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しん、と大気の精まで息をひそめたような静けさが室内を埋め尽くす。
――ダーレン。ダーレン・グラヴィール。
稀代の魔術師にして、殺しても足りない災厄と騒動の源。
実際、彼を殺したところで事態はなんら進展しない。そればかりか真相から一層遠のいてしまう。本当に、心から目障りな男。彼が少しでも、片足のつま先ばかりでもこちらを向いてくれれば、多くの謎が解明されるのに。
ネーナの父親はだれなのか。
なぜダーレンはネーナを伴って帰還したのか。
彼はバルファイでなにをしていたのか。
ネーナの記憶を消しておきながら、素性を完璧に隠さなかったのはなんのためか。
なぜ魔術師組合長の養女という立場を与えたのか。
なぜ、市井に下って以降も白鷹騎士団を掌握していられるのか――。
最後の疑問だけは、正解に近かろうという答を持っている。白鷹騎士は一人残らず魔術師だ。その忠誠が正しく向かう先には、女王を飛び越して必ず黒の長がいる。そしてダーレンは、長との間に非常に太いパイプを持っている。つまり長とダーレンが協力関係にあるか、あるいはどちらかがどちらかに依存しているということ。
バルファイ王、ダーレン・グラヴィール、黒の長。だれかが、あるいは複数人が、すべての真相を知っている。
不意に、怒りと苛立ちが占めていた腹から笑いが込み上げてきた。
「ふ――ふふ、ははは」
声を出して笑ったら、いくらか腹がおさまった。視線を感じて顔を上げると、彼の忠実な騎士が神妙な面持ちでこちらを見ていた。
「そんな顔をするな。ヤケになったわけじゃない」
そうだ、ここで自暴自棄になったとて、問題を肩代わりしてくれる者はいない。
メイはもたれていた椅子から身を起こし、たん、と机の残骸を指先で叩いた。
「……バルファイ側が誘拐事件の関係者として、ダーレンとネーナの身柄を確保した場合、即時開戦の見込みは?」
それこそが、メイが抱えた数ある懸念の核だった。ダーレンが引き起こしたであろう事件の結末を、国家間の紛争という形で迎えることなどあってはならないのだ。
コーキは表情をあらため、顎を引いて即答した。
「王府の分析では四割。ただ総長殿の非公式な見解では、八割強ということでした」
八割――。
怯みそうになる数字を一旦頭の隅に置き、続けて問う。
「ではバルファイ側が、二人の身柄なしに宣戦布告に至るだけの確証を得ている可能性は?」
「状況証拠だけならば十分――同じく、総長殿の見解です。グラヴィール殿が現在も宮廷に大きな影響力を持つといわれるのは、白鷹騎士団のことがあるからでしょう。トランティア発展の原動力に、魔術師の存在を否定することはできません」
つまり数多いる魔術師たちが尊崇してやまない黒の塔、そこと最も結びつきの強い白鷹騎士たちを押さえたダーレンは、バルファイから見てもトランティアにとって重要人物であると映るのだ。
バルファイの乱暴な論理が通るのならば、トランティア女王は犯罪者を隠匿し、間接的に王の血筋を冒涜したことになる。
こうなってくると、シュッツェが洩らした間諜の動向が気懸かりだった。
ネーナはともかく、ダーレンは氏素性を偽って隠れ住んでいるわけではない。ネーナ自身を「証拠」とせずにダーレンの引き渡しを要求するとは思えないが、彼がいまいる場所が悪すぎる。
手の中で酒瓶を弄ぶコーキに、メイは尋ねた。
「もし国境を突破したのが本当に真王のどちらか――あるいは両方だったとしたら、ダーレンにたどり着くまでにどれくらいかかると思う?」
「そうですね……不良魔剣士が確かに国境にいたと最後に報告された時期から計算して、侵入されたのはここひと月以内。都にはとっくに入っているはずですね」
「……じゃあ、あのおっさんに接触した形跡がないのはなぜだ」
「真王の人物像というのが我々の考えるとおりであるのなら、少なくとも西大陸で最も能力の高い魔導士でしょう。しかしその魔導力、あるいは結果としての魔法は、現代と異なる基盤の上にあるのではないでしょうか」
