第2章 通知の来ないスマートフォン
エミにとって、世界は整理整頓されるべきデータベースだった。 彼女のスマートフォンの中身を見れば、その哲学は一目瞭然だ。 アプリは色ごとにフォルダ分けされ、未読バッジはゼロ。写真は日付とイベントごとにタグ付けされ、連絡先は「重要度A」から「D」までランク付けされている。
混沌は敵だ。 予測不可能性はリスクだ。 だから彼女は、人生というプロジェクトにおいても、完璧な進行管理表を引いていたはずだった。
「……なんで、こうなるのよ」
エミは、『エントラクテ』の窓際の席で、冷めきったコーヒーを見つめながら呟いた。 時刻は十八時を回っている。 本来なら、今頃は丸の内のイタリアンレストランで、商社マンの男性と「二回目のアポイントメント」をこなしているはずだった。 しかし、一時間前に届いたLINEが、その予定を空白に変えた。
『急な海外出張が入ってしまって。また連絡します』
嘘だ。 エミの直感がそう告げている。 彼のSNSの更新履歴を、彼女は既にチェック済みだ。三十分前、彼は友人とゴルフの打ちっ放しにいる写真をアップしている。 「急な出張」とは、現代の婚活市場において最もポピュラーな「お断り」の隠語だ。
エミは、テーブルの上に置いた二台のスマホのうち、プライベート用の方を裏返した。 画面を見たくなかった。 そこには、自分が「選ばれなかった」という事実だけが残されている。
「お代わり、いかがですか」
いつの間にか、マスターがポットを持って横に立っていた。 気配を消すのが上手すぎる。あるいは、エミが自分の思考の迷宮に入り込みすぎていただけか。
「……結構です。もう帰りますから」
エミは強がって言ったが、体は動かなかった。 家に帰りたくなかった。 独身用の、機能的で、掃除の行き届いた1LDKのマンション。 そこには、誰もいない。 待っているのは、高機能なロボット掃除機と、喋らない観葉植物だけ。 かつては、その静寂こそが成功の証だと思っていた。誰にも邪魔されず、自分の時間をコントロールできる贅沢。 けれど最近、その静寂が耳鳴りのように響くようになった。
「ねえ、お姉さん」
不意に声をかけられ、エミは肩を跳ねさせた。 振り返ると、あのピンク髪の少女が、カウンターの椅子を回転させてこちらを見ていた。 アリス、と名乗った少女だ。 彼女はまだ店にいたのか。
「お姉さんさ、さっきからずっとスマホと睨めっこしてるけど、画面割れるよ?」
「……あなたには関係ないでしょ」
エミは冷たく言い返した。 この少女が苦手だ。 エミが必死に築き上げてきた常識やマナーといった防御壁を、泥だらけの靴で踏み越えてくるような図々しさがある。 先ほどの「嫌な目つき」発言で、あの陰気な作家志望の男を撃沈させた手腕は見事だったが、自分がターゲットになるのは御免だった。
アリスは悪びれもせず、ストローを噛みながら言った。
「誰かを待ってるの?」
「待ってないわよ。……もう、キャンセルになったから」
「ふうん。ドタキャン? かわいそ」
「同情はいらないわ。ビジネスではよくあることよ。リスケジュールすればいいだけ」
「ビジネス? デートの話じゃないの?」
アリスは小首をかしげる。 エミは言葉に詰まった。 デート。そう、世間一般ではそれをデートと呼ぶ。 しかしエミにとっては、それは「面接」であり「商談」だった。相手のスペックを確認し、こちらの価値をプレゼンし、合意形成を図る場。 そこにロマンスなんて不確定要素が入り込む余地はない。
「……効率よく相手を見つけたいだけよ。人生の時間は有限なんだから」
エミは手帳を開き、ボールペンを走らせた。 『バツ印』を、先ほどの商社マンの名前に書き込む。これでリストはまた一つ減った。
「効率、ねえ」
アリスはカウンターから飛び降りると、エミのテーブルに近づいてきた。 そして、無遠慮に手帳を覗き込もうとする。 エミは慌てて手帳を閉じた。
「ちょっと! プライバシーって言葉を知らないの?」
「だって、つまんなそうなんだもん。そのリスト」
「つまらないとかじゃないの。これは私の人生設計なの」
「設計図通りに家が建ってもさ、住んでて楽しいかは別じゃん?」
アリスの言葉に、エミの手が止まる。 住んでて楽しいか。 そんなことは考えたこともなかった。 頑丈で、資産価値が高くて、人から羨ましがられる家。それを建てることだけが目的になっていた。
「大体さ、お姉さんが本当に欲しいのって、その『条件』なの? それとも、別の何か?」
「別の何か、って……」
「例えば、一緒にいて黙ってても平気な人、とか。ダメなところを見せても笑ってくれる人、とかさ」
エミは鼻で笑った。
「そんな少女漫画みたいなこと、現実にはないわよ。結婚は生活なの。経済力と価値観の一致が全て」
「ふーん。つまんない大人」
アリスはつまらなそうに肩をすくめると、自分の席に戻っていった。 エミは苛立ちを募らせながら、再びスマホを手に取った。 マッチングアプリを開く。 新しい「候補者」を探さなければならない。 条件を入力する。 年収。学歴。身長。 検索ボタンを押す。 何十人もの男性の顔写真が並ぶ。 どれも、同じに見える。 笑顔を作っているけれど、その目の奥には、エミと同じような「値踏み」の色がある。
スクロールする指が重くなる。 ふと、視界の端で、作家志望のカイトが、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めているのが見えた。 先ほどまで死んだ魚のような目をしていた彼が、今は何かに取り憑かれたように画面に向かっている。 アリスの言葉が、彼の何かを変えたのだろうか。
そして、奥の席のレン。 彼は帽子を目深に被ったまま、ブツブツと何かを呟いている。 よく聞くと、それはセリフのようだった。 「画が死ぬ」と言われた彼は、今、影の中で必死に生きようとしている。
私だけだ。 私だけが、まだ何も変わっていない。 条件という檻の中で、来るはずのない通知を待ち続けている。
「……嫌になる」
エミは小さく呟いた。 その時、アリスがカウンターに置いた懐中時計が、カチリ、と小さな音を立てたような気がした。 エミは顔を上げた。 まさか。 動かないはずの時計だ。 だが、その音は、エミの心の中にある堅牢な「設計図」に、ごく小さな亀裂を入れたようだった。
「マスター」
エミは気づけば口を開いていた。
「……メニューにないもの、頼めるかしら」
「材料さえあればね」
マスターは穏やかに答える。
「甘いもの。すごく甘くて、カロリーとか糖質とか、そういうのを全部無視したやつ」
エミの言葉に、マスターは初めて、楽しそうに目を細めた。
「かしこまりました。とびきりの『ルール違反』を用意しましょう」
エミはスマホをバッグの奥底に放り込んだ。 通知なんて、もうどうでもいい。 今夜は、この奇妙な空間で、少しだけ自分の時間を浪費してみようと思った。 それが、彼女にとっての、最初の「変化」だった。




