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魔術師組合  作者: れもすけ
第二章 太子の事情
13/19

 瞼が重い。腕も重い。脚も――全身が重い、そして背中が痛い。

 そういえば、昨日はこの身体を動かさなかった。一昼夜以上、意識を失って仰向けに寝たきりだったのだ。首も肩もバキバキに固まっている。昔、同じことをして懲りたはずだったのに。

 眉間に力を入れ、瞼を上げる。薄暗い。ついいままでいた部屋との明度の落差に、一瞬だけ頭が混乱した。

 淡いオレンジ色の光が壁の木目をやわらかく照らし、ゆらゆらと小さな影が揺れている。鉛を流されたように重い腕を持ち上げると、シーツがさらりと音を立てた。

 影がぴく、と反応し、かすかな囁きが聞こえた。


「我が君……?」

 高い声に誘われ、きしむ首を回して声の主を探す。癖のない前髪が目にかかり、視界を遮った。

 衣擦れとともにその人はベッドに歩み寄り、鬱陶しい前髪を払って彼の額に冷たい手をあてた。オレンジ色の逆光の中、袖のない黒いワンピースに白いショールを羽織った彼女は薄い影になっていた。

「ようやくのお目覚めですのね。今夜も眠ってお過ごしならば、明日は物見台の手摺りに干してしまおうとユハと言っておりましたのよ」

 笑みを含んだ、ゆったりと優しい口調。瞬きを繰り返すと、彼女の姿が鮮明になった。

 膝まで届く淡い榛色の長い髪、同じ色の瞳。二十歳を幾つか過ぎているのに、あどけなさすら残る丸い頬と、ふっくらした小さめの唇。額を飾る繊細な銀鎖と涙滴型の銀粒は、賢者の証。

「……あいつなら、やりかねん」


 口の中がカラカラで、搾り出した声はかすれた。それに気づいた若き賢者は、ベッドサイドのテーブルから水差しを取り上げる。

「こちらの気候は都とは大分異なります。できれば毎晩戻られて、体調の確認をなさったほうが」

 ベッドから背中を引き剥がしながら、その事務的な内容に少しむっとする。水のグラスを差し出す細い手首をつかんで、小さな身体をベッドに引き倒した。

「お水が……っ」

 抗議する彼女の手からグラスを奪い、一息に飲み干して空になったそれを枕元に放る。そのまま水滴で濡れる唇を、白い首筋に寄せた。

「つれないな、賢者殿。会いたいから戻ってくれと、そう言ってはくれないのか」

 冷えた舌で頤をなでると、胸の下にすっぽりと隠れた華奢な身体が跳ねる。熱いものがじわりと下腹にたまっていくのを感じ、たまらずショールを剥いでむき出しにした肩に指先を這わせる。だが小さな手が、それを必死に拒んでつかまえにきた。


「いけません、我が君……お身体に障ります」

 それでも声はひそめられ、彼女の目元はうっすらと赤く染まっている。

このまま(・・・・)でいるほうが、よほどお身体に障るぞ」

 細い脚にぐっと腰を押しつけると、彼女は薄明かりにも真っ赤になって目を潤ませた。

 その、いたたまれないと訴える表情に加虐心が煽られるのだと、何度教えたら覚えるのだろう。いや、覚えなくてもかまわない。泣き出すまで、繰り返し教えるだけのこと。

「……ベル?」

 名を呼び、薄く笑って、追い詰める。彼の下に組み敷かれた賢者は、目を伏せて顔をそむけ、やわらかな唇をかんだ。そこに親指を差し入れて開かせると、彼女は、ナディル・メイ、と彼の名をつぶやいた。

 背筋にぞくりとふるえが走り、追い詰められたのは自分だと悟った。

 彼は食ませた指ごと、愛しい恋人に口づけた。




 鼓動が平素の静けさを取り戻し、肌に浮いた汗が引く頃、メイはくったりとしたベルを腕の中から解放した。乱れた榛色の髪を手で梳いてやり、目尻にたまった涙をぬぐってやる。魂まで抜け切ったような様子に、この上ない満足感を得た。

 ぼんやりとする彼女を置いてベッドから離れると、腰と肩に違和感を覚えた。寝たきりから即激しい運動をするのは、さすがに無理があったか。ファイスに言ったら「トシですね」とでも嗤われるだろう。見栄えのよさも大事な武器であるあちら(・・・)とちがって、こちら(・・・)はあまり鍛えていないから仕方がないのだ。見た目を整えるのにかけるほどの時間もない。

