第30話:怪物の汗
異変は、些細なところから始まった。
領主館への出入りに、新たな検問が設けられた。
セシリアの居室周辺の警備が、倍に増員された。
領民が領主館を訪れるための手続きが、突然煩雑になった。
全てエスターの指示だった。
表向きの理由は「領地拡大に伴う安全対策の強化」。
だが実態は——エスターが「分からない恐怖」を、物理的な壁の量で埋めようとしているだけだった。
「エスター」
ある夜。セシリアは、バルコニーで夜風に当たっていたエスターに声をかけた。
「昼間の領民集会、出席者がずいぶん少なかったわ。門の検問が面倒で来られない人が増えているそうよ」
「……申し訳ございません。警備体制の見直しを——」
「そういう話ではないの」
セシリアの声は穏やかだったが、碧い瞳は鋭かった。
第一章の茶会で、エスターの手首に残る魔毒の痕跡を見抜いたのと同じ——あの聡明な観察眼が、今、エスターの内面を正確に読み取っている。
「あなた、最近よく眠れていないでしょう?」
エスターの呼吸が、一瞬だけ止まった。
「……問題ありません。身体は万全です」
「嘘」
セシリアが一歩近づく。
彼女の白い指が、バルコニーの手すりに置かれたエスターの手に触れた。
「あなたの手が、震えているわ」
——震えている。
言われて初めて気づいた。あるいは、気づかないふりをしていた。
これまでのどのループでも、エスターが手の震えを自覚したことは一度もない。毒を仕込む時も、敵を始末する時も、一切の動揺なく最適な判断を下し続けてきた。
だが今は違う。
知らない未来への恐怖だけは——どれほどの経験をもってしても、制御できない。
「何を怖がっているの?」
セシリアの声が、夜気の中に溶けるように静かに響いた。
「あなたは何千回もの死を越えた怪物でしょう? アリスを自滅させ、ユリウスを地獄に送り、古代竜すら倒しうる男。……あなたが怖がることなど、この世にないはずよ」
エスターは答えられなかった。
「知らない明日が怖い」とは言えなかった。それを認めることは、推しの前で「完璧な守護者」の仮面を自ら剥ぐことを意味する。
長い沈黙が流れた。
セシリアはそれ以上問い詰めなかった。ただ、エスターの震える手の上に、自分の手をそっと重ねただけだった。
温かかった。
どのループでも感じたことのない、推しの掌の温度だった。
「……無理に答えなくていいわ。でも、覚えておいて」
セシリアの碧い瞳が、月明かりの中で冷たく、しかし美しく光った。
「あなたが何を恐れていようと——私は此処にいる。あなたの箱庭の中に。あなたの手の届く場所に。それだけは、どんな未来でも変わらないわ」
エスターは、ゆっくりと顔を伏せた。
「……御意のままに」
その声は、いつもより僅かに掠れていた。




