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魔術師組合  作者: れもすけ
序章
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序章

昔むかし、そのまた昔の大昔。

王国がまだバルファイという名でなかったころ。

大神バルフィクスは、いまのオタール湖の上に大神殿を構え、弟妹神とともにこの地を治めていらっしゃいました。


あらゆる魔法を自在に用い、雨を降らし、あるいは日照りにし、この地に住まう人間をより善き人にしようと導かれました。

隣人への善行を尊び、悪心抱く者を決して許さぬ御心は、弟妹神にも通ずる神の掟となりました。


あるとき、大神は妹神セレスティンに、罪人に拷問をするようお命じになりました。

女神セレスティンは心優しく、兄神の厳しい裁きから、いつも目をそらしておしまいだったからです。


ところが女神はその命令にひどく怯え、大神が斬首に用いる、断罪の剣を持ってユグナール火山にお隠れになってしまいました。


断罪の剣は、ユグナール火山の溶岩を、嵐によってもたらされた雨水と、火竜の息吹で鍛えたこの世にひとつの宝剣です。女神はその貴い宝が人の命を奪うことを嫌い、またそれを振るう兄神を、恐れ多くもお嫌いになっておいででした。


やがて他の兄弟神の追っ手がかかったことに気づいた女神は、もう隠れていられないと悟り、断罪の剣でもって両目をついてしまわれました。

もう人の罪悪は見たくない、人々の罪悪を記した書物も読まずに済むし、罪人の見た目に惑わされることなく、すべてを赦してしまえるとお考えになったのです。


女神の所業を知った大神は、たいそう怒り、大神殿にあった神の国への扉から、弟妹神をつれて神の国へお帰りになってしまわれました。一人の妹神が、二目と見られぬ傷を負ったセレスティンを捨て置くこともできず、こっそりつれていきました。


時を同じくして、女神の切り裂かれた目からこぼれた血を吸ったユグナール火山は乱れ、暴れ、とうとう大噴火を起こしてしまいました。


噴き出した溶岩は、火山の裾野を流れ流れていまのオタール湖まで及び、ついにそこに住む人々とともに大神殿を飲み込んでしまいました。


溶岩が地を溶かし、できた大穴が、オタール湖になりました。そして南へ南へと下った溶岩が、草原の風に遮られ、留められ、盛り上がってできたのが、ゲティホルン山脈です。


そのとき南の平原まで飛んだ大岩のひとつが丘となり、その上に、いまのトランティア女王国の最初の城塞が築かれました。


大神には人の女に産ませた双子の男の子がおりましたが、半分人では神の国へ渡れず、さりとて溶岩の熱に溶けてしまいもせず、この世に取り残されてしまいました。


お二人は大災害の日よりずっと、そしてこれからも永久に、王国の城の奥深く、冷えた溶岩で作った玉座についておいでになるのです。















     二十四年前




 女王が産気づいた――そう報せを受けた女王の夫君は、窓の外で吹き荒れる風がごうごうと喧しくて、報告の近侍の耳に顔を寄せた。

「聞いていたより早いよ、無事に生まれてくるかい?」

 問われた壮年の近侍はわずかに眉を寄せ、しかし強い光を浮かべた目で彼を見つめた。

「御子はお二人にございます、出産が早まるのはままあること。陛下は初産、お時間もかかりましょうし、予断は許さぬ状況にございます。しかし折よく、先ほど黒の塔よりお客人が到着され、いち早く産屋に向かわれました」

 その言葉に、夫君は形よい唇を歪めた。だが何事も口にすることはなく、目的の場所へ向かう脚を速める。


 すでに夜半近い時刻。要所で警備兵の姿を見かける以外、すれ違う人もなかった。もとよりこの宮殿には、女王をはじめとする直系の王族のほかに住まう者はない。こんな嵐の夜では、彼らの親しい友人達も出向いてきてはいないだろう。


 夫君は妻を思った。ともすれば平凡に見えそうな顔立ちだが、空より高い矜持と、産声を上げたその日以来、二十四年かけて培った自信に縁取られ、あふれ出す輝きが彼女を美しく彩る。あまりに細いあの身体で、男には欠片も想像できないと産婆が笑った苦しみに耐えているというのだろうか。

 妻を思えば、その膨らんだ腹も思い出す。懐妊が判明したと思ったら、急激に膨れたその腹を見て、侍医は双子だといった。二人産むのは、一人産むのとなにがどれほどちがうのか、彼には見当もつかず途方に暮れた。