コーキが考え考え言葉を選んでいるのがわかる。自分も彼も専門家ではない。
魔導学は特殊な分野の学問だが、バルファイの創世神話が過去の出来事を下敷きにした故事であるとすると、真王の魔法は「神の奇蹟」だ。一説によると、古い神々は式の詠唱も展開も必要としなかったという。
トランティア魔導学院で教えているのは、研究に基づいた理論と実践である。体系的にまとめられたのはここ数百年の話でも、神話に比べれば新しい。無論、式のない魔術など存在しない。
「よく『東西の魔導士は相性が悪い』などと言いますし、もしかしたら新旧の違いでも同じことが言えるのかもしれません。思うに、バルファイが魔術師を一時根絶やしにしたことが、いまも後を引いているのではないでしょうか。つまり、カビの生えた魔導ではグラヴィール殿の施した目眩ましが暴けずにいるのです。話し合いの余地なしという強硬姿勢を打ち出すバルファイ軍が、十年もの年月を無駄にした所以でしょう。強気な態度の裏で沈黙を守る、という矛盾が、彼の国にはあまりにそぐわないかと」
確かにバルファイの軍隊は、本来走り出したら止まらない、大量の血を浴びて鎮まる狂戦士のような集団だ。
「要はネーナにも同じ目眩ましが施されていて、だから二人を発見できないということか?」
重ねて問うと、コーキは考えるように目を伏せ、顎先を彼に向けた。
「門外漢ですので確たることは言えませんが。いずれにせよネーナ嬢には、いま見えている以上の秘密があることは間違いありません」
それはそうだろう。あのダーレンが、たとえ王族の血をひいているとしても、ただそれだけの少女を拉致するわけがないのだ。
ただ現状判明している限りでは彼にかかる嫌疑は王孫誘拐であり、それはバルファイにとって十分、諸国にトランティア侵攻を黙認させうるお題目だ。ネーナの両親の所在も不明であるところから、その生死に関わる疑惑も消えない。もしバルファイ側が過去を探り、王女の死に確証を得るような事態になれば、ダーレンは王女殺害ならびに王孫誘拐の容疑者となり、罪一等増す結果になる。
しかし一連の事件が真実ダーレンの仕業だとして、動機がまったくわからない。あらゆる手段を講じて調べてもわからないことだらけなのに、時間だけは刻一刻と過ぎていくのだ。
メイは組んだ脚に肘をつき、顎を支えた。
この件に関して女王は表面上――水面下でなにをしているかはともかく――静観の構えだし、ダーレンは黙秘という形で体よくすっとぼけている。いずれもただ一点、確たる証拠がない故によって。しかしバルファイがそれで納得するわけもなく、現に国境は間諜の侵入をゆるした。ならば自分がどうにかして、この危機的状況を回避しなくてはならないのだ。
もし二人の身柄を確保することなくバルファイが仕掛けてきたなら、トランティア最大の友好国である東の隣国アランティスは、不穏な気配を察知してすぐさま援軍を差し向けてくれるだろう。
バルファイを挟んださらに北には利に敏いダリトスが控え、その東には好戦的な民族で知られるディンカセドナも控えている。いずれもトランティアとの関係は良好で、バルファイは苦況に立たされるだろう。
だが騎士団はともかく、トランティア国王軍は数十年ですっかり鈍って平和ボケしている。民らも同様だ。白鷹を動かせば負けはなかろうが、こちらから打って出るわけにいかない限り、バルファイ軍の第一波に直撃された土地は悲惨なことになるだろう。
簡単に解決する方法もある。だが――。
「私はどんな策も捨てていませんよ?」
心を読まれたようなタイミングの言葉に、メイははっと顔を上げた。こちらに横顔を見せるコーキはあくまで優雅に酒瓶から酒をあおり、唇をぬぐった指先に舌を這わせる。
「二人を始末し、なにも知らないと言い張るのが一番手っ取り早い。死体を隠せば、いかに疑わしくともそれまでです」
「コーキ――」
「単に戦を回避するだけなら、ですよ。弊害のほうがはるかに多いいまの状況では、その方法を選択することはできません」
