第31話:帝の使者
翌週、事態は動いた。
領主館の正門に、王家の紋章を掲げた馬車が到着したのだ。
先月の「帰還命令」を拒否して以来、初めての王都からの公式な使者だった。
だが、降り立った人物の顔を見た瞬間、エスターの目が細まった。
あれはただの外交官ではない。
「ヴェスターマルク辺境伯セシリア・フォン・ローゼンベルク殿。王国宰相ヴァルター・フォン・クラウゼヴィッツ閣下より、親書をお届けに参りました」
使者が差し出したのは、宰相の紋章入りの封蝋で封じられた一通の書簡だった。
セシリアが静かに封を切り、目を通す。
やがて、彼女の眉がわずかに動いた。
「……辺境領ヴェスターマルクの統治権は、王家の臣下として国法に従い行使されるべきものである。独立的な振る舞いを続けるならば、それは叛意と見なす。速やかに王都への帰順と、現行の独自政策の全面撤回を求める」
セシリアが書簡の内容を読み上げると、同席していた側近たちの顔に緊張が走った。
「最後通牒、ですかしら」
セシリアは書簡を卓上に置き、冷ややかに微笑んだ。
「なお——」
使者が付け加えた。
「王太子レオンハルト殿下の御名において、辺境領への食糧および戦略物資の禁輸令が本日付で発布されております。これは叛意なき証として帰順が確認されるまで、継続されるものといたします」
禁輸令。
それは、箱庭への最初の刃だった。
ヴェスターマルクは急速に発展しているとはいえ、全ての物資を自給できる段階には至っていない。特に塩、鉄、医薬品は王国内の他領からの交易に頼っている。それを断たれれば、数ヶ月のうちに領民の生活は逼迫する。
使者が去った後、エスターは執務室で一人、書簡を睨みつけていた。
(宰相ヴァルター・フォン・クラウゼヴィッツ……)
この男の情報を、記憶の中で必死に検索する。
膨大なループの記憶を片端から掘り起こす。
——該当なし。
(どのループでも、この男は俺の前に現れたことがない)
当然だ。
過去のどのループでも、セシリアは辺境に辿り着く前に——いや、多くの場合は茶会ですら生き延びられずに命を落としていた。辺境が王権を脅かすほど発展することなど一度もなかったのだから、宰相が動く理由がそもそも存在しなかった。
つまり、この敵は——完全に「ループの外側」から来た存在だ。
エスターはこれまで、あらゆる敵をパターン認識で先読みしてきた。アリスの暗殺計画も、ユリウスのチート攻撃も、全ては「過去に体験した」から対処できた。
だが、この宰相には過去がない。
参照すべきデータがない。
読むべきパターンがない。
(ゲームの敵ではない。チート知識では倒せない。感情的に暴走もしない。……国家権力を背景に持つ、本物の政治家。これは——)
エスターの拳が、机の上で白くなるまで握り締められた。
(俺が最も苦手とする種類の敵だ)
暗殺で片づけることもできない。宰相を殺せば、王国は辺境に軍を差し向ける大義名分を得るだろう。個人の排除では解決しない、システムとしての脅威。
窓の外では、禁輸令の報せを聞いた商人たちが慌ただしく荷馬車を走らせ始めている。領地に流通していた物資が、目に見えて細り始めていた。
箱庭に——ヒビが入り始めた音が、エスターの耳に静かに響いていた。
(第三章・第1幕 了)