 東のはずれに用意された産屋には、ひっきりなしに女官たちが出入りしていた。沸かした湯の桶を抱えていたり、白く清潔な布を運んでいたりと、あわただしい。夫君はその中に見知った魔術師の姿を見つけて、息を飲んだ。

 知らず脚がとまり、従っていた近侍が怪訝な表情を向けてくるのがわかったが、取り繕う余裕もない。とりあえずは彼を案内するという役を終えて、壮年の近侍は一礼を残して歩み去って行った。


 その部屋で愛しい妻がひとり闘っているのでなければ、彼も踵を返して即刻この場を離れただろう。だが一瞬の逡巡も許さぬタイミングで、魔術師がこちらに気づく。

 小さな会釈とともにゆったりと歩み寄り、その魔術師は彼の前に立った。中肉中背、年齢的にも中年の域に差し掛かろうという男。背丈ならば勝っているけれど、あと他にどこでこの魔術師を上回れるか、自分でもすぐには答えられない。


 二十代半ばの彼よりもはるかに精気のみなぎる眼光に気圧されて、足がすくむ。

「お久しぶりです、殿下」

「……ダーレン、グラヴィール――」

 名前をつぶやいたきり押し黙った彼に、魔術師は――ダーレン・グラヴィールは目を眇めて眉を上げた。言うべきことがあるだろう、といわんばかりの表情に、彼はぎりっと奥歯をかみしめた。


 殿下と呼んだか。そうか。

 では今ここで、彼は昔馴染みの友ではない。発言になんの価値もないお飾りであっても、王婿として威厳を保つ努力をする権利はある。

「――警護の任、ご苦労だったね。この嵐で旅程が乱れてはいけないと、心配したよ」

 だがそのセリフは、ダーレンの中で的をはずれたようだった。眇めていた目を軽く瞠り、不遜な角度まで顎の先を上げて首を振る。

(おさ)は決して(たが)えませぬ。今日この日と長がおっしゃられれば、御子は必ず今日お生まれになる。そして長が取り上げられるとおっしゃったならば、我々は必ず間に合うのです」


 ダーレンの声にどこか嘲弄する響きを聞き取り、彼はぐっと拳を握った。だがそれに気づかれるのは絶対に嫌だったから、さりげなく背後に回して隠した。

「違えない、か。君は本当に、僕を愉快な気分にさせる言葉をたくさん知っている」

「魔術師を廃業したら、道化師としてお抱え下さるか」

 精一杯の皮肉も、ダーレンに唇の端であしらわれた。

 もしそうなったら、さぞ宮廷のおしゃべり雀達が慄くことだろう。だがそれが実現することはありえないから、彼は顔の筋肉を総動員して笑みをつくってみせた。


 不毛な遣り取りを終わらせる決定打を脳裏に模索している最中、急に産屋から女官達が一斉に出てきた。それを不審に感じた彼は、すぐ最悪の事態に思い至って青ざめる。

「なにがあった、陛下は? 子どもは?」

 女官のひとりの腕をつかんで問い質すと、母親ほどの年齢の女官は小さく首をかしげた。

「陛下のお客様が、残らず出て行くようにとおっしゃられて……」

 長か。

 思わず踏み出しかけた脚を、猛烈な意思の力でとどめる。長が出て行けといったなら、自分も中には入れない。無理をとおして行ったとて、できることなどなにもなかった。

 だがここでダーレンを相手に愉快な会話を再開させるつもりもない。彼は産屋の前の壁に寄りかかり、母子ともになんの問題もないという報告だけを待つことにした。


 出産は時間がかかるものだという。まして初産ならなおのこと。朝までに産まれればよいほうなのかな、と覚悟して椅子でも運ばせようかと思い始めたとき。

 扉の向こうから甲高い泣き声が聞こえてきた。

「あ――」

 気づけば産屋の扉に飛びついていた。部屋の中まで飛び込まなかったことを、褒めてほしい。永劫そりの合わない魔術師が背後で嘲笑を浮かべているのは確実だったが、振り返って確認したいとは思わなかった。


