第39話:宰相の敗北
翌朝。
枕元の書簡を読んだ王太子レオンハルトは——壊れた。
「ヴァルター……! ヴァルターが俺を……売ったのかぁぁぁ!!」
絶叫が、森の中に木霊した。
彼の中に残っていた最後の理性が、音を立てて崩壊した。アリスに裏切られ、セシリアに見捨てられ、そして今度は唯一の後ろ盾だったはずの宰相にまで——捨てられた。
レオンハルトは残存兵力を放棄し、わずかな側近だけを連れて王都へ向けて逃走した。
「宰相に裏切られた」と喚き散らしながら。
取り残された王国軍は指揮系統を失い、散り散りになった。
一部は辺境に投降し、一部は森の中で魔獣に喰われ、一部は自力で王国領に逃げ帰った。一万の軍勢は、一度もまともな戦闘を経ることなく、自壊した。
王都は大混乱に陥った。
半狂乱で帰還した王太子が「宰相の裏切り」を公言したことで、宮廷は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。
第二王子派の貴族たちは、ここぞとばかりに宰相への弾劾を開始。「無能な辺境政策で一万の将兵を無駄死にさせた」「王太子を危険に晒した」——政敵たちの攻撃が、四方から宰相に降り注いだ。
ヴァルター・フォン・クラウゼヴィッツは、執務室で静かに報告書を読んでいた。
軍の壊滅。王太子の精神崩壊。第二王子派の台頭。
全てが、自分の「合理的な計算」の外側で起きた事態だった。
(……見誤った)
ヴァルターは窓の外を見た。
(あの辺境の二人——従者と令嬢。あの二人の「異常性」を、俺は正しく計算に組み込めなかった。従者の暴力と、令嬢の知略。どちらか片方なら対処できた。だが、あの二つが噛み合った時——俺の盤面を、完全に超えた)
宰相は弾劾を受け入れ、辞任した。
彼は最後まで激昂せず、弁明もせず、ただ一言だけ呟いた。
「辺境のあの令嬢に伝えるがいい。——見事だった、と」
一週間後。
辺境ヴェスターマルクから、王家に正式な親書が届いた。
起草したのはセシリア。清書したのはエスター。
「我が領地ヴェスターマルクは、王太子の軍勢による不当な侵攻を受けましたが、これを撃退いたしました。我々は王国への叛意を持ちませんが、同時に、いかなる不当な干渉も許容いたしません。今後、辺境への内政干渉が行われた場合、隣国エルデンシアとの軍事同盟を含むあらゆる選択肢を検討する用意がございます」
これは事実上の独立宣言だった。
王国にはもう、辺境を抑え込む力も意志もない。宰相は失脚し、王太子は廃人同然。第二王子派は辺境と良好な関係を望んでいる。
禁輸令は速やかに撤回された。
領主館のバルコニーで、セシリアはその報せを受け取った。
「終わったわね」
「はい。……セシリア様の、完全な勝利です」
「私一人の勝利じゃないわ」
セシリアはエスターを見上げ、薄く微笑んだ。
「あなたが夜の森で魔獣を狩り、あなたが偽書を王太子の枕元に置いた。……私たち二人の勝利よ」
エスターは静かに頭を下げた。
「御意のままに。——我が主」
ヴェスターマルクの空に、勝利の夕焼けが広がっていた。
箱庭は、もはや鳥籠ではない。
二人の怪物が守る、小さな王国だった。
(第三章・第3幕 了)




