唄う小熊亭にて
「俺を忘れるな……思い出せ、いつも、どんなときでも」
保証はできん、と上げかけた声は、薄い唇に吸われて消えた。
七番街――夜の人口が昼のそれを軽く五倍は上回るという、トランティア・トリッタ随一の歓楽街である。
都を放射状に走るそれとは別に、宮城を中心として同心円を描く大路は運河で分断され、大小の橋で通りを繋いでいる。大通りには飲食店や安物売りの雑貨屋、花屋、高級宝飾店などが無秩序に立ち並び、店先に吊るされたランタンの煌きが周囲を昼間のように明るく照らした。街灯に火を入れる灯り持ちが、七番街だけ仕事をサボるといわれる所以だ。
路地を二、三本も入れば深処と呼ばれる裏社会の縄張りで、娼館や怪しげな薬売りの小屋から甘ったるい匂いが漂い始める。ネーナもバニーと連れ立って、夕食をとるために毎晩のようにこの街へは足を運ぶが、大路から奥へ入ったことはない。素人は浅瀬で遊んでいるのが平和でいいのだ。学院時代、身の丈に合わぬ遊びに耽って身を持ち崩した学生を幾人も見た。
人混みに入ると真冬であることを忘れるほどの熱気にあてられ、店先を冷やかす気力も蒸発して消えた。ファイスが手を引いてくれなければ、あっさりはぐれていただろう。押し合いへし合いしながら行くネーナの頭の上を、客引きの甲高いおもねり声や男たちの胴間声、金獅子騎士らの堅苦しい怒号が飛び交った。
会話をする余裕もないまま道を進み、やがてファイスが立ち止まって振り返ったのは、大路から一本中へ入った路地だった。この程度では噂に聞くほどいかがわしい雰囲気はなく、周囲も多少地味な店構えではあるがまっとうな飲食店が並んでいた。
「ここだ」
ファイスが指差したのは、真っ黒に塗られた小さな木戸があるだけの、民家だった。軒先を見上げても看板すら下がっていない。
「ほんとに店? ひとんちじゃないの?」
ネーナは胡乱げな目であたりを見回した。路地の入り口からは光が見えるが、ここは薄暗くて喧騒も遠い。ヘタに信用してくっついていったらファイスのネグラでした、というオチでは泣くに泣けない。
だがファイスはネーナの懸念をよそに、小さなドアノブをひねって勝手知ったる様子で中へと入って行った。このあたりは知らない場所だ、置いていかれてはかなわない。ネーナはあわてて小走りに後を追った。
「よう、ファイスじゃねぇか! お見限りだなぁ、おい!」
どっと迫るような喧騒とともに出迎えたのは、髭ダルマのような親爺のダミ声。真っ黒な外壁と対照的に真っ白な壁で囲まれた奥に長い店内には、音楽と食器の触れ合う騒音、笑い声と話し声があふれている。
右手にしつらえられたカウンターの背後には酒瓶が並び、ホールにはいくつもの丸テーブルとそこに陣取る大勢の客の姿があった。天井からは黒鉄細工の小ぶりのシャンデリアが等間隔に吊るされ、間引きされた蝋燭が程よく店内を明るくしている。給仕係は、袖も裾もたっぷりと膨らんだ可愛らしい黄色のワンピースに、緑色のエプロンを身につけた女性が数人。店の奥には楽器を持った楽師がいて、曲目やらチップの金額やらをけたたましく交渉していた。
ほんとに店だった。ここは酒場だ。しかも随分と、そう上品な。
言葉を失うネーナに小さく微笑み、ファイスはカウンターにもたれて小声で話し始めた。親爺が帳面になにか書きつけているところを見ると、食事の注文だろうか。
すんなりと空間に溶け込んだ後ろ姿に、ふと、こんなところにその格好で出入りして問題はないのだろうかと他人事ながら不安になる。なにしろ彼は、大ざっぱとはいえ騎士であることを声高に主張する服装のままなのだ。
「上、借りる」
