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魔術師組合  作者: れもすけ
第二章 太子の事情
14/19

 細かな気泡を抱いた青い吹きガラスの杯を揺らし、ベルは沈黙する。

 わずかに寄せられた眉根、引き結ばれた唇、物憂げに傾げられた華奢な首。彼女の類稀なる頭脳がどういう方向に結論を出すのか、メイは恋人の憂い顔を鑑賞しながら静かに待つ。ベルの隣では、両肘をついて尖った顎を支える英々も、めずらしくしおらしい。

 メイには、彼らの思考回路が理解できない。基盤となる知識の種類も量も、まったく追いつかないからだ。あえて深く学ばねばならない分野でもない。

 だから、朋海が持ってきた空きっ腹に入れるための食料を胃に納め、キルロダ産の蜂蜜酒を五杯も干す頃ようやくベルが口にした言葉に、驚きはあっても異論はなかった。

「……総長殿のおっしゃる『神代の力』。その信憑性は高いと……わたくしは思います」

 慎重に言葉を選びながらも、その声は力強い。

「実はわたくしの学院時代の先輩が、都の学院で講師の助手をしておりまして……今回のお話を伺ってすぐ、彼女の評定表の写しを手に入れていただきました。先輩には危ない橋を渡らせてしまいましたが、それだけのことはあったと思います」

 伏せ気味だった顔を上げ、まっすぐにこちらを見るベルの瞳に見入り、メイは空の食器が載ったトレイを横に押しのけ、テーブルに腕をついて身を乗り出す。


「確かに座学の成績は惨憺たる有様でしたが、彼女はきちんと卒業要件に足るだけの魔導学を修めています。そこには理論だけでなく実験や実習も必ず含まれますから、彼女が間違いなく高い魔導力を保持している証と言えるでしょう」

 その言葉に一瞬、絶句する。これまで集めた話から、ネーナはダーレンの裏工作で学院の卒業資格を得たと思い込んでいたのだ。

「それは、筆記試験の悲惨さを補って余りあるほどの、という意味か」

 はい、と小さく返され、思わず乗り出していた身を引く。

「驚くべきは、備考欄に記された行状記録です。有り体に言えば、仕出かした不始末の数々なのですが……その中に、実験室を二つ吹き飛ばした、という報告がありました」

「吹き飛ば――マジ?」

 思わず、といった風に声を上げたのはユハだ。軽く裏返ったそれがなければ、メイがそうするところだった。

 数値だけを見れば、と、ベルは頭の中の字を追うように目を伏せる。

「ネーナさんにとっては、大河の奔流を盥に溜めろ、と要求されたようなものです。暴れ回る大蛇を酒瓶に詰めてみせろというような、そういう作業です。評定基準項目にある魔導力の測定数値は非常に高いけれども、それを自在に操る、細かな調整は苦手だったのでしょう。そのためには必ず、学んだはずの理論と計算が必要だったのです」

 呆然とした。それほどとは思っていなかった。本人に間近で見えてさえ、非凡の才の持ち主には到底見えなかったのだから。

「それだけの力があっても、成績はダメなものなのか」


「そうですね。魔術師は、あくまでもその魔導力を持ってなにを成し遂げられるかが重要なのです。工夫と応用こそが肝要であり、結果がすべて。力の多寡は、あまり関係ありません」

「ふむ……」

 腕力ばかりで武器の扱いがお粗末では、騎士にはなれない。武器が扱えても頭が悪ければ、例えば赤豹騎士にはなることができない。そういうことか?

