第32話:空振りの短剣
禁輸令から五日。
エスターは動いていた。
宰相が最後通牒を突きつけてきた以上、辺境に工作員を潜り込ませているのは間違いない。
ループ時代に磨き上げた手法——「敵の行動パターンを先読みし、罠にかけて排除する」。これまでの敵は全て、その方法で始末してきた。
標的はすぐに見つかった。
ここ数ヶ月の間に辺境に進出してきた行商人のうち、ひときわ不自然な動きをしている男がいた。塩商人を名乗るゲルハルト・ブラウン。王都からの禁輸令が出た後も辺境に居座り、領民に高値で塩を売りつけ、裏では情報を集めている。
(典型的な工作員のパターンだ。安全圏から領地の動向を探り、本国に報告する。過去のループで何度も見た手口。間違いない)
エスターは深夜、ゲルハルトの宿に忍び込んだ。
男の所持品を調べ、王都との連絡手段を探す。
——だが。
見つかったのは帳簿だけだった。
それも、怪しげな暗号文書ではない。ただの商売帳簿。法外な利益率を記録した、強欲な——しかし、ただそれだけの商人の帳簿。
(おかしい。工作員なら暗号通信の痕跡があるはず——)
嫌な予感が背を走ったが、もう遅かった。
エスターは既に、この男を「宰相の工作員」として部下に拘束させていた。ゲルハルトは取り調べの中で顔を真っ赤にして喚いた。
「俺はただの商人だ! 塩が足りないから高く売ってただけだろうが! こんな横暴が——王都に報告してやる!」
——王都に報告してやる。
その言葉を聞いた瞬間、エスターの脳裏に、背筋が凍るような光景が浮かんだ。
これは罠だ。自分が嵌まった罠だ。
宰相はこの強欲な商人を「わざと目立つように」辺境で泳がせていた。
エスターが過去のパターン通り——「怪しい動きをする者=工作員」というループ時代の認識のまま排除することを、見越していた。
罪のない(強欲なだけの)商人を辺境領が不当に拘束した。
この事実は、「辺境は王国臣民を弾圧している」という宰相の主張を裏づける、格好の証拠となる。
エスターはゲルハルトを即座に解放し、ありったけの補償金を握らせたが、男は吐き捨てるように言い残した。
「訴えてやるからな、覚えとけ!」
——では、本当の工作員は誰だ。
答えは、エスターの足元にあった。
ヴェインと名乗る南部集落の村長。三年前から辺境に移住し、人望が厚く、エスターも信頼していた初老の男。
だがこの男は禁輸令が出る以前から、領民の間に「あの従者さえいなければ、王国と事を構えることもないのに」という噂を、まるで自然な世間話のように植えつけていた。
宰相の真の刃は、「悪意剥き出しの工作員」ではなかった。
善良な顔をした普通の男に、ほんの少しの利益と脅しを握らせて動かす——それが、ヴァルター・フォン・クラウゼヴィッツの手口だった。
エスターはその夜、自室の壁に拳を叩きつけた。
拳の皮が裂け、血が滴る。だが、その痛みよりも深く、彼を苛んでいたのは——
(俺のミスだ。パターンに頼った。過去の成功体験に縋った。……そして推しに、不利益をもたらした)
ループ時代なら、こんなことは起きなかった。
全ての敵を「体験済み」として処理できた時代には、判断ミスという概念そのものが存在しなかった。
だが、ここはもう——ループの外だ。