 両腕を上げて伸びをする背を、ちょんと後ろから突つかれた。見るとシーツが差し出され、ベルは横になったまま抜け殻のワンピースで顔と身体を覆っていた。言わんとするところを察し、苦笑しつつそれを受け取って腰に巻く。

「なにか飲むか?」

 黒い塊に尋ねると、そっと目だけ出してこちらをうかがってきた。その小動物のような仕草に性懲りもなくむらっときたが、どうにか自重する。

「お好きな銘柄、補充しておきました」


 指差す先には背の低いキャビネットがあり、ガラス越しに酒瓶の影が並んでいる。メイはあたたかな気持ちに促され、屈みこんで彼女のこめかみにキスをした。

「ありがとう、賢者殿」

 ベルはくすぐったそうに首をすくめ、くぐもった笑い声を立てた。

 この甘いひと時のために生きている。若干の面映さとともに感動を噛み締めたとき、不意に邪魔者がドアの向こうで声を上げた。

「あのォ、もう入ってもいっスかね」

「だ、ダメですッ!」

 答えるなりベルは彼を押しのけ、ベッドの上を転がって、あっという間にベッドと壁の隙間に滑り降りた。まっすぐな長い髪が、名残惜しげにベッドの端に引っかかっている。

 ごそごそと服を着る気配と、せわしないノック。メイは舌打ちし、足早にドアに近寄ってそれを細く開けた。


 松明で明るく照らされた廊下に横を向いて立っていたのは、短く刈り込んだ金髪と褐色の肌の男。左頬から首を通って衣服の襟に吸い込まれる刺青の上を掻き、金色の瞳で天井を見ている。

「無粋だな、ユハ」

 伸びすぎた前髪をかき上げて口を開くと、知らず恨めしげな声が出た。ユハ・ケオニはちら、と腰に巻いたシーツを確認してからこちらに向き直り、高めのハスキーな声をひそめた。

「いや俺も好きで出歯亀してるわけじゃないんスけど。英々が帰ってきたんでお知らせしたほうがいっかなァって」

「それを早く言え!」

「あぁでも、いま朋海(トモウミ)が足止め――」

 なにか言っているユハの鼻先にドアを叩きつけて振り返ると、身支度を整えたベルが彼の脱ぎ捨てた服を拾い集めているところだった。その左手にはめた指輪が蝋燭の灯を弾いて、決して混じらぬ赤と青の光を放つ。清楚な彼女に似合わぬ妖艶な輝きに、メイの心はひどく乱された。


 昔の男に贈られた、愛の証。その指輪を見るたびに、手に入れたのは身体だけだと思い知る。忌々しいことこの上ないそれを、だがはずしてくれと乞う資格が自分にはなかった。あの男が本当に、だれにとっても特別だったことを骨身に染みて知っているから。

「メイ、お召し物はこちらに、履物はベッドの下にございますから」

 やや早口に告げる声に、メイはかすかな自嘲の笑みを浮かべる。あの男がこの世に存在していたころ、ベルはこんな話し方をしなかった。もっと年相応に、時に過ぎるほど幼い口調で……。

 恋人を殺した男を赦し、そうさせたメイを赦し、あまつさえ身勝手な恋情を受け入れてさえくれる。だが仰々しいほどの言葉遣いと、確執などなかったような笑顔を振りまくことで、彼女は周囲を己の内側に踏み込ませないのだ。

 肌を重ね、だれより深い場所までメイを連れて行ってくれても――その心までは、決して明け渡してはくれない。

「わたくし、部屋に戻っております。頃合を見計らって、広間へ参りますので」

 ベルはしきりにドアを振り返り、表をうかがっている。小うるさいお目付け役がいまにも乱入してくるのではと、気が気でないのだろう。苦笑してうなずくと、そそくさと部屋から出て行った。軽々とした足取りに、もう少し念入りに可愛がってやればよかったと舌打ちを禁じえない。


