第1章 路地裏の劇場
「あなたの人生は、ロード中の画面に似ていますね」
誰かにそう言われたら、僕は間違いなくその顔面に冷めたコーヒーを浴びせかけていただろう。 だが、否定はできない。僕の人生は、いつだってプログレスバーが九十九パーセントで止まったままだ。あと一パーセント。ほんのわずかなデータが足りないせいで、画面は永遠に暗転したまま、次のシーンへと切り替わらない。
僕はスマートフォンの画面をタップする。指先に湿った感覚が残る。手汗だ。 画面が点灯し、現在時刻が表示される。十四時三分。 前回確認してから、まだ二分しか経っていない。 通知センターには、「新着メールなし」という無慈悲な事実が、透明な空白として横たわっているだけだった。
「……はあ」
ため息は、古い革張りのソファに吸い込まれて消えた。 ここは都市のエアポケットのような場所だ。大通りから一本入った路地裏、雑居ビルの半地下。外壁を覆う蔦は、まるでビルそのものを絞め殺そうとしているかのように深く根を張っている。 店の名前は『エントラクテ』。 フランス語で「幕間」を意味するこの喫茶店は、その名の通り、人生の出番を待つ人間たちが、時間を持て余して吹き溜まる場所だった。
店内は薄暗い。照明は極限まで絞られ、アンバー色の光が、磨き込まれたカウンターの縁をなぞっている。空気は重く、深煎りのコーヒー豆の香りと、カビ臭い古書の匂い、そして誰かが置き忘れていった焦燥感の匂いが混じり合っている。
僕は、テーブルの上に広げたノートパソコンのキーボードに指を置いた。 カーソルが点滅している。チカ、チカ、チカ。 それはまるで、僕の心拍数をあざ笑うメトロノームのようだった。
『第十八回 新人文学賞 最終選考結果発表』
ブラウザのタブには、その文字が躍っている。発表は今日の正午だったはずだ。受賞者には、正午前に電話が入るという都市伝説がある。 今は十四時。電話は鳴らなかった。 つまり、そういうことだ。また、落ちた。 三年間で、四つの賞に応募し、二次選考止まりが三回。今回は初めて最終に残ったが、結局は「あと一歩」という名の落選だ。
「カイトくん」
静寂を破ったのは、カウンターの奥から響く低い声だった。 マスターだ。 年齢不詳だが、還暦は過ぎているだろう。白髪をオールバックに撫でつけ、黒いベストを完璧に着こなしている。彼は、グラスを拭く手を止めずに、僕の方を見た。その視線は、舞台袖から役者を見守る演出家のように鋭く、それでいてどこか慈悲深い。
「コーヒー、冷めているね。淹れ直そうか」
「いえ……いいです。どうせ、味なんて分からないんで」
僕は自嘲気味に笑った。舌の根に残るのは、酸化したコーヒーの酸味と、自分自身の情けなさだけだ。
マスターはわずかに眉を上げ、拭き終えたグラスを照明にかざした。ガラスの表面で、光が一瞬だけ鋭く反射する。 「味は分からなくても、温かさは分かるはずだ。冷たいものを腹に入れると、心まで冷えるよ」
「心なんて、とっくに凍ってますよ」
憎まれ口を叩きながら、僕はカップに残った黒い液体を煽った。喉に引っかかる苦味が、僕の敗北の味そのものだった。 この店には奇妙なルールがある。 『注文は一杯でいい。滞在時間は無限』 金のない僕のような人間にはありがたいが、商売として成り立っているのかいつも不思議に思う。客層を見れば尚更だ。
カラン、コロン。
ドアが開いた時に鳴るベルの音は、妙に軽やかで、この店の重厚な雰囲気には似つかわしくない。 入ってきたのは、ハイヒールの音だった。 カツ、カツ、カツ。 硬質なリズムが、店内の澱んだ空気を切り裂く。
現れたのは、仕立ての良いベージュのトレンチコートを着た女性だった。 エミさんだ。 三十代前半、大手企業の広報担当。艶のある栗色の髪を完璧に巻き、メイクにも一分の隙もない。彼女は入り口で一度立ち止まり、眉間にシワを寄せながらスマホを確認し、それから大きく息を吐き出して、いつもの定位置――僕の席から二つ離れた窓際の席へと向かった。
彼女もまた、この店の「待つ人」の一人だ。 彼女が待っているのは、才能の開花なんていう曖昧なものではない。もっと現実的で、シビアな数字だ。
「いらっしゃい、エミさん」
マスターが声をかけると、エミさんはコートを脱ぎながら短く答えた。 「いつもの。急ぎでお願い」
「ここでは時間はたっぷりとあるんだがね」
「私にはないの。一分一秒がコストなのよ」