最後に愛想よく笑顔を見せ、左手の階段を顎でしゃくったファイスは、入り口で立ち尽くすネーナの元へと戻ってきた。
「常連?」
ファイスが素行不良を咎められはしないかという心配をおくびにも出さず、店内を見回しながら尋ねると、彼は軽く頷いてネーナの手を引いた。
「昔はな。――俺の部屋がよかったか?」
からかうような響きにむっとして、乱暴に手を振り払う。
「いい加減にしろよ! これで飯がマズかったら、メ――ご主人サマに猛抗議するからな!」
うっかり高貴なる人の呼称を叫びそうになり、寸前で踏みとどまった。ファイスはおもしろそうに笑って、階段を上って行く。よく笑う男だ。
ホールを見渡すように伸びた二階の廊下には、扉が何枚か並んでいた。ファイスはためらうことなく最奥のそれを開け、掌で示された室内をおそるおそる覗き込んだネーナはあんぐりと口を開けた。
窮屈なくらい狭い部屋。窓には山盛りフリルのレースのカーテンがかかり、赤いリボンのタッセルでまとめられている。カーテンレールには赤い薔薇の造花がみっしりと並び、その下に金色の縁飾りのついた小ぶりのテーブルと椅子が据えられ、真ん中に飾られているのは一輪挿しを抱えた拳大の熊のぬいぐるみ。テーブルクロスはベージュと濃いピンクの二枚重ね。
薔薇とリボンを象った銀製の燭台が壁のあちこちにかかっていて、灯された蝋燭はすべてピンク色。四脚ある椅子のうち二脚には、テーブルにあるのと同じ型で、五歳児ほどもサイズのある熊のぬいぐるみが座っていた。
「ちょ……マジで?」
唖然としたまま、意味不明なことをつぶやいた。あの熊と一緒に食事をするのか、そう思ったら腹の中が痒くなった。
「どうだ、いい部屋だろう」
ご満悦なダミ声が不意に上から降ってきて、ネーナはひぃと咽喉を詰まらせた。
あわてて振り返れば、そこにはワインのボトルとグラスを持った髭ダルマ。先ほどはカウンターに隠されていた前掛けの裾にまで、たっぷりとひだを寄せたピンクのレースだ。見たくなかった。
「若い娘はみんなうちの個室が好きだ。気に入ったなら熊は連れて帰ってかまわねぇ」
バチンと野太いウィンクを浴びせられ、ネーナは絶句したまま髭ダルマが酒をテーブルに置くのを見守った。美しい薔薇色のワインが透けるボトルは円柱形ではなく微妙なカーブを描き、よく見たらハート型をしている。もう気絶しそうだ。
「すぐに美味いもん出してやるから、そこの色男の面ァ拝んで待ってな。おっと! ヘンな真似されそうだと思うなら、ドアは閉めちゃいけねぇよ」
わしわしとネーナの頭をなで回して、髭ダルマは満足げに階下へと去っていく。
「……え?」
なんとコメントしてよいかわからず呆然とするネーナは、押し殺した笑い声に気づいて顔を上げた。開け放ったドアにもたれて、口元に拳をあてたファイスが目に涙を浮かべている。
「熊」
「へ?」
「連れて帰るだろ?」
そしてファイスは、弾けたように笑い出した。馬車の中などものの数に入らない、これぞまさに大爆笑。ここが酒場でなかったら、きっと店中に彼の笑い声が響き渡ったにちがいない。しまいにはうずくまって背中をふるわせ、声も出ない様子だ。
ネーナはやっと気がついた。
見るからに女好きで女たらしなこの男は、麻紐で髪をくくるようなネーナにひと欠片の少女趣味もないことなどお見通しだったのだ。この部屋とあの親爺を見て、どんな反応をするかも、もちろん。
「あ――あんた、わざとやりやがったなッ!?」
おちょくられた。もしかしたら、あのキスからずっとおちょくられていたのではあるまいか。
いくらネーナが怪力自慢の大食い女だからって、これはあんまりだ。恋もオシャレも捨ててやったと公言してみたって、一応は若い娘なのである。