 入れ替わりに姿を見せたユハは、廊下の向こうに消えていく後ろ姿を見送ってため息なぞついている。

「あーあぁ、嬉しそうに……。あれじゃ隠してないのとおンなじだろうよ」

 情けなく眉尻を下げてはいるが、口元は笑っている。メイは窓辺の水盤に顔を突っ込んで頭まで濡らし、汗を洗い流してからふと尋ねた。

「彼女とのことをコーキにタレ込んだのは、おまえか」

 するとユハはものすごい勢いで振り向き、吊り気味の眦をさらに吊り上げて叫んだ。

「ちょ、筆頭殿にバレたんスか!? あぁあもうだから言ってンのに、ナディル様ってば勘弁して下さいよォ! 俺らただでさえ印象最悪なのに、一生左遷されっぱになっちまう!」

 別に彼らをここに送ったのは左遷が目的ではないのだが、正味四年もい続けでは嘆きたくもなるものか。しかしダラハーガは大規模な交易拠点としても有名だが、少し地域を外せば豊富な漁獲量を誇る漁業の町でもある。漁師上がりという異色の経歴を持つユハにもうってつけだ。むしろ都住まいは窮屈だろうに。

 とにかく、このあわてようからすると密告の犯人はユハではないらしい。腰に巻きつけたシーツを剥ぎ取って衣服を身につけながら、あとだれがいるかと頭の中に思い浮かべる。


 文句を言いつつ、順番に衣装を差し出したり髪を梳いたりと甲斐甲斐しく世話を焼くユハが、最後に腰に手をあててずいっと顔を近づけてきた。

「あァたとベルがどんなカンケーかとか、なんかもう芋づる式にみんなにバレそっスけど、英々にだけは絶対に悟られないで下さいよ?」

「仮にも天下の黒竜騎士が、女一人にそこまでビビるか?」

 からかったつもりだったのに、ユハは褐色の肌を青黒くかえてふるえ上がった。

「あァたねぇ、ガチでキレた魔導士見たときないっしョ!? アレとやりあったら命なんぞいくつあっても足りゃしないっスよ!」

 ダーレンの手遊びなら目撃したことはあるのだが――確かにあれは一軍に相当すると言われるほどの技ではなかったか。

 ユハは大袈裟なまでに頭を振り、両手で己の二の腕を抱きしめる。剥き出しの肩や腕に鳥肌が立っているところを見ると、噂はあながち誇張でもないようだ。ではあの東から来た魔導士の前では、ベルを見ないほうがいいかもしれない。目から色々と駄々漏れになってしまいそうだから。


 自分に用意された袖のないぴったりとした青い上衣には蔦の模様が縫い取られ、布を幾枚も重ねて垂らす黒い下衣には裾に真珠と錫の飾りがついている。それを身に着けて銀糸を織り込んだ白い帯を締めて先を垂らし、革のサンダルをつっかけ、麻布を羽織って顔を上げると、ユハが上から下まで検分するように彼を眺めた。

「……ダラハーガの衣裳がよくお似合いで」

「おまえこそ地元民みたいだぞ。一生ここにいたらどうだ」

「結構っス。俺は竜を駆るために騎士に転職したんスから。潮風に負けない皮翼の竜でも生まれたら、考えてもいっスけどね。っつか、よく考えたらあいつらのツラ、もう何年も拝んでない気がしてきた」

 吐き捨てるように言って踵を返すユハは、完全に相手がメイであることを失念しているようだった。だがそれも無理はない、彼は正しい意味での『メイ』を一度しか見たことがないのだ。

 メイはユハの後について部屋を出ながら、小さく笑い声をこぼした。

 都にあって太子宮から一歩も出ない、昼間の自分。特別な王子と敬われて大勢に傅かれ、この世で彼に命令できるのは父と母の二人だけ。指先一つで国をかえることすら可能であるのに、なに一つとして自由にならない太子の枷。


 切り替えた(・・・・・)、いまの自分はどうだ。

 眠る身体は一人きりでベッドの上に放置され、目が覚めれば山のような文句を頭から浴びせられ、文字通り意識を失うまで馬車馬のように働かされる。反面、酒場で酔いつぶれようが裸で夜の海に飛び込もうが、だれも彼を咎めはしない。

 彼は生まれつき、二つの身体を持っている。二十四年前の嵐の夜、母が産み落とした二つの身体には、魂が一つしか用意されていなかった。

 なぜ、とは考えない。ただ自分はそう生まれ、それがこのトランティア女王国でメイを名乗る、男の太子となる条件だっただけのこと。

 メイは自分で三人目。そういう家系、あるいは体質のようなものだと思えば、気楽になった。そう思えるまでに、随分と長い時間がかかった。

(どこにいても、何者であっても、ただ俺は俺だ)

