り除きたい性分らしい。

 他人にこれだけうるさいのだから、さぞかしご自分のテーブルマナーは完璧なんだろうさ、とげんなりしかけて、そういえばジールがなにか食べているところを見たことがない気がしてくる。同居する三人が三人とも不規則な生活をしていたからといって、そんなことがありうるか?


 手にしたホットサンドにゆっくりとかぶりつきながら、まじまじとジールを見つめる。

 本日の秘書サマも淡い金髪をはた迷惑にキラキラしく輝かせ、曇りのない眼鏡の奥にはくっきりと透明な青緑色の瞳という標準装備。日によって髪や目の色をかえられても困るのだが、そんな人間は存在しないからネーナには大助かりだ。

 他人の顔の細部を覚えられないノータリンには、そういう大まかな配色やら印象といったものが、一般人には考えられないほど重要なのである。

(うん、ジールだ。こいつはジール。パパの秘書で、嫌味で陰険で、ステキ菓子の店を教えてくれないジール)

 いくらこいつが眼鏡をかけた悪魔でも、ものを食べないわけがない。きっと知らないうちに済ませていたか、脳内の小人さんが不要と判断してその光景を消去したのだろう。よくあることだ。


「荷作りはできたのか」

 面倒くさそうな口調で問いかけられ、カリっと焼いたパンと菜っ葉を咀嚼しながら無言でうなずく。

「エストファンにやらせたな?」

 もう一度うなずく。もちろんだ。バニーは職場のみならず集合住宅でも隣人だから、昨夜帰宅してから部屋に呼びつけ、すべて過不足なく旅行支度を整えさせた。

「おまえは一体、どんなことなら満足に自力で成し遂げられる」

 ジールは呆れ混じりに言って、鼻筋まで落ちかかる長い前髪をうるさげにかき上げる。ネーナは半分ほど噛み砕いた食べ物をごくんと飲み込み、彼を睨んだ。

「失礼な。引っ越しは一人でやったじゃないか」

「家具と荷物の運搬だけだろうが。その前に恐ろしいほど散らかった部屋の片づけをして、服だの小物だのを詰めてやったのはだれだ」

 ジールだ。そんな怖い顔をしなくても、反論は一切ない。


 およそ生活能力というものを持たずに生まれてきたネーナは、それで持ち物が整理されるのならば下着まで綺麗に畳んでしまわれても文句は言わない。その下着すら買いに行くのが億劫で、この陰険眼鏡がせっせと運んでくるままに使っていた。それを言ったらさすがにバニーも絶句したが、自分的にはまったくもって問題ない。

 下着といえば、必ず上下セットで与えられたそれは、いつも淡い色合いだ。控えめにレースがあしらわれていたりして、案外そういうのがこいつの趣味なのだろうか。

 同じことを考えていたのだろう、ジールはどこか居心地悪そうに身じろぎし、ため息をついて誤魔化した。

「以前から聞いてみたかったんだがな。バカだというのは見ればわかるが、実際学業の成績でいうとどんな具合だったんだ? たとえば……魔術数理計画法の筆記試験は何点だった、卒業試験で選択したろう」

 かなり失礼なことをさらっと言われたようだが、そもそも美味しいものを食べているとき、ネーナはあまり怒らない。そして返答もしない。


 無視してフォークをケーキに突き刺していると、横から「おい」とうめき声が聞こえてくる。

「おまえ、需品課だろうが。まさか――」

「すーりけーかくほーってどんなだっけ」

 ずばっと問い返した瞬間こそ、ジールはなにか言いかけて息を吸い込んだが、そのまま黙って飲み込んだ。ネーナの物忘れが伝説級であることを失念していたのだろう。

「……じゃあ、魔導学概論は」

 それなら覚えている。なんといっても、学院入学直後から半年に亘って受け続けた講義だ。毎日毎日、朝から晩まで、それだけが時間割に並ぶという恐怖の期間だった。しかも初日から全時間、教授が喋るのは古バルファイ語のみ。魔導式の文言はそれで綴るから、魔術師の卵を手っ取り早く鍛えるにはよかっただろうが、ネーナにとっては地獄の一丁目に立ったも同然だった。無論、周囲のエリート新入生たちが同じスタートラインにいたはずもない。


