第38話:悪役令嬢の舞台
王国軍は、予想通りの動きを見せた。
先鋒部隊が辺境の南端に到達した時、彼らが目にしたのは——空っぽの村だった。
住民は全員、セシリアの指示で北部の要塞集落に退避済み。畑も倉庫も空。略奪するものすらない。
「逃げたか! 臆病者どもめ!」
王太子レオンハルトは馬上で吠えた。
彼の目には、セシリアを追い詰め、膝を折らせる光景しか映っていない。
「殿下、補給線の確保を——」
「うるさい! 追え! 逃げる前に捕らえろ!」
参謀の進言を一蹴し、レオンハルトは本隊を率いて北進した。
——セシリアの読み通りに。
二日目。王国軍は魔の森の外縁部に差しかかった。
その夜、最初の「事故」が起きた。
野営地の西側で、突然の轟音と共に巨大な影が林の中から飛び出した。鎧竜——全長十メートルを超える巨大魔獣。通常は森の深部に棲むはずの種が、なぜか進軍ルートに現れた。
実際には、エスターが森の奥から血の匂いを辿らせて誘導した結果だった。
鎧竜は野営地を蹂躙し、百名以上の死傷者を出して森に消えた。
翌日にもまた別の魔獣が現れ、補給部隊を襲った。食料を積んだ荷馬車が三台、炎上した。
三日目。森の奥へと進んだ王太子の本隊は、完全に補給線から切り離されていた。
「何が起きている……! なぜこんなに魔獣が……!」
レオンハルトの声に、もはや威厳はなかった。
飢えと恐怖が、一万の軍勢を内側から蝕んでいる。兵士たちは夜ごと魔獣の咆哮に怯え、朝が来るたびに仲間が減っている事実に士気を失っていく。
同時に、セシリアの情報工作が効いていた。
辺境の領民を通じて流された噂——「辺境軍は弱腰で逃走中」——を信じた王太子は、いよいよ深追いして森の最奥部に突入。
そこは、地の利を完全に失った死地だった。
四日目の深夜。
パニック状態に陥った本陣に、一つの影が忍び込んだ。
エスターは、王太子の天幕の前に立った。
中からは、うわ言のような呟きが漏れている。正気を半ば失った男の、哀れな独り言。
殺すことは容易い。
この剣を一振りすれば、全てが終わる。
だが、セシリアの指示は違った。
エスターは天幕の入口を音もなく開き、眠る王太子の枕元に——一通の書簡を置いた。
宰相ヴァルター・フォン・クラウゼヴィッツの筆跡で書かれた、機密書簡。
内容は——「王太子の討伐軍が壊滅した場合、責任は全て王太子に帰属するものとし、宰相府は一切関与しない」。
偽造だ。もちろん。
だが、壊れかけた王太子に、それを見抜く力はない。
エスターは、来た時と同じように、影の中に消えた。