「このひとでなし! いますぐ死ね!!」
悔し涙を目尻に滲ませ、立ち上がったファイスの背中をぼかぼか殴った。容赦なく振り下ろす拳の下ですごい音がしているのに、ひとでなしには痛覚もないのか、けろりとしているのが余計に腹立たしい。
「まあまあ。たまにはいいだろ」
袖先で笑いすぎの涙をぬぐい、ファイスは背後に回した手でネーナの腕をつかまえる。自分の拳のほうが痛くなって殴るのをやめたネーナは、部屋に押し込まれながら彼を睨んだ。
「たまにはって、あんたわたしのなにを知ってるって言うんだよ!」
するとファイスの顔から明るい色が消え、それを見てしまうのが後ろめたいほど切なげな微笑に取って代わる。
「ああ……そうだな。なにも知らない。これから、知っていくんだ」
それは一瞬の表情だったけれど、ネーナを黙らせるには十分だった。
――あんたに、そんな顔は似合わない。
咽喉元まで出かけた言葉を、ネーナは苦心して飲み込んだ。自分とて彼のことを、なにひとつとして知らないのだから。
選ぶ言葉に詰まって唇をかむと、ふっと目元を緩めたファイスがなでるようにして頬に触れてきた。そのまま掬い上げた髪をそっと耳にかけて顎の線まで露にする。少しかさついて温かい指先を叩き落すこともできたのに、どうしてか強気に出られない。
額に落ちる髪の陰から、こっそりと高い位置にある顔を盗み見る。突き抜けるように青い瞳を、引き結ばれた薄い唇を見ていたら、またキスをされそうな気がしてきて頭に血が上った。
だが沈黙を払った低い声は、その予感を打ち消した。
「酒は飲めるな?」
さりげなく背中に回された手が、ネーナの肩からショール代わりに羽織った織物を摘み上げる。つられるようにしてハート型のボトルを見やるが、ネーナの内はひどい動揺を抱えたままだ。
一瞬、それでも――あまり深く、蹂躙するようなのでなく、ただ唇を愛撫するだけのキスをされるなら――いいか、などと思ってしまったから。
(なわけない! そんっなわけないッ!!)
調子を狂わされ続けて、あっさり雰囲気に呑まれそうな己を脳内で往復ビンタしつつ、ネーナは粗野な所作で椅子に尻を放り投げた。
「こ、こんな小っ恥ずかしい瓶、どこに売ってんだか」
腹の底で渦巻く羞恥と狼狽を気取られまいと、乱暴に言い放ってボトルを顎で示す。向かい側に腰を下ろしたファイスは、その細い首につっと指をすべらせて握り「マスターの特注」とこともなげに言って二つのグラスに中身を注いだ。
「特別な二人のためだけに使われる。俺たちにぴったりだろう?」
「はぁ? なんでだよ」
背もたれにどっしり寄りかかって腕組みをし、ついでにスカートを蹴立てて脚まで組んで、鼻に皺を寄せる。妙に咽喉が渇いていると気づいて、テーブルからグラスを引っ手繰って唇に近づけた。
「結婚祝い」
ぴしり、と全身の筋肉が硬直した。口に運びかけたグラスが急停止したため、中の液体がぽちゃんと波を立てる。
「サイン、しただろ?」
ファイスはテーブルに片肘をついて顎を載せ、逆の手で宙にペンを走らせてみせる。
した。サインならもう、朝から数え切れないほど。
だがにやにや笑う騎士サマの言うサインはそれじゃない。高級で上質な用紙にふさわしからぬ、瀕死のミミズがのたうったような例の、あれ。
「待て。だからって本物の結婚じゃない。あんたとわたしは昨日会ったばっかりで相変わらずまったくの他人ッ。よって祝う必要は一切なし!」
言っているうちに背中がざわざわしてきて、しまいには怒鳴っていた。
「……そうかもな」
ところが反撃を予測して身構えるネーナをよそに、ファイスはゆったりとうなずき、静かに目を伏せて唇の端を緩やかに上げるだけだ。グラスの細長い脚を指でたどる仕草が寂しげに見えて、ネーナはさらにうろたえた。