彼女は席に着くや否や、ハンドバッグから手帳と二台のスマホを取り出し、テーブルの上に並べた。まるで作戦司令室だ。 彼女の視線が、僕の方を一瞬だけ掠めた。 「またいるのね、売れない作家志望くん」という無言のメッセージが含まれている気がして、僕は慌てて視線をパソコンの画面に戻した。
僕たちは、ここでは互いに干渉しない。 名前を知っているのも、マスターがそう呼ぶからだ。深く関わらないのは、互いの傷口を舐め合うような真似をしたくないからだし、何より、他人の「待ち時間」に付き合うほど、自分たちの人生に余裕がないからだ。
画面の中の文字が滲む。 『才能とは、諦めないことだ』 誰かが言った陳腐な格言を思い出す。 嘘だ。才能とは、諦めさせる隙を与えない圧倒的な速度のことだ。 僕には、それがない。ただ、待つことだけが得意になっていく。
「……ねえ、マスター」
エミさんが、届いたコーヒーに口もつけずに言った。
「人間って、スペック表通りにはいかないものなの?」
「おや。機械の故障なら修理屋を呼ぶべきだが、人間のことなら、もう少し詳しく聞かないとね」
マスターは穏やかに微笑む。エミさんは苛立ったようにスプーンでカップの縁を叩いた。チリ、と硬い音が響く。
「年収一千万、次男、身長百七十五センチ以上、清潔感あり、エスコート経験豊富。……完璧な条件だったのよ。昨日の相手」
「ほう」
「でもね、スープを飲む音が半音ズレてたの。それにもう、生理的に無理ってなっちゃって。減点方式で見ちゃダメだって分かってるんだけど、気づいたら減点する場所を探してる。私のセンサー、壊れてるのかしら」
「壊れているんじゃなくて、感度が高すぎるだけかもしれないね」
「感度なんて邪魔なだけよ。婚活は市場調査とマーケティング、そしてクロージング。感情なんてノイズよ」
彼女はそう言い捨てて、苦そうな顔でコーヒーを啜った。 僕のキーボードを打つ手が止まる。 彼女の言葉は、まるで僕に向けられているようだった。 市場調査。マーケティング。 僕が小説を書くときに一番気にしていることだ。 「今、何が売れるか」「編集者が求める構成は何か」「読者が離脱しない導入とは」。 そんなことばかり考えて、パズルのように言葉を組み合わせてきた。だから、僕の小説には「ノイズ」がない。 そして、恐らく「魂」もない。
カラン、コロン。
再びベルが鳴る。 今度は、足音がほとんどしなかった。スニーカーの擦れる音だけが、遠慮がちに響く。
「……うぃーす」
消え入りそうな声と共に現れたのは、キャップを目深に被った青年だった。 レンくん。二十四歳。 一見すると、アイドルのように整った顔立ちをしている。長い睫毛、通った鼻筋、薄い唇。だが、その背中は常に丸まり、オーラというものが完全に欠落していた。
「やあ、レンくん。お疲れ様」
「……つかれました、マジで」
レンくんは一番奥の、影のように暗い席に倒れ込むように座った。 彼は役者志望だ。いや、本人は「役者」だと名乗っているが、僕が知る限り、彼の仕事は「死体C」や「通行人B」、あるいは「主人公の友人の友人」といった、エンドロールに名前が載るかどうかの瀬戸際のものばかりだ。
「今日は早かったね」
マスターが水を置くと、レンくんは帽子を取って、乱暴に髪をかきむしった。
「バラされました。現場入って三十分で」
「おや」
「『君、そこにいるだけで画が死ぬんだよね』って監督に言われて。……画が死ぬって何だよ。俺、まだ一言も喋ってないのに」
彼の声は震えていた。 美しすぎる顔立ちは、時に「背景」としては邪魔になるらしい。かといって、主役を張るには何かが足りない。 彼はスマホを取り出し、慣れた手つきでSNSを開いた。画面をスクロールする指の動きが速い。 彼は承認欲求という名の麻薬を待っている。フォロワー数は多いが、それは彼の顔ファンであって、彼の演技を見ている人間などほとんどいないことを、彼自身が一番よく知っていた。
売れない作家。 選り好みする婚活迷子。 画を殺すエキストラ。
三人の敗残者が、今日もこの『エントラクテ』に集まっている。 僕たちは、三角形の頂点のように、それぞれの席で背を向け合いながら、同じ空気を吸っていた。 共通しているのは、全員がスマホという小さな窓を通してしか、世界を見ていないことだ。 現実の自分はここにいるのに、意識はずっと「ここではないどこか」からの通知を待っている。
「……くだらない」
僕は小さく呟いた。 自分に対しても、彼らに対しても。 こんな場所で時間を潰している暇があったら、新しいプロットの一つでも考えるべきだ。 分かっている。分かっているのに、体が動かない。 椅子に根が生えたように、この心地よい停滞感に甘えている。
その時だった。
バンッ!