 ほどなくそっと扉が内側から開き、彼らを招き入れる声がした。

 震える足で静かに入室すると、分厚いカーテンで窓を覆った室内には、小さな手燭がひとつ灯るきりだった。

 普段使うものとは比べ物にならないほど簡素なベッドの上で、妻が荒い息をついて横たわっている。彼はふわふわとおぼつかない足取りで、だが素早く歩み寄った。

「お疲れ様……」


 枕辺に膝をついて囁きかけると、妻は目を閉じたままうなずいた。汗ではりつく前髪をのけてやり、上気した額に口づける。首をめぐらせて赤子の姿をさがせば、産婆よろしく取り上げた長が、布の塊を抱いているのを見つけた。長の手が布をかきわけ、顔を見せてくれる。両親と同じ黒髪で、母親と同じ癖毛だった。

「ああ、元気に泣いてるね。男の子? 女の子?」

 思わず涙ぐみながら尋ねると、妻はひとつ大きく息をついて、男だといった。

 では未来の国王にはまだ会えないな、と軽口を叩こうとして、はっとする。


 腹にいたのは、双子だったはずだ。もうひとりは――。

 薄暗い部屋ではあっても、広さはない。それらしいものをさがして視線をさまよわせば、妻が気づいて指し示す。台をはずせば揺り籠になる、小さな小さなベッド。

 妻の手をぐっと握ってから立ち上がり、彼は勇気を振り絞ってそこを覗いた。癖毛の赤子と同じように布にくるまれ、しかし産声をあげない赤子を見つめ、彼は青ざめた。自分と同じまっすぐな髪質をした赤子は、ベッドが大きく見えるほど小さな身体でぐったりと横たわったきり、動く気配を見せなかった。

「お、長……!」


 だが俄か産婆は、彼と反対にまったく落ち着き払って首を振った。

「眠っておるだけじゃ」

「そ、そんな! だって産声をあげて初めて呼吸をするんだって――」

「いらぬ」


 実にあっさりと断じられ、彼は妻を振り返る。妻は目を閉じて呼吸を整えるばかりで、彼の不安を払拭してはくれなかった。

 ふら、と影が揺れた。


 顎をつかまれたように首を向けると、長が腕に抱いた赤子を捧げるようにしてみせた。それから音もなく、女王の傍らにその子を横たえる。

「十四になったら、こちらの御子を太子にされよ。ただいまより、陛下の御子はこの方お一人。そちらの」

 と、長はベッドに捨て置かれた赤子にちらりと一瞥を寄越し、また妻へと視線を戻す。

「二番目に生まれ出でた身体は、ダーレン・グラヴィールに託されるがよかろう」

「な――」


 あげかけた抗議の声は、だが彼の妻によって遮られた。彼女は産褥についたまま、まだ火照った頬を引きつらせるようにして彼を見つめた。

「黙れ、そなたに嘴を挟む権利はない」

 その凛とした、しかし君主の衣をまとった声音に圧倒され、彼は口をつぐんだ。それを見届けてから、女王は長に視線を転じた。

「長よ、それはこの子に『メイ』の称号を与えるということに相違ないか」

「いかにも」

「――よかろう。ダーレン、それを持って行け」

 これには彼の我慢も限界だった。

 思わずベッドの中の――彼によく似た赤子を抱き上げて叫んだ。

「ちょっと君、それって言い方はないだろう! この子だって僕らの――」


「黙れ」

 女王はあくまで冷静に、もう一度彼の言葉を遮る。いい加減腹に据えかねて彼女を睨むと、彼女の深い青の瞳は静かに夫の腕に抱かれた赤子を見つめていた。それは母としての愛情を確かに含んで揺れていて、不憫なこの子を自分だけでも守らねば――そう意気込んだ彼の心はしゅるしゅると萎んだ。

「殿下のお気持ちは汲もう。だがお生まれになった御子はお一人、それだけのことよ」

 長の言葉に、彼はきしむ首筋を無理にめぐらせてそちらを見やる。滝のような黒髪をさらりと流し、長は扉へ向かう。


「星が必要であると告げたとき、再びお目にかかろう」

 それが質問や抗議は一切受け付けないという意味の拒絶であると、そこにいる全員が察した。

 そして長は、黒のローブを引きずって産屋を後にした。ダーレンが王子を彼の腕から取り上げ、おざなりな一礼をつけ加えて去って行くのを、彼はただ見送るしかなかった。











     十年前




「ダーレン! ダーレン・グラヴィール!」

 回廊の先を行く後姿を見つけ、考えるよりも先に大声で呼び止めていた。訝しげな侍従をそこに留め、立ち止まった人の元へ駆け足で寄る。


 背に垂らしたフードのついたローブの色は白。襟元から裾の縁を飾る金糸の縫い取りは、古語を混ぜた魔導式の文言。携えた身の丈ほどの細い杖は白磁色に輝いて、細かな黄金細工で真紅の石を留めている。