どうしよう。どうしてそんな顔をするんだろう。調子が狂うったらない。
周囲はネーナの話など「寝言」もしくは「世迷言」と断じてまったく聞いていないから、自分もそのつもりで言いたいことを口にする。考えなしが常態のネーナの一言一言に、いちいち本気で傷ついたり喜んだりする人間など見たことがないのだ。あの岩石魔人でさえ、悪口雑言の応酬を楽しんでいるだけで真に受けたりはしない。
「そ、あの、まあ――た、他人は言いすぎたかもなっ」
おろおろと手を出したり引っ込めたりしながらテーブルに身を乗り出すと、ファイスは上目でネーナを見やった。
「一応、なんていうか知り合い、くらいではあるのか。うんそうだよな、赤の他人に飯を奢られるわけないからな!」
じっとこっちを見ている青空色の瞳に、吹きつけたような熱が浮く。
「と、と、とりあえず友だちからってとこが筋だろう! 友だち!」
血が上りきった頭をくらくらさせながら叫ぶと、ファイスの男らしく整った顔がぽかんと間の抜けた表情を浮かべた。それがふにゃりと崩れたかと思ったら、次の瞬間、まるで人生最高のツボにはまった喜劇でも観たように、それはもう盛大な爆笑にかわった。
「とも、ともだちな、そうか、ともだち――いいだろう、友だちから、な」
「な――なん、だよ……」
口の中でもごもごと抗議の言葉を噛みながらも、朗らかさを取り戻す声に安堵する。だがそんなに大きな声で、文字に起こせそうなほどくっきりきっぱり笑われてしまうとなにか理不尽な心持ちだ。
頬を強張らせたまま酒をすすっていると、唐突に笑い声がやんでネーナは顔を上げた。向かい側で姿勢よく座る男は、一瞬前までの笑いの余韻などまるで感じさせない静かな眼をしてこちらを見ている。あんまりまっすぐに見つめてくるから、今度はどぎまぎしてしまい、意味もなく顔をしかめてうつむいた。
こいつがこんなに感情の起伏の激しい男だったとは意外だ。騎士サマというのはもっと、常に自己を律して冷静沈着である、というイメージがあったのに。他人を振り回すのは得意でも、ネーナは気持ちを振り回されることに慣れていなかった。
他人に感情を左右されることはもちろんある。ただ、怒りや腹立ち、喜びや悲しみといったわかりやすいそれでなく、こんな風に名状しがたい揺さぶりをかけられた経験がなかったのだ。
居心地が悪い。帰りたくなってきた。空腹のままで、貯蔵庫に食料を蓄えられたためしのない部屋に戻るのは痛恨だが、ひたすら顔を見られながら会話もなく階下の喧騒を遠く耳に入れるだけの席に、これ以上座っていられる自信がない。
帰りは馬車を拾えばいい。ここが七番街のどのあたりかは知らないけれど、所詮自宅までは街一つ隔てた場所だ。車賃ごとき最大限に見積もっても、ネーナの一回の食事代ほどにはかかるまい。
「あの、さ。わたし――」
だが、言いかけた言葉は建物を揺るがさんばかりの足音と、伸びやかで甘い美声の歌で遮られた。これは七番街で流行している恋の歌だ――「嗚呼、貴方の吐息も冷えた閨。妾は今宵も窓辺に寄って、川面の月を涙で散らす」――。
まさかエロ騎士、歌手の手配までしたんじゃあるまいな。
蒼白になって開け放したドアを見やったネーナは、その歌声の主が大皿を運んできたのを確認して絶句した。
「よう、待たせたな! 詰め物入り蒸し鶏、三種のソース添えだ」
顔中を覆う髭、やっちゃ場に飛び交うよりすごいダミ声、たっぷりレースをあしらった前掛け、そしてボスもびっくりの太鼓腹。間違いない、この酒場の親爺だ。