 振り向きもせず夜闇に沈む回廊を行くユハの背を見つめ、唇の端で少しだけ笑う。

 ずっと、笑顔でいても虚しかった。王太子である己の存在が重くのしかかり、生まれて初めて大切にしたいと望んだ恋を守れなかったこともある。どちらかの身体を殺してしまおうかと思い詰めたこともある。

 だがこの街でベルと出会い、真実愛した女を抱く悦びを知って、自分の身が二つ生まれたことにも意味があったと思えるようになった。

 彼女を護り慈しむ――それができるのはガリオンでなく、ナディルと呼ばれるこの二つ目の身体だけなのだから。




 王都トランティア・トリッタより南西に馬車で十日。

 大陸を東西に貫く大交易路の、出発点にして終着点である港湾都市ダラハーガは、年間の流出入人口が二百万を上回るトランティア女王国最大の商業都市である。

 外洋に向けて大きく開かれた港は大型帆船が同時に二十隻係留可能で、船の修繕や点検を行う船渠には常に十数隻の船が揚げられている。真夜中でも港の周辺は篝火で煌々と照らされ、陸揚げされた荷を右へ左へと運ぶ人足、補給に立ち寄った海軍の水兵、取引を始める商人らでごった返していた。

 新年も明けて早々の時季だというのに、方々の壁をぶち抜いた造りの建物を抜ける夜風は湿気を含んでわずかに熱を帯びている。明かりを絞った広間の鏡に自分を映していると、それがやわらかく頬をなでていった。

「髪伸びたっスねぇ。そっちのあァたがこっち来て三月……もう四月近いのか。切るならやるっスよ?」

 ユハが横からひょこっと顔を出し、鏡越しに目を合わせてくる。小まめに整えているのか、彼の髪は常に一定の長さを保っていた。

「いや、いい。この身体は都に置いておくと、眠らせている間に勝手に髪を切られるからな。ここにいる間に伸ばせるだけ伸ばしてみたい」

「世話係が優秀なんスね」

 興味なさそうに言って、ユハは傍らのテーブルの上に腰かけた。


 あの世話係は優秀というより若干偏執狂の気があるのではないかと思うが、離れてまで思い出したい人物ではないので忘れることにする。あちらも毎晩毎晩、隠し部屋に豆のスープと乾いたパンを運び続ける日々から解放されて清々していることだろう。

 ナディルは父親似の綺麗な癖のない髪質なのに、ガリオンは正装がいまいちキマらないほど激しい癖毛だ。もう巻き毛といってもいいのかもしれない。実際同じ髪質の女王は、毎朝侍女に美しく縦に巻かせて整えている。

 非の打ち所のない王子と誉めそやされても、あの髪だけがひそかに彼のコンプレックスなのである。しかも両方とも自分ときているから、悩むのも馬鹿らしい気がしてジレンマだ。

「ヤァだ! 鏡に見惚れるする男、気味悪いネ!」

 突然響き渡った大声。

 カン、と聞き慣れた単純な金属音に振り返ると、胸と腰周りを申し訳程度に隠した女性が広間の入り口に立っていた。片手に燭台、逆の手に魔導士の必携品、白磁の長く細い杖。

 ダラハーガを拠点とする賢者のため警護についた白鷹魔導士、李英鼎。英々だ。

 後ろ暗いことがあるので黙っていると、彼女はカンカンカンと続けざまに杖の石突でタイルの床を打った。

「男、胸毛と筋肉、鏡いるないヨ! ナディル様、昨夜、なぜ起きるしないカ! 大姐に伝言あるしたもの、伝えるして頼むだったヨ。ハぁもう、遅い過ぎタ!」


 怪しいトランティア語でまくしたてながら、英々は膝まで落ちる髪――もとは黒だったものが傷みすぎて麦穂色だ――をバサバサ揺らして頭を振った。蝋燭を四本も立てた燭台に触れたら、乾燥した髪が火事になりそうだ。色味と長さは彼の可愛い賢者と同様であるはずなのに、その質の違いときたらいっそ目を瞠るほどである。

 よくわからないが、なにか大変な不満があるらしい。わからないといえば、あれほど流暢に西の魔導式を操るのに、なぜ言葉がこうまで片言なのかも謎だ。本人にきちんと覚える気が皆無であることだけは、なんとなく読み取れる。

