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第35話:二人の怪物

 深夜。執務室に、二人だけが残っていた。


 明日から始まる大作戦の前に、エスターには白状しなければならないことがあった。


 ゲルハルトの件。

 あの商人を拘束したのは、完全にエスターの誤認だった。宰相の囮に嵌まり、推しの領地の評判を自らの手で傷つけた。

 その失態を——正直に告げなければ、セシリアの策は盤石にならない。エスターの判断力に「信頼できない部分」があると伝えなければ、彼女は見えないリスクを抱えたまま戦うことになる。


 だが、それは。

 推しの前で「完璧な守護者」の仮面を、自ら剥ぐことを意味する。


 エスターにとって、それは——どんな敵と対峙するよりも、恐ろしいことだった。


「セシリア様」


「ん?」


「一つ、お伝えしなければならないことがあります」


 セシリアは紅茶のカップを置き、エスターに向き直った。碧い瞳が、暖炉の光を静かに映している。


「先日のゲルハルトの件。あの商人は工作員ではありませんでした。俺の誤認です」


「知っているわ」


「……は」


「あなたが拘束した翌日の時点で、帳簿を確認して気づいていた。あの男はただの強欲だもの」


 エスターの全身が硬直した。

 セシリアは、とっくに気づいていた。エスターの失敗を。そしてそれを——黙っていた。


「なぜ……何も仰らなかったのですか」


「あなたが自分で言い出すのを待っていたの」


 セシリアの声は、叱責でも諦めでもなかった。ただ、どこまでも穏やかだった。


「あなたは今まで、全てを一人で処理してきたのでしょう? 失敗も、修正も、全て私に知らせることなく。……でも、それはもう限界よね」


 エスターは、唇を噛んだ。


「……はい。俺のループの知識は、もう尽きました。あの商人を誤認したのは、過去のパターンに縋ったからです。ここから先の未来を——俺は、何も知りません」


 長い沈黙が流れた。

 暖炉の火が爆ぜる音だけが、部屋に満ちている。


 やがて、セシリアが立ち上がった。

 そしてエスターの前に歩み寄り、彼の顔を——傅く彼の顎を、白い指でそっと持ち上げた。


「馬鹿ね」


 碧い瞳には、怒りも失望もなかった。

 あるのは——底知れない熱と、黒い独占欲と、それらの全てを支える絶対的な信頼だった。


「何千回も、私のために一人で血を流していたの? 一人で全部を背負って、一人で全部を解決して。……それで今さら、『もう先が見えない』って震えているのね」


 セシリアの指が、エスターの頬に触れた。


「なら——ここからは、私があなたの目になるわ」


「……セシリア、様」


「あなたが過去を知っているように、私が今を読む。あなたが暗闇で剣を振るうなら、私が灯りを掲げる。あなたが手を汚すなら——私も共犯になる」


 彼女の声は震えていなかった。

 茶会の夜に芽生えた依存が、辺境で育った独占欲が、そしてこの危機の中で磨かれた覚悟が——全て一つに収束して、静かに燃えていた。


「二人でなら、書かれていない明日だって切り拓ける。……でしょう?」


 エスターは、その言葉を聞いて——初めて、推しの前で、無防備に目を閉じた。


 守護者の仮面が、静かに砕けた。

 三千回のループを通じて、誰にも見せたことのない——剥き出しの、ただの男の顔が、暖炉の光の中に晒された。


「……御意のままに。俺は——あなたの剣です。あなたの影です。あなたが指し示す先に、どこまでも」


 エスターは片膝をついたまま、セシリアの手を取り、その甲に額を当てた。

 それは今までの「忠誠の礼」とは、決定的に違っていた。

 守るべき推しへの跪きではなく——共に立つ主君への、心からの敬礼だった。


 セシリアは、彼の銀髪に指を通しながら、囁いた。


「ええ。あなたは永遠に、私の怪物よ」


 その夜。

 箱庭の中で、保護者と被保護者の関係が——永遠に終わった。

 代わりに生まれたのは、最悪で最強の共犯者たち。


 書かれていない明日に向かって、二人の怪物が動き出す。


(第三章・第2幕 了)

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