第29話:三千一回目の朝
ヴェスターマルクの朝は、いつも霧から始まる。
魔の森から滲み出す乳白色の靄が、領地全体を柔らかく包み込み、日の出とともにゆっくりと晴れていく。かつてはその霧を「瘴気」と呼んで恐れた領民たちも、今では「女領主の加護の証」として親しんでいた。
——もちろん、その「信仰」がエスターの周到な情報工作の産物であることを、誰も知らない。
朝日が領主館のキッチンに差し込む頃、エスターは既に一時間前から動いていた。
南方から取り寄せた希少な茶葉を、寸分の狂いもない温度で蒸らす。焼き立てのスコーンには、セシリアが好む蜂蜜を薄く塗る。果物は今朝、領民が届けてくれた林檎の中から、最も甘い香りのするものを選り抜いてある。
完璧な朝食。完璧な朝。完璧な——箱庭。
セシリアがダイニングに姿を見せると、エスターは恭しく椅子を引いた。
「おはようございます、セシリア様。本日もよいお天気です」
「ふふ、おはよう、エスター。……いい香りね、この紅茶」
セシリアの微笑みを見て、エスターの胸に甘い充足感が満ちる。
推しが笑っている。推しが安全に朝を迎えている。推しが、自分の用意した世界の中で、穏やかに息をしている。
これ以上の幸福などない。
——はずだった。
夜。領主館の巡回を終えたエスターは、自室の窓辺に腰掛け、暗い領地を見下ろしていた。
眠れない。
ここ数日、まともに睡眠を取れていなかった。
原因は分かっている。
原因は分かりすぎるほど分かっている。
(俺の知識は、ここで終わりだ)
幾千ものループ。幾千もの絶望。幾千もの殺戮。
その膨大な記憶の蓄積が、エスターに「全知」を与えていた。アリスの計画も、ユリウスの攻撃パターンも、魔の森の隠しボスも——全ては「既に体験した」出来事だった。
だが。
(過去のどのループでも、セシリアがこの時点まで生き延びたことは——一度もない)
これまでのどのループでも、セシリアは茶会の毒殺か、王太子の直接攻撃か、その後の政敵の暗殺か、何らかの手段で必ず命を落としていた。
今のセシリアは、全てのループの歴史の中で「最も遠くまで生き延びた」セシリアだ。
つまり——ここから先は、完全な未知。
(明日、何が起こるか。誰が推しを狙うか。どんな手段で来るか。……俺は、何も知らない)
窓の外、領地に最近やたらと増えた王都からの行商人たちの灯りが、点々と見える。
あれは偵察か? ただの商売か?
ループ時代なら、一瞬で見極められた。過去に同じパターンがあったかどうか、記憶を検索すればよかった。
だが今は、検索先がない。膨大な記憶のどこを探しても、「該当なし」が返ってくる。
エスターは翌日から、疑わしい行商人を片っ端から調査し始めた。
身元照会。荷物の検査。過去の取引履歴の洗い出し。
結果——大半は、辺境の繁栄を聞きつけて商機を求めてきた、ただの商人だった。
空振り。
空振り。
空振り。
焦りが、螺旋のように締め上がっていく。情報がないまま動けば動くほど、的外れな行動を重ねている自覚がある。
それでも止められない。止まれば、推しが死ぬかもしれないから。
(全てを知っていたはずの俺が、知らない明日を……こんなにも恐れている)
窓の外で、ヴェスターマルクの夜霧が、静かに深まっていった。