「髪邪魔思うするなら切るしてやるから座るいいヨ!」

 長机に燭台を置き、巻き舌気味に言って東から来た魔導士は椅子を指差す。

 今日まで続くつきあいの中におけるやり取りで推測するに、大姐というのは双子の姉である悠高のことだろう。騎士団お抱えの鎧師である彼女に伝言がある、と聞こえた気がするが――そうか、「遅」いに「過ぎた」のか。

「ぼっさーするない!」

「ああ……いや、切らない。すまん、ありがとう」

「早く言うヨ」

 先ほどユハに投げたのと同じ言葉を、数段素っ気なく返される。

 ひょいと肩をすくめた英々は、ユハが主のために引いた椅子にどさっと尻を放って座った。すんなりとした脚を組むと、最低限の役割を果たしているかも疑わしい布の裾から、黒い下着が覗いた。

「英々。その――」

「はァ?」

 奥二重の下で闇色の瞳がギラリと光り、メイは黙った。


 小柄でも十分にあちこち丸みのあるベルとちがい、英々は長身で痩せ型だ。胸も、こう言ってはなんだがごく貧しい。露出狂かと思うくらい肌を出すことを好むので、裸にしなくてもスタイルはよくわかる。だがいかに好みに合わない体型とはいえ、薄着と呼ぶのもはばかれる女性を直視するのは気まずかった。

 ユハを見やれば明かりの届かないところまで後退し、壁と一体化している。騎士団一、頼りにならない黒竜騎士だ。保証する。

「……寒くないのか?」

 だれでもいいから早く来い、と念じながら場つなぎに尋ねると、英々は唇をすぼめた。

「ヤるしたばかりから、暑い」

「――そうか」

 脱力しきってうなだれたとき、壁になったユハがぼそりと言った。

「おい英々、朋海はよ?」

「ベッドに捨てるしてきた」

「あっそ」

 ユハはこともなげにうなずいて、そっとメイの傍らに歩み寄ってくる。

 短時間で肩掛けも必要ないほど激しく抱き合って相手は放置、実に漢らしい女だ。可愛らしい抵抗をしてみたり、恥じらいながらぎこちなく愛撫に応える彼の恋人とは大違いである。


 ベルを思い出してにやけていると、脇腹にユハの肘が叩き込まれた。はっと英々を見やれば、肩に水平にかついだ杖に両手を引っかけてこちらを睨んでいる。いまにも銀を嵌めた石突に青い光が灯りそうで、あわてて背筋を伸ばしわざとらしく咳払いなどしてみた。

「ときにユハ、賢者殿はまだおいでにならないかな」

「あーっとォ、もう来ると思っスよ。英々、港で例のモン、仕入れてきたんだろ?」

 ユハに水を向けられた魔導士は、椅子の上で胡坐をかいてそこに杖を抱えた。太腿の奥で下着が丸見えに――もうどうでもいいか。

「ダリトス商人、ガメついいうほんとヨ。ふっかけるされて手持ち足りるないから、ツケするしたヨ。ナディル様、後で払う頼むネ」

「いくらだ」

 そして英々があっさりと口にした額を聞いて、目玉が飛び出そうになった。

「ちょっと待て、蔵ごと買ったのか? ふっかけられ過ぎだろう、相場の六倍だぞ!」

 思わず怒鳴ると、英々はむっと顔をしかめて立ち上がり、バンとテーブルを叩いた。

「すぐでも手入れるしろ言うしたダレ! 仕方ない、ダラハーガにそれいまあるこれ奇跡ヨ、しかも黒の塔納品するはずからダメ言われるしたの横取りヨ!」

「く、黒の塔から横取りッ?」

 目の前が真っ暗になった。


 王の子というのは因果な商売で、周囲の人間は大抵若い頃から互いをよく知っている。コーキやファイス、騎士団のおっさんたちもそうだが――この英々という魔導士に限っては、何年つきあっても思考回路が計り知れない。昔は三歳年上だから、三年分だけ理解できないと思って納得した。少し長じて異国人だからセンスがちがうと思いなおし、たったいま初めから常識が通用しない相手だったのだと思い知った。

