第36話:蜘蛛の巣を返す
反撃は、翌朝から始まった。
セシリアの作戦は三方面同時展開。一つでも遅れれば、宰相に態勢を立て直す隙を与える。猶予はない。
「エスター。まず、これを」
セシリアが差し出したのは、二通の書簡だった。
一通は、精緻な装飾を施された上質な羊皮紙。もう一通は、質素だが宰相府の封蝋を模した偽の公文書。
「上の書簡は、辺境からの正式な取引提案書。魔獣素材の独占販売権を、第二王子派の筆頭貴族であるグレーフェン侯爵に提示するもの。……これは本物よ」
「では、下の書簡は」
「王太子レオンハルトの名で書かれた、グレーフェン侯爵への横暴な増税命令書。——偽物よ。あなたが書くの」
エスターは一瞬、目を見開いた。
そして——口角が歪んだ。偽造は、彼の最も得意とする技術だ。
「お望みのままに。……アリスの筆跡の時と同じ精度で仕上げましょう」
「ええ。二通を同時に届けるの。王太子の横暴に怒ったところに、辺境からの甘い提案が来る。人間は、怒りの直後が一番判断力が鈍るわ」
セシリアの瞳は、冷徹な光を帯びていた。
公爵令嬢として社交界で生き抜くために磨いた、人の心を読み操る技術。それが今、国家規模の策謀として開花している。
同時に、エスターは第二の任務に動いた。
隣国エルデンシアとの交易路開拓。
ヴェスターマルクの北端から国境まで、魔の森を迂回する獣道がある。だが、その道は強力な魔獣の群れに塞がれていた。普通の護衛隊では通過不可能な死地だ。
——普通の護衛隊では。
エスターは単騎で森に入った。
彼が手にしているのは、ループ時代に学んだ魔獣の生態知識と、数えきれない死線をくぐった戦闘技術。ここでは「未知の敵」は存在しない。魔獣は過去のループでも同じ種族が同じ場所にいた。
二時間後。
獣道を塞いでいた魔獣の群れは、一匹残らず殲滅されていた。
エスターの外套は魔獣の血で赤黒く染まっていたが、彼自身には傷一つない。
(政治戦では推しに及ばない。だが——こういう仕事なら、まだ俺に分がある)
交易路が開通したことで、隣国との物資の流れが始まった。塩、薬品、鉄——禁輸令で断たれていた生命線が、王国を経由せずに辺境へ注ぎ込む。
そして三つ目。
領内の工作員ヴェインの処分。
夜更け。南部集落の村長宅に、エスターが音もなく現れた。
「や、やあ……エスター殿。こんな夜更けに何用で——」
ヴェインの額に、一筋の汗が伝う。
エスターは微笑んだ。穏やかで、そして底なしに冷たい笑み。
「ヴェイン殿。俺の主が直々に、あなたへの処分を決定されました」
「しょ、処分……? 何の話だ。私は何も——」
「領民の集めた共有基金から、過去二年間にわたり私的に流用していた件。帳簿の写しと証人の証言、全て揃っています」
ヴェインの顔が、蒼白になった。
横領——それは事実だった。宰相の工作とは無関係に、ヴェインは元々小さな不正を働いていた。宰相はその弱みを握って工作員に仕立てたのだ。
エスターは、宰相と同じ手口をそっくり返した。
暴力ではなく、弱みを握って社会的に抹殺する。
「明朝、領民の前で全てが公表されます。あなたの選択肢は二つ。自ら辞任して辺境を去るか、公開裁判で全てを晒されるか」
ヴェインは、その夜のうちに荷物をまとめて辺境から姿を消した。
三つの矢が同時に放たれた。
第二王子派への工作、隣国との交易路、内通者の排除。
セシリアの頭脳とエスターの実行力が、初めて完全に噛み合った瞬間だった。
王都では、宰相ヴァルターが報告書を読んで——初めて、舌打ちをした。