たちまち狭いテーブルは、美しく切り分けて盛り付けられた料理の皿で埋まった。緑、黄色、赤のソースで彩られ、ハートに切り抜かれたニンジンまで添えられた蒸し鶏は、ネーナの胃袋を視覚的に撃ち抜いた。それはもう、「そのダミ声がどうやったらあんな歌声に化けるのだ」という疑問を綺麗さっぱり忘れ去るほどに。
「うあぁぁ、うまそーっ!!」
「おお、食え食え。パンはいくらでも足してやるからな、どんどん食え」
髭ダルマは拳大のゴマパンが山盛りになった籠を示して、にやりと笑う。親爺のあまりにも気前のいい台詞にネーナは思わず、嫁にもらってくれないかと口走りそうになった。しかしそのときにはもう焼き立てのパンにかぶりついていたので、ファイスにいらぬ嫉妬をさせずにすんだ。
カリカリでふわふわのパンは甘く、フォークを握るのももどかしく口に運んだ肉は、適度な塩気を含んで絶妙な弾力を残している。
「うまっ! 肉、うっま!」
黒山羊亭の大盛りランチ二人前からこちら、メイの館で出された焼き菓子しか口にしていなかったためか、空腹はピークだった。ファイスの意味不明な挙動で惑わされたせいかあまり気にせずにいられたけれど、こうなってはもうとまらない。ネーナは欠食児童の勢いで手と口を動かした。
「……いい食いっぷりだなぁ、見てて清々しいぜ。ここで飯なんぞ食ったことのないおまえが、三人前もどうすんのかと思ったが……納得だ」
「食わせ甲斐があるだろう」
「まったく。七番街一、いや都一だな。いい女を見つけたもんだ!」
がっはっは、と豪快に笑ってファイスの背をバンバン叩き、髭ダルマは去って行った。
ネーナは聞こえない振りをしつつ、飯を食ったことがないのにこの個室を知っているという事実の意味を、美味い飯も不味くなりそうだから考えないことにした。
大皿の上が九割ほど胃に収まったころ、ようやくネーナは本当にファイスがグラスを傾ける一方で、フォークに手を伸ばさないことに気づいた。
「食べないの?」
割り裂いたパンに詰め物の野菜を押しこみながら、既に肉など一片も残らぬ皿を指さしていまさら尋ねる。ファイスは蕩けるような笑みを浮かべ、テーブルに頬杖をついた。
「おまえが美味そうに食っているから、満足だ」
「そ、そうかよ……」
あむ、と不格好な手製のサンドイッチをかじりつつ、勝手にしろと不明瞭に呟く。
その笑顔には見覚えがあった。浮かべる顔面の美醜の差は天と地ほどでも、バニーがよく同じように微笑んでネーナの食事を見ているからだ。ごはんが美味しく食べられるのって、幸せの証拠よね、と言って。
孤児院時代のことは定かでないが、好奇と揶揄と軽侮の視線に取り巻かれて過ごした学院時代も、ネーナの食欲は旺盛だった。むしろいまよりもっと、それこそ四六時中食べていた。けれど条件さえ整えば、食卓はただものを食うだけの場でなくなると知ったのは、組合長の養女になってからだ。
組合長の屋敷で寝起きしていた一年間、朝と晩にはボスとその秘書が同じテーブルについていた。そこではごくあたりまえに言葉が交わされ、それは他愛のない会話となって穏やかに互いの時間を共有し合った。
――ごはんが美味しく食べられるのって、幸せの証拠よね。
「…………」
幸せ。
常に抱える飢餓感を紛らすものを、与えてくれるひとがいること。自分を見守るだれかがそこにいてくれること。美味しいと言えば笑ってうなずいてくれること。くだらない話でも聞いてくれて、同じように聞かせてくれること。
目が合えば微笑み返すファイスと、料理の残骸が載った皿を見比べ、ネーナはうなった。
ではいま、自分は幸せなのだろうか。
不可解な嫉妬と独占欲を隠さない、意識が飛ぶほど巧みなキスをする男といて?