 魂にまで刷り込まれた苦悶の記憶だが、その試験の結果など、公共の場で胸を張って口にして、担当教授に世を儚まれても困る。

「えっとねぇ」

 ネーナはちょいちょいと指先でジールを呼んで顔を近づけさせ、傾けられた耳に向かって数字を囁いた。

「……! ……、……。……十点満点だな?」

 なにか絶望的な表情をした後、とても静かな調子で妙なことを訊いてくるから、ネーナは鼻を鳴らして顎をそらした。

「バカだな、概論は口述試験と小論文だから八百点満点だろ」

「バカはおまえだ! びっくりさせるな! 概論を落としてどうやって進級したんだ!」

 ものすごくめずらしいことに、ジールが心底――しかも嫌な方向に――驚いている。楕円の眼鏡の奥で青緑色の瞳が瞠られ、惨殺死体でも見るように頬を引きつらせているのがおかしくて、ネーナも声を上げて笑った。


 笑いながらも、食べることは忘れない。

 冬が旬の果物をこれでもかと詰めたパイを手でざっくりと半分に割り、指先でつまみ上げて口に運ぶ。大皿盛りならいざ知らず、たくさんの皿が並んだならすべてを万遍なく味わって食い尽くすのがネーナの好みだ。

 それを知っているジールは、これ見よがしに深々と息をついてから、ナイフで食べやすくケーキを切り分けていく。だれかが世話をしないと、食卓の途中経過が山賊の宴会もかくやという様になってしまうからだ。

「まったく……おまえが出張だなどと、俺の胃に穴を開けるつもりか」

「あれ、心配してくれんだ?」

「栄誉ある組合本部が、こんな恥ずかしい生き物を飼っていると世に知られることをな」


 無言で繰り出した拳は、面前でやすやすと受け止められてしまった。その手をすぐには放さず、ジールはやけに静かな調子で囁くように言った。

「……体調は? 二十日の日程と聞いたが」

 彼はネーナの、このところの寝不足を知っている。今朝もひどい姿を見せたばかりだ。なんとはなしに申し訳ないような気がしてきて、ネーナは手をつかませたままため息をついた。

「それがねぇ……。いつもはここまで来るとよくなっちゃうんだけどねぇ、今日は気分は悪くないんだけど、なんか身体が重いような感じがすんだよね。頭から押さえつけられて、踵が地面にめり込みそうっていうか」

「太ったんじゃないのか」

「どうやったら一晩で自覚するほど太れんだよ!」

 無礼千万な発言に怒鳴りながらも、ネーナは思わず反対の手を上着の下の腹にあててしまった。しかし制服のスカートや、ぴたっと脹脛に添うブーツがきついと感じたことはないと思い出して、ほっとする。


 冷たい指先をさすって温めてくれるジールの目は、ネーナの調子を検分している。男のくせに細い指が頬に触れたとき、実は彼の体温もやや低めなのだと気がついた。自分の末端がよほど冷えているのだろう。

「マジで心配してんの? どこだかは言えないけど、別に未開の地に行くわけじゃなし、だいじょぶだって」

 まだ眉間に皺を寄せるジールの口に、食べかけのパイの欠片を突っ込む。自分はドライフルーツのケーキをフォークに刺して食べた。

 その面持ちのあまりの深刻さに、もしかして心配しているのはボスか、と尋ねようとしたときだ。

「相席願おうか」

 低い声を発すると同時に、がたん、と音高く椅子を鳴らして引いた闖入者にフォークをくわえたまま顔を上げると、そこには不機嫌全開のしかめ面をしたファイス・スタイクスが立っていた。






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