 椅子の背に寄りかかって腕組みするメイに、ベルは言った。

「神代、というのを創生記に描かれた時代と考えるなら、大気中の魔素濃度は現在よりずっと高かったはずです。古代人は呼吸によって取り込んだ魔素を体内で昇華させることで、式によらぬ魔法の展開を果たしたといわれています。つまり、魔法界とのリンクを必要としていなかった。現代の魔導とは、そもそも成立する基礎も、発動条件を満たす環境すらも異なるのです」

 ベルは言葉を切り、メイに理解の度合いを探る視線を向けてくる。無言のまま先を促せば、彼女は完全に弟子を導く師の顔でうなずいた。

「グラヴィール殿がどういった魔術を施したのか、ネーナさんご自身にお会いしてみなくてはわかりませんが……いずれにせよ、現行の法界魔導学を応用したものには違いないでしょう。だとしたら、その枷は初めからネーナさんの潜在能力を抑制するに適当なものではなかったと思われます。現に、ネーナさんは孤児院にいた三年で自我を取り戻し始めていた。それが良いか悪いかは別にして、あのグラヴィール殿の封印に、綻びが生じたのです。現代の魔導学では、神代の血を抑えられなかったからではないですか?」

 疑問の一端を解く説に、メイは喉の奥で唸った。


 なるほど、そう考えれば「神代の力」だの「過去の封印」だのが与太話の域を超え、現実の影を帯びてくる。あくまでも、ダーレンを完璧な技を持つ魔術師であると想定した上で、だが――その前提は、おそらく覆す必要がない。

 青い杯の中身で唇を湿らせるベルは、幾度か口を開き、閉じ、躊躇うようにして続けた。

「……大食、怪力、そして物忘れ……。孤児院時代にそれがなかったというファイスの記憶が確かならば、その三つの特徴がネーナさんに顕れたのは、学院入学以降です。そして実験室の事故は、二件とも卒業の少し前。どちらも原因が封印とその緩みであると仮定するなら、わたしは彼女に施された仕掛けがわかる気がします」

「仕掛け?」

「はい。我が君は、各地の塔と学院に結界が張られていることをご存知ですね?」

「ああ……」

 知っている。それがあるから、トランティアの王族はその双方に立ち入ることができないとかつて母に教えられた。正確には、敷地に立ち入った瞬間察知され、それなりの人間が現れて追い出されるのだ。都の場合、それなりといえば無論、学院と敷地を共有する魔術師組合の長を指す。

 何年か前、どうしても学院の図書館に用があって、ナディルの姿で忍び込んだことがある。その時も事前に調べて組合長が不在の折を狙ったものだ。

 なぜ王族だけが弾かれるのか、例えば王家の出身でない父ならばどうか。どこも組合長クラスの実力者でなければ、察知できないものなのか――いずれ調べてみたいと思っているが、まだ果たせていない。

 ただ、結果の如何に関わらず、ダーレンに隠し果せることではない。ガキがまた下らぬ悪戯を、と言わんばかりの眼で見られることは必至。想像するだに胃が重くなる。


 メイの苦い表情に、ベルは苦笑した。

「結界の本来の役割は、王族方を拒むことではありません。訓練中の魔術師の能力を引き出すために、閉じた場を形成して内部の魔素濃度を意図的に高めているのです」

「魔素?」

 思いもよらなかった話に面食らい、声を上げる。

 それこそ古代人の時代ならいざ知らず、いま吸っているこの空気にも含まれているらしい、と頭でわかっていても、意識も感知もしたことがない物質だ。思わず鼻をひくつかせるが、当然なにも感じない。

「場を形成するというが、あれだけの敷地面積があってもそんなことができるのか」

「ええ、可能です。もちろん、術者の能力にも左右されますし、魔剣士が張るものほどの強度はありませんけれど。かつては長が御自身で定期巡回し、点検と補修を行っていたそうです。いまは代替となる魔導具が開発され、長は滅多ことで黒の森からお出ましになることはありませんが」

 少し早口になったベルの様子に、その魔導具とやらの開発に他ならぬ彼女自身が一枚噛んでいることを悟る。だがいまは、塔の機密に関わるであろうそれを指摘して彼女を困らせる場面ではない。

「……それで? 仕掛け、というからには、ネーナには純粋な魔術処理だけが施されているわけではないようだ」

「はい。わたくしが思うに――」

 幾分ほっとしたように、ベルの肩が上下する。


「グラヴィール殿がネーナさんに施した封印は二種類。孤児院に現れる前の、人格が崩壊するほど強制力の強い正体不明のものと……それが緩んだことで、新たに追加されたもの。後者のために、ファイスはネーナさんと引き離されてしまったのです。それがどうしても、通常より高い魔素濃度を必要とするものだったから」