「っぎゃああ! ないないない!! ありえないっ!」
こみ上げる衝動をこらえきれずに叫んだら、ファイスがぎょっとした顔で固まったが知るものか。フォークとかじりかけのサンドイッチをテーブルに投げ捨て、両手で顔を覆ってまくしたてた。
「だだっ、黙ってないでなんかしゃべってろよ! なんか、なんか――ダラハーガ、そうダラハーガのこと! わたし都から出たことないんだよ、あんた行ったことあるんだろ? 海ってどうよ、やっぱデカいの!?」
一息に言ってぴたっと黙ると、しばしの沈黙をはさんでファイスは苦笑した。ネーナが理解不能な生物であると心から納得したのかもしれないし、何事か混乱してとっ散らかっているのを察したのかもしれない。熱くなった耳は真っ赤だろうけれど、それについても深く追及はせず、ただ質問に答えてくれた。
「デカいのなんの、果てが見えない。どこまでも海だ」
それまでの動揺をさらっと忘れ、目を丸くする。大量の水といったら、都で最大幅を誇る第二運河くらいしか知らないネーナに、ファイスはダラハーガでの出来事を面白おかしく語った。
ニョロニョロと十本も脚のある生き物を焼いて食うとか、美味だが人の頭にそっくりな貝を採りに深く潜ることとか――満月の夜、真っ暗な水面を割って跳ねる、三本マストの帆船より大きな魚のこと、とか。
「国中を転々としたが、ダラハーガが一番長かったな……三年になるか。だがもっと長く居ついている連中も二人ほどいた。あいつら、まだあっちにいるんじゃないか」
連中、とぼかしはしたが、おそらく黒竜騎士の仲間だろう。伏せ気味の瞳は懐かしそうに揺れて、ファイスの思い出が優しいものであることにネーナは安堵した。ほっとついた息が胸の底まで落ちてから、なぜ自分がそんな気持ちになるのだ、と激しく狼狽する。
「け、賢者ってひとは? 会ったことあんの?」
「もちろん。魔導工学の偉人だというのが信じられないくらい、白い花のように可憐なひとだ」
「え、女の人? 若いの?」
「知らなかったのか?」
驚いたら驚き返されてしまった。
もしかしたら聞いたことはあるかもしれないが、忘れているなら知らないのと同じことだ。自分の記憶を信じていないネーナは、無知を恥と思うこともやめてしまっていた。
「知らないけど、工学の賢者っていうからには、よっぽどすごい発明をしたんだな。史上最年少の賢者って、じゃあいまも?」
「だろうな。俺より幾つか上で、確か二十三……だったか」
「うそ! だって、いつ賢者になったんだよ」
「ダラハーガの学院在学中だって聞いたがな、十八か九か」
「はー……」
賢者といえば、歴史に残る成果を上げたと塔の重鎮が認めた者に、王家から贈られる称号だ。一つの学問を究めることは可能でも、若くしてというのは難しい。魔導工学は理詰めではなく、むしろ閃きと工夫で斬新な技術を生み出せる分野だからこそだろう。
「白い花のように、ねぇ……」
頭の中で精一杯、可憐な容貌の女性魔術師を思い描いてみる。貧困な想像力はすぐに音を上げ、それに真っ黒のローブを着せてみてもあまり上手くいかなかった。
社会的にも学界的にも地位があり、若くて、頭がよくて、可愛らしくて、それを周囲も認めているひと。自分とあまりにかけ離れた存在で、妬ましいとすら思わない。
なにしろネーナは魔術師の証であり正装である、銀糸の縫取りを施したローブすら所持していないのだ。組合に勤めていると制服で事足りるし、そんなものを着る機会など滅多にないから、運悪く必要に迫られたときは仮病になってばっくれればいい。