「すまないけど、ちょっと……いいかな」

 探るように尋ねると、魔導士は肩をすくめて無言で了承の意を示した。久方ぶりの再会だというのに、感慨の欠片も見せない。


 彼より十は上だが隙なく引き締まった体躯は決して大柄ではなく、それでいて言いようのない威圧感を全身で醸している。何年か音沙汰がなかったと思ったら、ふらっと宮廷に戻ってきた男。そのブランクを感じさせない精力的な活動で、瞬く間に国内の魔術師たちと、それから魔導士たちを――白鷹(はくよう)騎士団を掌握してしまった。

 優秀な魔導士だと思う。それは間違いない。自分のような凡人には、到底及ばないレベルの人物だ。子どものころから、彼の背中ばかり見上げてここまでやってきたような気がする。


 しかし、と、鋭い眼光に震えそうになる拳をぐっと握る。言わなければならないことがある。彼は小さく息を飲み、以前から胸につかえていた思いを吐露した。

 話を聞き終えたその魔導士が軽く身じろぎをすると、袷がずれて淡い灰色の服が覗いた。詰襟にわずかな装飾がほどこされただけの、型だけは他の騎士服と同じだ。

「おっしゃる意味を理解しかねますな、大公殿下」

 その声は低く張りがあり、どこか嘲弄を含んでいる。上げた片眉もがっしりとした顎の角度も、これを不遜と呼ばずしてなんと呼ぼう。彼は十四年前の嵐の晩を、ふと思い出していた。

 

 何年たっても身になじまない敬称に内心怯みつつ、それでも精一杯、自分より頭半分背の低い魔導士を見下ろす。

「だ、だから――君が私に、その、そういう態度をとるのは……本当は、陛下に特別な気持ちを抱いているから、なのだろう? だとしたら、少しでも、そう、話し合うべきなんじゃないかと――」

 つかえながら、それでも心からのいたわりをもって言葉を紡ぐ。


 だが魔導士の濃い緑の瞳は、言い募るほどに温度を失っていった。そしてそこに霜が降りそうなほどの冷気を読み取るころには、彼を呼び止めたことを激しく後悔していた。

「……なるほど。シグワード大公殿下は、おしゃべり雀どもの噂話を信じられたか。私が主君に、貴方の奥方に道ならぬ恋をしているという、あれを。しかも失恋を逆恨みして、浅ましく嫌がらせをしていると」

 その声に滲む不快感と怒りに、彼は気圧されて一歩後ずさった。


「ち、ちがうのかい? でも私は他に、君から恨みを買うような覚えは――」

「つまり私を、悋気に駆られて我を忘れる小者、とおっしゃるわけか。しかもそれをご理解なさった上で、哀れな敗者に憐憫をかけて下さる」

「ダーレン、私はなにもそんな――」

 あわてて否定しかけるが、そうとられてなんら間違いのないことを口走ったのは自分だ。シグワードはまっすぐに自分を見上げる緑の瞳から、目をそらした。視界の隅で白磁の杖にはめられた黄金の石突が、こつんと大理石の床を打つ。


「辺境の貧乏貴族の次男坊が、並み居る大諸侯の子弟を押しのけて見事王婿の座を射止められた。その首尾に遅ればせながら称賛を贈る代わりに、ただ今のお言葉は聞かなかったことにしましょう。そしてこれ以降も、聞くことはないでしょうな」

 その類の言葉を陰で聞くことはあっても、ここまで露骨に侮蔑されたことはない。シグワードは表情をかえ、ダーレンを睨みつけた。


「君は私を、いや陛下を侮辱するつもりかい?」

「私は貴方がうまくやられた、と申し上げたのですよ。恨みを買ったおつもりはないのでしょう? 私もお売りした覚えはない」

 ふっと鼻先で笑われ、腹の中に怒りが湧いた。

 だが彼とどこでなにを比較しても、勝てることなど一つもない。それを忘れ、嫉妬だけが理由だろうと言い放ったのは、身の程知らずだった。片腹痛い勘違いの上に立ち、我知らず優越感に目が眩んでいた、とするならば、浅ましいのは己のほうだ。