 そうか、それで――結界。

「だから孤児院ではなく、学院にネーナの身柄を移したのか。あそこには寮があって、小さな商店もあり、敷地から出ずに生活することもできる。……だが、それは――」

 メイはベルの推測に納得するとともに、胸の隅が鈍く痛んだ気がした。

 卒業がネーナ自身の力だったとしても、入学には間違いなくダーレンの工作が働いているだろう。国内各地から特に優秀な魔術師の卵を集めた都の学院に、あれほどひどい成績の学生を紛れ込ませるのは容易ではない。少なくとも講師陣は、彼女がダーレンの関係者であるがゆえに在籍を許されていると知っていたはずだ。そして周囲の学生も、彼女の背後に強力な後ろ盾の存在を透かし見ていたはずである。

「かわいそ、ネ」

 知らず黙り込んだメイの耳に、ぽつりとつぶやきが届いた。静かに話の流れを見守っていた英々だ。彼女も、国は違えどかつては学院で学ぶ学生だった。

 可哀想。その単純で稚拙な響きが、先ほどよりも鋭い痛みとなって胸に刺さる。確かに、ネーナは可哀想だった。


 気位が高く実力主義の魔術師たちに、本来コネなど意味がない。優れた魔術師を生み出すことにのみ特化した学院では、学生たちは常に篩にかけられ、その身に蓄えた知識と能力を頼りに生き残りを目指す。出来の悪い者が特別扱いを望めるような余白のない、過酷な環境。

 そんな場所に、どうにか普通に生きられるようになったばかりの子どもが、たった一人で投げ込まれたのである。心から頼りにしていたであろう少年から引き離され、右も左もわからぬままに、学院の中だけを世界のすべてにして。

 そうだ、ファイスがある日突然ネーナを奪われたというのなら、ネーナとて、心構えなどする暇もなくファイスを取り上げられたのだ。心細くなかったはずがない。

 ファイスの記憶に棲むお姫様はどこまでも可愛らしくておとなしく、だれかの威光を笠に着て権高に振る舞えるような娘ではなかった。大人たちは彼女がそこに存在することを許しても、黙殺かそれに近い対応をしたかもしれない。

 潜在能力ばかりが高くそれを使いこなせない、小さなネーナ。学んでも学んでも、片端から記憶がこぼれ落ちてしまう己に、どれほどの失望を繰り返したことだろう。五年もの間、選民意識の高い周囲からどういう扱いを受けてきたことか。長じるにつれ性格が多少ひねたとしても、無理からぬこと。

 執務室でメイに向けた、小柄な身いっぱいに詰め込んだ敵愾心。ハリネズミのように毛を逆立てて警戒するのは、傷つけられる痛みを知っているから。他人が怖くてたまらないのは、彼女がまだ胸の中に、荒らされたくないやわらかな場所を持っているからだ。

「…………」

 ファイスは、と、端正な顔立ちをこれでもかと緩ませて少女を見つめていた男を思い出す。ネーナの中に、そのふかふかで暖かい場所を作ってやったであろう、かつての少年。


 孤児院時代のネーナを愛し、その記憶だけを大切に抱えていたファイスは、変わってしまった彼女を見てどう思っただろう。きっとそうせざるを得ない日々を彼女が過ごしたことに、憤りと悲しみを覚えたにちがいない。

 気持ちの整理はついたんですか――コーキの質問だ。思えばあれも、なんと酷なことを訊いたものか。

(七年前の礼とやらには、それも含まれていたのかな)

