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第20話:閉じた世界の甘い毒


 ヴェスターマルクに着任して、一ヶ月が過ぎた。


 荒れ果てた領地は、信じがたい速度で変貌を遂げていた。

 エスターの手配により、南方から建築資材が次々と運び込まれ、崩壊しかけていた領主館は瀟洒な邸宅へと生まれ変わった。

 農地は魔の森から離れた安全な区画に再編成され、防壁と監視塔が集落を取り囲むように建設されている。


 領民たちの顔にも、少しずつ血色が戻り始めていた。


「これは……本当にあの従者一人の力なの?」


 セシリアは執務室の窓から、活気づき始めた領地を眺め、半ば呆然と呟いた。

 建築の知識、農業の技術、防衛の設計——エスターが次々と打ち出す政策は、どれも常人が持ち得る範囲をはるかに超えている。まるで、この土地の最適解を「前もって知っていた」かのように。


 ——前もって、知っていた。


 セシリアの背筋に、甘い戦慄が走る。

 茶会の夜に看破した真実——彼が「未来を知っているかのように」全てを先回りする怪物であること——が、再び脳裏を過ぎった。


「セシリア様。本日の視察のご予定ですが」


 エスターが静かに入室し、書類を差し出す。

 セシリアは彼の手首を見た。あの日の青黒い変色は、もう消えている。


「……エスター」

「はい」

「あなたは、この土地のことも——全て『知って』いたの?」


 エスターの手が、一瞬だけ止まった。

 だが次の瞬間には、いつもの完璧な従者の仮面が張り付いている。


「セシリア様のお役に立てるよう、赴任前に徹底的に調査したまでです」


「嘘ね」


 セシリアは静かに立ち上がり、エスターの正面に立った。

 碧い瞳が、底知れぬ深さで彼を見上げる。


「調査で分かる範囲を超えている。あなたは知っていた。この土地の脅威も、領民の気質も、魔の森の生態系すら——まるで、何度もこの土地で暮らしたことがあるかのように」


 エスターは答えない。

 ただ、微かに目を細めた。推しの聡明さに対する、歪んだ賞賛のまなざしだった。


「——答えなくていいわ」


 セシリアは、意外にも追及を止めた。

 その代わり、彼の首元のネクタイに指を掛けて、ゆっくりと引き寄せた。


「あなたが何者で、何をしてきたか——私にとって、もうどうでもいいの。重要なのは一つだけ」


 彼女の唇が、囁くようにエスターの耳元に寄せられた。


「あなたは、私のためにその全てを使ってくれるのでしょう? ——ならば、それでいい」


 エスターの心臓が、跳ねた。

 三千回のループの中で、彼は一度もこのような言葉をかけられたことがなかった。推しは、いつも自分の存在に気づかず、あるいは気づいても恐怖して遠ざかった。

 だが今、この推しは——怪物を、怪物と知った上で、「私のものだ」と宣言している。


「……御意のままに」


 エスターの声が、わずかに震えていた。

 狂喜。歓喜。そして、もっと深い場所にある、底知れぬ執着。


 ——ああ、推しが俺を「認めて」くれた。

  もう二度と、離さない。離させない。

  この箱庭を、推しと俺だけの完璧な密室にしてみせる。

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