乱暴にドアが開け放たれた。ベルが鳴る暇すらなかった。 冷たい風が店内に吹き込み、エミさんの髪を乱し、レンくんの帽子を床に落とした。 僕たちは驚いて入り口を見た。
そこに立っていたのは、少女だった。 年齢は十代後半だろうか。オーバーサイズのパーカーのフードを被り、ダメージジーンズを履いている。背中には、体よりも大きなギターケースのようなものを背負っていた。 雨に濡れたのか、肩口から水滴が滴り落ち、床に小さな染みを作っている。
彼女は店内の空気を一瞬で変えた。 カビ臭い停滞感を吹き飛ばすような、強烈な異物感。 彼女は濡れたスニーカーでズカズカと店内に入り込むと、僕たちの視線など意に介さず、カウンターの真ん中の席――マスターの目の前――にどっかりと座った。
「いらっしゃい」
マスターは動じずに声をかけた。まるで、彼女が来ることを予期していたかのように。
「……メニュー」
少女の声は、ハスキーで低かった。
「メニューはないんだ。君が今、一番必要としているものを出すよ」
マスターのいつもの決まり文句だ。 普通なら戸惑うところだが、少女は鼻を鳴らして笑った。
「じゃあ、時間をちょうだい」
「時間?」
「そう。あいつらが来ない時間。あと、すっげー甘いココア。マシュマロ入りのやつ」
少女はフードを脱いだ。 現れたのは、鮮やかなピンク色に染められたショートヘアだった。 その髪色は、このアンバー色の空間にはあまりにも不釣り合いで、まるで爆弾が投げ込まれたかのようだった。
彼女はカウンターに肘をつき、ぐるりと店内を見渡した。 エミさんを一瞥し、レンくんを睨みつけ、最後に僕の方を見て、大きな瞳を細めた。
「何見てんの? 小説家さん」
心臓が跳ねた。 なぜ、分かった? 僕はパソコンを開いているが、画面は彼女からは見えないはずだ。
「……なぜ、そう思う?」
僕は掠れた声で訊き返した。 彼女はニヤリと笑った。その笑みは、無邪気でありながら、どこか残酷な響きを持っていた。
「顔に書いてあるよ。『僕は世の中のすべてを観察してます』みたいな、嫌な目つき」
ガチャン。 エミさんがスプーンを落とした音がした。 レンくんが息を呑む気配がした。 僕もまた、言葉を失っていた。
図星だった。 僕は観察者のつもりでいた。安全地帯から、他人の人生をネタとして値踏みする傍観者。 それを、この見知らぬ少女に、一瞬で見透かされたのだ。
「お待たせしました」
マスターがココアを置いた。白いマシュマロが山のように盛られている。 少女はそれを両手で包み込むように持ち、深く息を吸い込んだ。
「あー、生き返る」
そして彼女は、ポケットから何かを取り出し、カウンターの上に置いた。 ゴトリ、と重い音がした。
それは、古びた懐中時計だった。 銀色の鎖が絡まり合い、ガラス面には細かいヒビが入っている。どう見ても、彼女のファッションには合わない代物だ。
「これ、動かないんだよね」
少女は独り言のように呟き、指先で時計の針を弾いた。 針はピクリとも動かない。
「時間は、止まったまま」
その言葉は、僕たちの胸に突き刺さった。 止まったままの時間。それは、ここにいる全員が抱えている病巣そのものだったからだ。
マスターは静かに時計を見つめ、それからゆっくりと僕たち全員を見回した。 そして、低い声で言った。
「時間は、誰かが動かさないと進まないよ」
その瞬間、僕のパソコンの画面がスリープモードに入り、フッと暗くなった。 黒い画面に映り込んだ自分の顔は、ひどく間の抜けた表情をしていた。
少女がココアを飲み干す音が、新しい幕開けのファンファーレのように響いた。