だが捨てもしない。そして実行するとしたら、彼自らがダーレンとネーナの首を狩りに赴くのだろう。
「なにより、あの方を討てば白鷹騎士団を向こうに回す覚悟が必要になるでしょう」
「……あいつらに足元を窺われるかと思うと、ぞっとしないな」
魔導士二人の瞬間的な戦闘力は、一個連隊に換算できる。たった二人で、二千五百人分の働きをするのだ。
白鷹の魔導士はいま――七人。魔剣士を含めれば十一人。それに魔術でサポートする騎士たちを加えて、騎士団としては百人を超えてくる。
メイは音高く舌打ちした。
いかにダーレンが稀代の魔導士といえど生身の人間であるからには、殺せば死ぬのだろう。それこそ年老い、騎士団を退いて杖を失った彼など黒竜騎士の相手ではない。
しかしダーレンが王権を無視した暴挙を繰り返しても五体満足でいられるのは、白鷹騎士団が彼に心酔しきっているからだ。暗殺を試みたところで、ラズロが張りつかせている白鷹に阻止されるだろう。いくら黒竜騎士の身体能力がずば抜けていようとも、彼らは最後の最後、白鷹騎士に負けるかもしれない事情がある。
初期の塔を掌握できなかった数百年前から、いつだって白鷹騎士団は歴代女王の頭痛の種だった。
「グラヴィール殿は厄介な御仁です。もしもネーナ嬢があの方の急所であるのなら、それだけで生かしておく価値がある」
平然と惨いことを口にしながら、コーキは顎をなでさする。
口惜しいことに、小娘一人の存在に付け込まねばならないほど、ダーレンの呪縛はきつく白鷹騎士団に絡みついている。
逆に白鷹さえ取り戻せれば、ネーナもダーレンも用済み。
コーキの言葉は詭弁だ。
「……そういえば、総長殿がおもしろいことをおっしゃっていましたよ」
ふとコーキが声を上げ、おもしろいという割りに複雑な表情を見せた。
「バルファイ王家には主神の力が継承され、どこにいてもその血は惹き合うのだそうです。バルファイ軍がグラヴィール殿を正確に追尾することが可能だった、そして王女あるいは王孫を間違いなく擁していると確信した理由です。それから、ネーナ嬢が孤児院に入れられた当初、廃人同様だったというファイスの証言から察するに、グラヴィール殿が封じたものは、厳密には彼女の記憶ではなく過去そのものだったのだろう、と」
前半はなるほど、いかにもお伽噺の国らしくありそうな話だ。
しかし――過去そのものを封じる、とは。
メイはぐっと眉根を寄せた。
「そんなことが可能か? いや神の力云々からして胡散臭いが」
「私はあり得ると思いますよ。同一王家による統治歴は、東西大陸を通じてバルファイが断トツです。七百年を誇る我が国でさえ足元にも及ばない。ここ数百年、あれほど国が乱れてもまだ続いているところを見ると、なにがしかの加護はあっても不思議ではないでしょう。女児しか生まれない王家という触れ込みには、呪いの存在すら感じますよ」
「では過去を封じるというのは?」
「そのあたりの解説は魔導学の専門家を頼るべきでしょうね。ただ、グラヴィール殿と黒の長がそういう意味で繋がっているのなら、不可能ではありません。魔導の領域において、あのお二方が組んで叶わないことなどないんですよ」
きっとコーキの言うとおりなのだろう。
昔、ダーレンが戯れに城の一部を吹き飛ばしたときのことを思い出す。
重積した式を呼び出す、優美な動作。記名され解放された式の起動部が白磁の杖の先で収斂して青く発光し、徐々に膨れ上がる。攻撃態勢に移る展開部で光は鋼鉄に似た銀色を帯び始め、体積を増した光球が大気を震わせて――。
「…………」
メイは軽く首を振り、ぽかんと口を開けて一部始終を見守っただけの、屈辱的なまでに間抜けな自分の残像を追い払う。
魔導士の魔法というのは、すべての魔導学を包括した式と解で成立する。あれだけ緻密で巨大な式を練り上げ、支え、撃ち出す力を持ったダーレンは正しくトランティア魔術師の頂点にあったのだ。実戦に出ない長に次いで、か。
忌々しかった。いつも、どんなときも。