世に魔術師は数多あれども、きっとファイスはその天辺と底辺の両方を知る珍しい人間だ。そういうのって、なかなかない。
などと無意識に考えながら皿のソースをパンでぬぐっていると、不意にファイスがネーナの頬に指先で触れた。
「心配するな、俺はおまえのほうがいい」
「は――はぁ!? し、心配とかしてないし」
なにを勘違いしたのやら、本気で驚くネーナに向ける笑みは艶を増す一方だ。
「可愛いネーナ、いままでだれも言わなかったのか? おまえの瞳がどれだけ美しくて、見る者を魅了するか。その愛らしい唇が――」
す、と頬からすべった指が、カキンと固まったネーナの唇をふにっと押した。
「どれだけ、男をただの獣にする力を秘めているか……いままで、だれも?」
融けた飴でコーティングしたように濃密な光をためて、ファイスの目は微動だにせずこちらを見つめてくる。まだ唇に触れている手を薙ぎ払うこともできずに、ネーナは貧乏ゆすりみたいに震えそうになる脚に力を込めた。そうする間にも、互いの脛のあたりをこすり合わせるようにファイスの脚がゆっくりとテーブルの下で蠢くのが、なにかを言外にほのめかしているようでいたたまれない。
「や、やや、やめ、ろって……!」
背中がむずむずする。気を抜くと奥歯がカチカチ鳴りそうで、なのに冷え切った指先を動かすこともできない。
(動けこの根性なし! 動け、動けよわたしの指ッ!!)
肺が痛くなるまで息をとめて集中し、ようやくぴくりと人差し指が反応する。と同時に、ファイスと絡め合っていた視線もぶちりと千切れた。
「もも、もう帰る!!」
目をそらした勢いで怒鳴り、ネーナは椅子を鳴らして立ち上がった。
馬車? いるかそんなもの、全力疾走上等、ああ脚が丈夫でよかった!
一刻も早くこの場を立ち去り安全な巣に逃げ帰ることを、ネーナの本能が要求している。幸い皿の九割九分はやっつけた後だし、心残りはなにひとつない。
ところが脱兎のごとく駆け出そうとしたその進路を、いつの間にやら大きな影にふさがれていた。
「帰る? なぜ? 食事が気に入らなかったか」
「しょ、食事……? う、美味かったよ、ゴチソウサマデシタ!」
「ならまだいいだろう。いま帰ったら、マスターが残念がる。おまえのためにデザートを作っている頃だからな」
デザート。その魅惑的な単語で、張りつめた場にポカンと空白が差し込まれる。
そこにまるで計ったかのようなタイミングでもって、例の美声が廊下から響いてきた。
「絹の枕は切り裂いて、楡の木の下に埋めたのよ。苦しい涙を閉じ込めて、恋の形見と埋めたのよ……っとくらぁ。入るぜ!」
語尾についた余計なおまけは、しつこいようだが確かに親爺のダミ声だ。しかしネーナは、申し訳程度のノックの後、平然とドアを開けた親爺の後ろにだれかいないかと真剣に目を凝らした。階下の喧騒が響くばかりで、やはりそこは無人だった。
「……おっさん」
どうにも納得のいかない気分で親爺を見やり、即座にその手にあるものに目を奪われる。
ニンジン色のスポンジの間に薄いチョコレートを挟み、ふわふわのクリームをこんもりと載せたケーキだ。白い皿が隙間なく埋まるほどの果物はまるで花のように飾り切りされ、もちろん小さな熊の砂糖菓子も添えられている。
「おぉっ、すげー!」
