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第33話:鉄の包囲


 ゲルハルトの一件は、予想通りの火種となった。


 王都では「辺境が無実の商人を不当に拘束した」という話が尾ひれをつけて広まっている。宰相がどこまで話を盛っているかは分からないが、辺境の評判が落ちていることは確実だった。


 そして、真の工作員ヴェインの仕事は着々と進行していた。


「セシリア様は立派な方だ。だが、あの従者のせいで王国に睨まれている。あの男さえいなければ、我々は平穏に暮らせるのに——」


 その噂は、まるで地下水のように領民の間に浸透していた。

 誰が最初に言い出したのかも分からないほど自然に。ヴェイン自身が言っている姿を見た者はほとんどいない。彼はただ、酒場で相槌を打ち、井戸端で顔をしかめ、微妙な空気を作り出すだけだった。


 物資の枯渇が、その噂に説得力を与えていた。

 塩が底を突き始め、薬草の備蓄も心許ない。子どもの体調を崩す家庭が増え始めた。


「エスター。領民が館の前に集まっている」


 側近の報告を受けたエスターは、窓の外を見た。

 二十人ほどの領民が、不安げな顔で門の前に立ち尽くしている。暴動ではない。ただ、彼らの目に宿っているのは——かつての「守り神」への信仰ではなく、静かな疑念だった。


 (あの連中を煽っている元凶は、ヴェインだと分かっている。だが——)


 ヴェインを暗殺すれば?

 不可能だ。彼は領民から慕われる村長だ。突然死でもすれば、エスターの仕業だと疑われ、噂はさらに加速する。それこそが宰相の狙いだ。

 暴力で解決できない。罠にかけて排除する相手でもない。政治的に追い詰めるしかないが——それはエスターの領分ではない。


 毒を仕込むことはできる。

 短剣で刺すこともできる。

 だが、この戦場では——その全てが意味をなさない。


 「盤上(政治戦)にルールが変わったのに、俺は盤外(暴力)のルールでしか戦えない」


 歯噛みするエスターの背後で、扉が開いた。


「館を出るわ」


 セシリアだった。

 外出用のマントを羽織り、手袋をはめた彼女は、領民の集まる門へ向かって歩き出していた。


「セシリア様! 外は——」


「私が守られている間に、私の領民が飢える。そんなことは許さないわ」


 セシリアは振り返りもせずに言った。


「それに、あなたがどれだけ壁を築いても、箱庭の中から壊れていくなら意味がないでしょう? だったら——私が出て行くわ」


 エスターは、その背中を追うことしかできなかった。

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