 ふと、不貞腐れたファイスが口にした言葉を思い出して、小さく笑う。だとしたら、ダーレンのツケは随分と安くついたものだ。

 自らの思いつきに引きずられて脳裏に現れた男の名に、メイは息をつき改めてベルの顔を見遣った。

「ダーレンがやらかした、学院の結界を利用する封印とは一体どんなものだ」

「――それに、関しては……確証を得てからご説明したいと……」

 言い淀む様が彼女らしくなく、メイは訝しく眉をひそめる。

「なぜ?」

 メイが見つめた先で、ベルは英々と顔を見合わせた。

「一つには……もしも推測が当たっているなら、グラヴィール殿がネーナさんにその術を行えた理由がわかりません」

 反射的に問いを重ねそうになるところを、無愛想な魔導士に無愛想な視線で制される。確かに一つには、というからには、他の理由もあるのだろう。メイはぐっとこらえて唇を引き結ぶ。


 そんな様子にベルは、困ったような笑みを浮かべた。

「二つ目に、その術がかけられた日から七年も経過しているいま、一刻も早く解除しなくてはならないはず。それをグラヴィール殿がご存知ないはずもないのに、そうなさらない理由も見当がつかない。そしてなにより……わたくしには、その仕掛けを取り除くことができない」

「は――? だが」

「申し訳、ございません」

 彼の言葉を遮ったベルの、深刻にひそめられた眉が、一片の可能性すらも否定して見えた。

 メイは自分が、いまこの瞬間まで、彼女をダーレンにも匹敵する魔術師なのだと勘違いしていたことを知って言葉を失った。

 もちろん無能だとは微塵も思わない、これまで、持ち込んだ案件がどれほど厄介であっても、彼女はするりと解決の糸口を示してくれたから。

「それは――賢者殿の専門が、魔導工学だからか?」

「そうだったら、よかったのですけれど。わたくしの腕が及ばずとも、他に代われる方がいる」

「ああ、いや、そういう――」

 その顔に浮かんだ寂しげな表情にメイは狼狽えたが、手遅れだった。彼はベルの能力不足を指摘したわけではなかったし、彼女もそれをわかっている。だがベルがいかに有能な、それこそ賢者の称号を持つ魔術師であろうとも、できないという、厳然たる事実がそこにはあるのだ。いや、『境界を超える者』をもってしても、超えられない領域にダーレンはいたというのか。

「わたくしが目にした文献には、施術に必要な素材の数々と完全な魔導式まで記されていたのに――実現する手段がないのです」


 どうフォローすべきか、と焦るメイをよそに、しかしベルは瞬き一つで感情を切り替えていた。

 可能なら可能。不可能なら不可能。不可能を可能にする術を追うことはあっても、そこに夢や希望を持ち込まない。それが魔導工学なのだ。そして彼女は、現在この国のその分野においてトップを走る実力者だった。

「素材」

 不意に口を挟んだ魔導士は頬杖をついた姿勢のまま、斜めに視線を寄越す。

「西で手に入れるするはとてもとても難しい。でも東の国、たまに出回るすることある。魔導式、難解で面倒くさいで、やりたいないけど組むできる。でも、できる人ない。魔導士の力、放散。魔術師の力、循環。それ両方を一人で練る合わせるできること、聞くしたことない。だから、本読むしたときなんでわざわざ書くしたか不思議と思うした。古い古い、失うした技術」

 メイは必死になってその言葉を解読した。そして要するに、結局は不可能なのだと納得するしかなかった。

 だが、それはおかしい。現実にダーレンは不可能を可能にしたはずなのだ。その一点に関して、彼らは一言も否定していない。

「そもそも、それを過去を封じるための手段と考えるから混乱する」

 蝋燭の灯りから外れた暗がりの中で、低い声が響く。テーブルの端、椅子の肘掛に腰を下ろしていた男が立ち上がる気配がした。


 ゆらりと揺れたオレンジ色の微灯りの中、ベルの隣に座った英々のすぐ間近まで進み出て、朋海がむき出しの腕を組む。涼しげな顔の輪郭を縁取る癖のない黒髪、切れ長の目も黒。細身だがしなやかな筋肉に覆われた身体を、ダラハーガの衣装に隠した騎士。