こんなにちゃんとしたデザートを、ネーナはいままで見たことがない。思わずファイスから自分を隠さねばと焦っていたことなどすぽーんと忘れて、親爺が三本指で支える皿に見入った。
「なにやってんだ、立ってねぇで座れ座れ! それともお邪魔しちまったか? ん?」
ファイスに向けてにかっと笑う親爺は、ネーナの肩をつかんで元の席にぐいぐいと押し戻す。座ると同時に前掛けのポケットから絹のナフキンに包まれた細いフォークが取り出され、手の中にぎゅっと握らされた。
「甘いもんは好きかよ、お嬢?」
「好き好き、大好き! なにこれ、どっから食えばいいの?」
指南を乞うようなことを言いながら、フォークは既にケーキの端に突き立っている。スポンジの層を切ると、チョコレートがパキンと音を立てて割れた。普段、ガラスやらペンの軸やらを割る音は聞き慣れているが、これほど魅惑的な破壊音がこの世にあったとは。
「ゆっくりしてってくれ。――ちょっと」
ファイスを促して退室する親爺の言葉を聞き流し、ネーナはケーキを口に運んだ。
美味い。感激のあまり、ちょびっと涙が出た。
こういうゴテゴテと飾り立てたような菓子はきっと味など二の次だ、そう断じて敬遠してきた過去の自分を縊り殺したい。バニーがしきりに「美味しいケーキ屋さんがあるのよぅ」と誘ってくれたときもあったのに。
(そうか……つくづくわたしはものを知らんなぁ……ジールのパイと並ぶ菓子に、一日で二度も出会うなんて)
ひとしきり己の内面と対話するように皿に向き合った頃、パタンと軽い音を立ててドアが閉まった。顔も上げずに黙々とケーキを咀嚼していると、ファイスがネーナの椅子に無理やり腰を下ろしてくる。
フォークをくわえたままあわてて尻をずらすが、隣にある壁際の椅子は五歳児並みの熊が既に占領しているのだ。
「ちょ、なんでそこに座るんだよ!」
「座りたいから」
左半身をふかふかの熊に押しつけ、右肘を張って精一杯ガードする。だがファイスはこともなげに自分の場所を確保し、背もたれに腕を置いてネーナに向き直った。
「……甘い香りだ」
低く落とされた呟きにつられ、蝋燭の灯りまで一段落ちた気がした。ぞくぞくと背筋に悪寒が走り、霧散したはずのあの空気を、彼が些細な仕草で再びこの部屋に充満させたことを思い知る。
ファイスの手が優美にひらめき、ネーナがくわえていたフォークをするりと奪った。その背についていたクリームの小さな塊を、薄い唇から覗く舌が舐めとる。
怖い、と思った。
「……とも、だち……だろ」
ふるえる声で無意識に訴えたのは、ファイスが築いたばかりのその垣根を越えようとしているのを悟ったからだ。怖いのは、なんとかよく知る日常に戻ろうとする努力を、あっけなく無にする力がそこにあるからだ。
ふっと目元を緩める笑みはさっきまでとかわらないのに、ネーナにはとても無慈悲に見えた。
「確かに友だちからでいいとは言ったが、いつまでただの友だちでいるかは決めてない」
悠然と放たれた言葉に息を飲む。凍りついた視界に、残酷な事実を突きつけた唇が弧を描いたまま降ってくる。
あきらめた。弓をつがえる狩人の前に転がり出てしまった、仔兎みたいに観念した。ネーナはくたびれていたのだ、短時間のうちに平静と動揺を行き来することに。
上下の睫毛を合わせるように重い瞼を閉じたとき、頬の上に熱い吐息の混じった囁きを聞いた。
「俺を忘れるな……思い出せ、いつも、どんなときでも」
保証はできん、と上げかけた声は、薄い唇に吸われて消えた。