「いやおまえ……それはさすがにマズいんじゃね?」

 愕然とするメイの横で、ユハが首筋を掌でおさえている。

「どせ塔は実用ない研究使うしてしまうネ。ベル、ちゃんとぶっ壊すして再生、それ魔導鉱ほんとうれしい使い方ヨ」

 はん、と鼻先で英々が嗤ったとき、入り口に垂らした布をかき分けてベルが姿を見せた。

「ぶっ壊して再生、しているわけではないのだけれど」

「ベル!」

 賢者の名を呼び、駆け寄る英々はまるで飼い主を見つけた犬だ。つき従う黒竜騎士、鬼枝朋海に向けて銛でも打つようにして杖を投げつけ、自分の鼻先までしか背丈のないベルにがばっと抱きつく。

「あー……意外と無事?」

 ユハが朋海に白々と確かめたのは、彼がついさっきまでベッドを共にしていた英々のパートナーだからだろう。朋海は表情をかえずにちらりとユハを一瞥し、白磁の杖を持ったまま腕組みした。だが言葉はない。


 この朋海というのも、よくわからない男だ。

 出自は騎士団総長のダリルが保証人、朋海の父親と親交があったらしい。朋海自身は純血の移民二世だが、父親は遠く極東の武人の家系生まれだという。

 ユハと同時期からダラハーガに駐留させ、任務の内容も同一であるのに、都で見かける回数がユハとは桁違いに多い。英々の姉である悠々こと悠高に会いに戻っているのは確かだが、どうも姉妹それぞれが互いに朋海の恋人であることを――つまり、いわゆる二股であることを承知しているようなのだ。しかしそう考えると、やはりかわっているのは双子のほうなのか。

 黒竜騎士は家柄や礼儀作法で選ばないので、メイ自身に彼らの個人的な趣味嗜好や背景にこだわりはないものの、近頃少々、そのへんも加味しておくべきだったかもしれん、と思わないでもない。

 もっとも、それを考えて選んだところで、彼らが『竜の試練』を乗り切れなければそこまでなのだ。十年かけて必死に集めた黒竜は、たったの十一人。失われたその何倍もの若い命を思えば、騎士たちの乱れた生活や失礼な振る舞いなど、簡単に許容できてしまう。彼らにはどうしても女性が必要だということも、メイはちゃんと理解していた。

「……で? その、塔から横取りしたという代物は?」

 黙っているといつまでも英々とベルの抱擁シーンを見せつけられてしまうので、メイは諦めのため息とともに切り出した。


「真贋の確認と品質の評価は昼間のうちに。問題ありませんでしたので、支払いが済み次第、わたくしの工房に搬入される予定ですわ。加工と組み立てには七日ほど見ていただければ」

 ということは、ブツが納品されたら七日間はベルに会えないということか。彼女の工房は塔の中にあり、ここは銀狼騎士のシマである大砦だ。

 英々を背中におんぶしたまま、小柄な賢者はメイの前に立つ。

「……ファイスは、なんと? 無事にこちらまで来られそうですか?」

 胸の前で組まれた小さな手に、キュッと力が入る。

 あの色男がダラハーガに滞在した三年間、騎士として公私にわたり面倒を見たのは先輩であるユハと朋海だ。しかしままならぬ日々に悩む少年の心を慰め、喪失の寂しさを癒したのは、間違いなくこの可憐な若き賢者だった。

 大切な者を突然に、理不尽に奪われる。その悲しみと苦しみを知る彼女をファイスは信頼し、同志とも姉とも慕った。ファイスが都へ帰還する前の最後の一年間、晴れてベルの恋人となり都とダラハーガを行き来していたメイは、彼らの間に確固たる絆を感じていらぬ嫉妬に身を焼いたものである。


「あれの話を丸々信じるわけにはいかないが、どうにかなりそうだ。ダーレンが――白鷹がなにを企んでいるのかが気になるところだが」

 腕組みをしてベルの背中に張りつく魔導士を見やるが、英々はしれっとその視線を受け流す。知らず頰が引きつるのをとめられない。

 だが英々のすることに動揺して、ベルとのことを悟らせてはまずかった。この異国から来た魔導士は、ベルの庇護者を公言して憚らない。彼女は自分たちが魔術師である以上、塔と対立関係にある王家の人間、それも次代の王とどうこうなることなど、天地がひっくり返ってもあってはならないという考えの持ち主だ。

 自分はメイの子飼いたる黒竜騎士とどうこうなっているくせに、と妬みともつかぬ独り言を胸の内に留めるだけの理性はある。

 ユハに飲み物の支度を言いつけて、メイはやっと椅子に腰を下ろした。

 今日起きた出来事、そして有能なる筆頭騎士と交わした長い話を、皆に伝えるために。





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