魔導力を一切持たない――いや、確かに持っているのに使えない彼には、この世で一番魔術師という生き物が理解不能で鬱陶しい。いっそ妬ましいといってもよかった。
「そんなに突き詰めて悩む必要はありませんよ」
眉を寄せて沈黙するメイを誤解したか、コーキがいたわるように口調をやわらげた。
「国の発展を担っているのは魔術師ですが、根底を支えているのは民衆です。いざとなれば、白鷹ごときグラヴィール殿にくれておやりなさい。あの方がおっ死ぬまでの何年かのことですよ」
「……そう、かもな」
憂鬱に嵌りかけたメイは彼に感謝したが、コーキはちらりと一瞥をくれ、澄まし顔で唐突に急所を突いてきた。
「時にダラハーガの賢者殿はお元気ですか?」
その質問の形をとった奇襲に、心臓が派手に跳ね上がる。背骨に怖気が這い、掌まで一気に嫌な汗が噴き出した。
「け、賢者っ?」
「ええ。一度あの方と、直接、じっくり、お話をする機会を持ちたいと常々思っているのですが」
「ち、直接っ?」
声を裏返して挙動不審になるメイを、コーキが世にも冷淡な眼で見ている。しまった冷静にならねば、と思うほどに、落ち着いて座っていることすらできなくなった。
「そうだな、そう、いやしかしその必要はない――こともないかもしれないな!」
立ち上がりかけた肩を、コーキの手がぽんと叩く。そのまま力いっぱい握りしめられ、冷や汗が首筋に流れた。
「おやどうしました、顔色が悪いですよ。ネーナ嬢をグラヴィール殿からすらも隠しおおせる方法がある、とおっしゃったのは賢者殿でしょう。それがゆえのダラハーガ行きでしたよね?」
「ああ……なんだ、その話か……」
「それ以外、なにがあるというんです。――ああ」
腰を屈めて耳元で囁くコーキの声は氷を吹いたように冷たく、ぞくぞくと寒気がとまらない。
「たとえば、賢者殿のベッドの寝心地について、とか?」
その目一杯含みのある言葉で、すべてバレていることを悟った。
「な、なんで知っ――」
「なぜでしょうね? 私は意外となんでも知っているんです。ちなみに賢者殿の昔の男も知っていますよ」
声のトーンが下がった。
忘れるな、とコーキの放つ気配が言っている。
「……俺を責めているのか。大儀にかこつけて恋敵を始末した、卑怯者だと」
「いいえ? それは結果論に過ぎません。ただ賢者の称号を授けるのは王家ですが、選抜と指名は塔の仕事です。過去をどう消化したのかはともかく、彼女はあくまで向こう側の人間、それを忘れておられるのでは、と思っただけですよ」
すっと身を起こしたコーキは、大仰にため息をついて張り詰めた空気を払った。
「もっと適当な相手がいるでしょうに。ファイスといい、あなたといい、どうしてそうややこしいことをするんです」
片眉を上げ、斜めに見下ろしてくる眼は遠慮のない軽蔑を浮かべている。メイはぐっと言葉に詰まり、ふんと顎をそらした。
「俺があっちでなにをしようと、俺の勝手だ!」
いたたまれずに怒鳴ると、コーキの視線がさらに温度を失う。
「本音が出ましたね。すぐにダラハーガの黒竜に連絡して、あちらの身体を海に沈めさせましょうか」
「ユハたちはともかく、英々を突破するのは至難の業だぞ」
「簡単ですよ。あの魔導士は賢者殿の保護者気取りですからね、手をつけられたとチクってやれば――」
「おい待て! 落ち着け!」
そうだ、落ち着け。国の大事について思案していたというのに、いつの間に己の下半身の問題に摩り替わっているというのだ。
メイは握った拳をふるわせて反撃の論を練ったが、そんなものが咄嗟に捻り出せたら最初からこんなことにはなっていない。癖の強い前髪の隙間から盗み見ると、コーキは腕組みをして半目で彼を見ている。どんな申し開きも鼻先であしらう気満々だ。
よろしい――敵前逃亡上等だ。
メイはおもむろに席を立ち、机の残骸に手を着いて跳び越え、先ほどまでファイスが陣取っていた長椅子に跳び込んだ。
「あっ! ちょっとお待ちなさい!」
意図に気づいたコーキがあわてたように声を上げたが、時既に遅し。
メイは椅子から落ちないように素早く身体を横たえ、目を閉じ、暗闇へと意識を投じた。