 継ぐ言葉に詰まり、的外れとわかっていながら、彼は苦し紛れに吐き出した。

「……どれだけ空々しく聞こえても、私たちが愛し合って結ばれたことは一点の曇りもない真実なんだよ」

「ほう、殿下はいつの間に愛のなんたるかを心得られたか」

 大袈裟に両腕を広げ、口の端に嘲笑を浮かべて見せたダーレンの仕草は芝居がかり、シグワードは頭に血が上るのを感じた。


 しかし彼が口を開くよりも先に、ダーレンの目がすっと眇められる。緑の炎が立ち上ったように見えた。

「ではなぜ、私の内にも同じものがあるとは思われない? 私のそれが、決して陛下に向かってはいないとお気づきになられないのだ」

 囁くように低められた声に、シグワードは一瞬意味を図りかねた。そしてその言葉を飲み込んだときには、白衣の魔導士は踵を返して立ち去りかけていた。

「ま、待ってくれ、ダーレン! では君には、別に想う女性があるというんだね?」

 歩みを止めぬまま肩越しに向けられた緑の瞳には、隠すつもりのない蔑みと、哀れみが浮かんでいた。











  七年前




 それが雲ひとつない青空の、天気のよい日だったから、そんな日はいつも思い出す。

 赤ん坊から十五歳までの子どもしかいないというのに、その孤児院は奇妙なほど静かだった。世話係は決して声を荒らげず、いたわりと誠意をもって接してくれる。だがそこにあるのは愛情から程遠い職業意識と義務感だけだと、幼心に皆悟っていたし、互いに肩を寄せ合っていても孤独だった。


 不自然な穏やかさで流れていく日常を壊したのは、緊迫した空気と怒鳴り声をまとってやってきた男。偶然院長室で健康診断を受けていた少年は、男が飛び込んできた場面に遭遇した。

 わけのわからないことを叫び散らして院長に迫る男の腕には、小さな人が抱かれていた。呆気にとられて立ちすくむ少年はそれに気づいたとき、ひどく美しい死体だと思った。


 翌日から大部屋の隅っこを定位置にしたそれは、とても可愛い女の子だった。

 普段はそんなことしないけれど、人形のように静かなその子が妙に気になって、つい声をかけてしまった。

 ふわふわした茶色の髪と、同じ色の大きな目。白い頬に胸がドキっとした。でもその目は虚ろで、唇はぼんやりと薄く開いている。

 ……ちゃんと息をしているのかな。

 思わず屈み込んで、口元に耳を寄せた。細くてかすかだったけれど、吐息を確かに感じる。顔を離して間近に見ると、その子は本当に等身大の人形のようだった。

 じろじろ眺め回しても、なんの反応もない。触ってみようと手を伸ばしたとき、不意に大きな目から涙が零れ落ちて、心臓がとまりそうなほど驚いた。触ろうとなんてしたからか、後ろめたい気持ちで混乱した。


 女の子は動かない表情のまま、はらはらと涙を流し続ける。

 ――オレのものだ。

 唐突に、なぜかそう思った。この子はオレのものだ、オレが面倒を見なくちゃ。十歳男子の思い込みは幼くて激しくて、でも本当に真剣だった。

 その日から三年、少年は女の子を抱きしめて過ごした。

 献身的に世話をするうち、音に反応するようになり、目の焦点が合うようになり、彼を見つめ返すようになり……やがて、ぎこちなく唇の端を上に曲げるようになった。程なく、彼女がとても高くやわらかい声で話すことを知った。

 花が咲いて春の訪れに気づくこと。おなかがいっぱいでなくても満足だと思えること。凍える夜を寄り添ってやり過ごすこと。わけもなく寂しいときは、手をつないで沈黙に身をゆだねること。

 愛とか幸せとか、温もりとか、みんなその子が教えてくれた。


 だから思う。

 取り上げられるばっかりの人生は、もうごめんだ。


 少年は薄暗い路地裏にひっくり返って、建物の間から見える狭い空を睨んだ。バカみたいに澄んだ鮮やかな青、それは彼自身の瞳と同じ色。

 身体を起こそうと試みれば、全身をなんだかいろんな痛みがどっと突き抜けて脱力する。殴られ蹴られ、壁に叩きつけられ、腕を捩じり上げられれば、それはそうだろうと我ながら感心した。骨を折られる前に謝ってよかった、と心底思う。