「失われた技術。ではそれが失われる以前とは、いつを指すのか。現代においてそれを行うことができないのならば、一体何者がそれを成し得たのか」

 斜め下から英々が細い腕を伸ばすと、彼は腕組みしたまま彼女の上に屈み込んだ。英々はあたりまえのようにその首に腕を巻きつけ、引き寄せた朋海の頰にキスをした。

 メイが決して人前でそんな真似ができないと知っているくせに、この男は恋人といちゃつく姿を堂々と見せつけるのだ。顔に似合わず軟派なヤツめ、と一瞬なんの話をしていたかも忘れてむっとする。

「主殿」

 背筋を伸ばした朋海は、冷徹な表情を崩さずメイを見つめた。

「あんたはもう、その答えを知っている」

「え……」

 確信を持った眼に気圧され、メイは戸惑った。助けを求めるようにベルを見れば、彼女は心得た風に頷く。

「それができる人物は、この世界にたった二人。でも本当はいないのかも、しれない」


 この世界に、二人。本当は――いないのかもしれない。

 そのフレーズから導き出される人物像に、メイは慄然とした。

 暗黒に彩られた魔法の国。神の血を引く双子。生きた神話、それはネーナの――。

「……だがそんなことが、まさか!」

「でもあなたは探しておいでです。そしていずれ必ずその姿を捉えると、確信を持っていらっしゃる」

 激昂の先を制し、ベルは毅然と言い放つ。狼狽している時ではないと思い出させる声に、強引にでも立直らざるをえない。

「探しては、いるが……何年かかるかわからない。いるようだ、と結論づけるまでにも長い時間がかかったんだ。バルファイは明日にも攻め入ってくるかもしれないんだぞ、そんな悠長にネーナを隠しておくことはできない!」

 己を律する努力が報われないことを嘲笑うように、蝋燭が一つ消えた。知らずその儚い煙が風に消えるのを見守ったメイに、ベルはそっと差し出すように呼びかけた。

「我が君」

「……なんだ」

「ネーナさんと直接お会いになることに関して、グラヴィール殿はなにかおっしゃっていましたか」

 ダーレンが? 虚をつかれた思いで、あのいけ好かない親爺のことを考える。

「いや――特に、なにも。なぜだ、ダーレンの動向が気になるか?」

「……グラヴィール殿がネーナさんを現状維持におくのは、北の御方が関わることである以上に、封印の解除後に大きな不都合が生じるからではないかと」

「では、解除を試みるべきではないと?」

 その問いに、ベルは小さく首を振る。英々は傍らに立つ朋海の手をすくい、自分の頰に押しあてる。二人の顔は、とても明るいとは言えない色を浮かべていた。そのことが、メイをとても苛立たせる。


 テーブルに載せた指先で、トンと天板を突いた。

「まだるっこしい話は終わりだ、賢者殿。生憎と俺は魔導方面の知識に乏しく、ヒントばかりをちらつかされても一向に答えがわからない。ネーナの状況はどうなっている? あなたは一体、なにを憂慮しているんだ」

 自分の声が責め立てるような響きを持ったことに、自分でも驚いた。それほどに苛立っているというのか。いや、不安を、覚えているのだ。

 一度気づけば、胃のあたりがざわつく感覚がした。普段、控えめでもはっきりと物事を断じる傾向にあるベルが、ずっと奥歯にものの挟まったような話し方を続けることが奇妙だと、今ごろ気づいた。彼女は、らしからず結論を出したがっていないのだ。

 急かしたくはないものの、それが許される場面でもない。無言で見つめることが圧力となり、メイはベルに口を割らせた。

 すぐさま後悔することになるとも、知らずに。

「色々と調べることはたくさんあるし、様々な方法を検討もしたい。けれど……ファイスの姫君には、おそらく時間がないのです」

 ベルが苦しげに吐き出す言葉は、メイの予想だにしないものだった。

「他でもないその仕掛けが、ネーナさんの中で成長し、彼女を侵食する類のものだから。我が君、命に関わるのです」

「な――」

 驚愕に声を失うメイの前で、ベルはお守りようにずっと掌で包み持っていた青い杯を手放し、姿勢を正した。


「どの程度進行しているのか、方法があったとしてまだ処置が可能な段階なのかもう末期なのか、聞き取りをしなくてはわかりませんが――既に七年が経過しています」

 そしてほんの少しだけ目を伏せる。彼女が先延ばしにしたがったものが、詳らかにされる。

「異常なほどの膂力が発揮されるのは、単なる追加作用ですから差し迫った危険はないでしょう。問題は食欲や食物の摂取量の増減、それから記憶の喪失の程度。これが反比例していたら、つまり近頃あまり食べなくなり、かつ物忘れが激しくなったと本人が感じていたら――」

 聞きたくない。メイはそう口走りそうになった。だが聞かないわけにいくはずもなく、賢者はその先を口にした。

「手遅れかもしれません」

「――――」

 ああ、と、喉の奥から漏れそうになった。ああ、ファイス――真っ白になる思考の中で、メイは大事な娘を取り戻したと喜ぶ青年の顔を思い浮かべた。

 それを間近で目撃したのは、つい数刻前のことだ。夕暮れの執務室、騒がしい娘と一緒に現れたファイス。あの型破りな謁見を他人がなんと呼び、どんな意味を持たせようとも、彼はただネーナを見せびらかしに来ただけだ。

 これが俺のお姫様だぞ、と。見てみろ、世界一可愛いだろう、と。

 それがガキの所有欲でも仲間意識に過ぎなかったとしても、ファイスがネーナに向ける笑顔は、とても幸せそうだった。

「ナディル様……」

 愕然と目を瞠るメイに察したか、ユハがそっと肩を叩く。


「……報告書が」

 軋む首を回し、メイはユハを見返した。

「組合に潜ませた黒竜から、どうでもいいことだと、流していた」

 かすれた声に、ユハは息を飲んだ。

「ネーナの食欲は、学院卒業の頃がピークで……いまもあの年頃にしては旺盛だが、当時の半量しか。記憶、は――」

 最新の報告書に、なんと記されていた。数日前の会話ですら、記憶に留めておけないことがある?

「おい、ベル。どんだけ保てば、まだ間に合うってわかンだ? ベル、どんだけだよ!」

 声を荒らげるユハに掴まれた肩が痛い。黒竜騎士の握力で我を失わないでくれ、と軽口を叩く気力は湧いてこない。

「明確な数字はわかりません。でも、直近のふた月……いえ、ひと月のことがはっきりしているなら、あるいは」

 ベルのすがるような声に、目の前が暗くなる。バカバカしい、と笑いそうになった。一月? それは数日に比べたら、途方もなく長い日々だ。

 うなだれて、首を振った。視界の隅で、ベルが手で口元を覆うのがわかった。

 沈黙。広間を痛いほどの沈黙が支配する。身じろぎすれば鳴る裾飾りの音すらもない。それを破ったのは、メイだった。それでも呆然とする自分の声が随分と遠い。

「……いつか必ず、あいつのほうから手放さなくてはならない時が来る。だがそれは、いまでなくてもいいはずだ。どうして――手遅れだなんて」

 血筋も立場も厄介な娘だが、本当に始末したかったわけではない。こうなった以上、いつか来る別れの日まではファイスのそばにと、そう願ったことは嘘ではない。


 二十四年の人生で、いまほど過去を悔いたことはなかった。

 もっと早く会わせてやればよかった。せめて彼女は生きていると、それだけでも教えてやればよかった。

 ファイスが黒竜騎士になるために払った代償。メイが捨てさせた、人としての生き方。それはすべて、ネーナに会いたいという切ない望みのためだったのに。孤独な少年が願ったことは、ただそれだけだったのに。

 自分はそれを、知っていたのに。

「――!」

 ダン、と両の拳をテーブルに叩きつけた。きっとベルを怯えさせた、だが気遣うこともできない。

「なんて、言えばいい……? ファイスに、なんて……」

 テーブルの上で握りしめた拳が震える。

 だれも、答えを出してはくれなかった。




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