 でも一体、自分はなにを謝ったんだろう。

 パンを盗んだことか? だけどパン屋の親父にとっ捕まって殴られるならわかるけど、そこらのゴロつきに小突き回される謂れはない。すれ違う人たちから財布をスってたのだって、同じだ。あがりを横からかっさらわれるのに、納得なんてできない。

 青い空を寝転んだまま見上げて思うことは、ただひとつ。

 ああ、今日もまた飯抜きか。

 あらゆる痛みに顔をしかめつつ身を起こし、決意したこともただひとつ。

 もう二度と、つかんだものは奪わせない。











     現在



 その部屋に主が一人でいることは、特段珍しいことではない。

 近侍を控えさせるでもなく、騎士の警護もつけず、正しく腹心たる側近の姿も見当たらない。ただ天井が高く、広い部屋に置かれた特大の執務机に、気だるげな雰囲気をまとわりつかせた主だけがいた。

 だがこの人が憂鬱そうにしていることは少ない、よくない兆候だ。


 彼は重苦しい空気を払うように首を振り、平静を装って主の机に近づいた。そして勧められもせぬうちに、その前に置かれた長椅子に腰を下ろす。

「……来たか」

 間近で見ても、主の端麗な相貌は優れない色を浮かべている。片膝を胸に引き寄せ、くつろいだ様子を演出した。

「お召しとあれば、いつどこへなりと参上しますよ?」

 その軽口に、主の形よい眉が少し上がる。お愛想で応じただけだと、すぐにわかった。


 しばし手元のペンをいたずらにもてあそんでから、ふっと息をつき、主は椅子から立ち上がった。君主の息子とは思えぬ砕けた服装、手櫛を入れただけの癖の強い黒髪。

「俺が戴冠までに片づけておきたい、と思ってる仕事はいくつかある」

 それが本題なのか前置きなのか、瞬時には判断しかねた。確かに抱えている案件は多いし、もう何年も前から手がけている事案もある。

「まぁ、あの陛下はあと五十年くらい現役で頑張りそうだから、太子のまま終わる可能性も否定はできんがな」


 自分の母親のことを話しているというのに、その顔は苦りきっている。小柄で横暴で極局地的な嵐の如き君主は、そば近くにいると迷惑な御方であるが、為政者としては特一級の腕前でもある。並み居る列強を抑えて西大陸で頭をとっているのだから、腹黒さも天下一品なのだろう。

 母親を知らない彼は、主と君主の規格外ながらも腹蔵ない親子の遣り取りを見るのが嫌いではなかった。立場的にそのまま自身を投影するようなことはないが、子どものころを少しだけ思い出す。もっともそのときは、彼が親のようなもので……。


「おまえの探し人が見つかった」

 柄にもなく思い出に耽っていたためか、反応が遅れた。言われた言葉の意味を飲み込むのに、時間がかかったのもある。

 ぎこちなく顔を上げると、いつの間にか酒瓶を手にした主が向かいの席に座っていた。蝋燭の灯りを反射する美しいカットの入ったグラスが差し出され、操られたように受け取る。

「見つかった――わけではないか」


 低められた小さな声に、ぎくりと身が強張る。美しい死体だと思ったあの日の光景が甦り、不吉な感想を抱いた自分に罰が当たったのだと、わけもなく信じた。

「……まさか」

 みなまで言えず絶句した彼の顔色がよほどひどかったのか、顔を上げた主は軽く目を瞠った。そしてすぐ苦笑を浮かべ、ゆるゆると首を振った。

「そうじゃない。そうじゃなくて……」


 言いよどむ主の表情は、自嘲にすりかわっていた。その理由がわからず、一旦は引いた不安が舞い戻って胸が重くなる。

「はっきり言って下さい。彼女はどこにいるんです、無事なんですか?」

 身を乗り出した拍子に、グラスがテーブルの縁にあたった。澄んだ音で我に返ったように、主はひとつ大きく息をつき、彼をまっすぐに見つめた。

「無事でいるとも、いないとも言えない。……まず、俺の話を落ち着いて聞け。十年前、彼女が孤児院に預けられ、三年後、突如おまえの前から姿を消した理由だ」

 深い青の瞳が底冷えする光を浮かべ、彼は魂が縛られるのを感じた。




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