第八十二話「蝕む毒」
その男は、笑っていた。
陽光に焼けた肌、風に揺れる粗衣の裾。
手には丁寧に手入れされた道具箱をぶら下げ、
子どもたちに鉱石を見せては、親しげに言葉をかけている。
「これはね、地の声を聴ける石なんだ。
そっと耳を澄ませば、眠っている山の鼓動が感じられるよ」
街の広場に集まった子どもたちは、瞳を輝かせながら彼を囲んでいた。
「エルドと申します。バオリナ共和国の山間部で鉱山技師をしておりましたが、
向こうがいささか騒がしくなりまして……。身の置き所を探していたんです」
リース支部の執務室で、ヴァルターはエルドの自己紹介を受けながら、微かに眉をひそめた。
だが、同席した者たちの反応は概ね好意的だった。
「鉱山出身ってんなら、岩壁の目利きは期待できそうだな」
と、環が腕を組んでうなずき、
「精製や香鉱の知識に長けているなら、こちらの技術とも互いに学べそうだ」
と、ルーベンが興味深げに資料を広げた。
ただひとり、しらたまはエルドの微笑に、ほんの少しだけ風の止まる音を感じ取っていた。
それは、音なき不自然な沈黙。香炉に火を入れる前の、空白のような時間。
その日、アロマティアでは避難民や通商希望者の受け入れが増えつつあり、
街はかつてない活気と緊張に包まれていた。
通商を装った犯罪や陰謀の噂も他所では相次いでおり、警戒が必要な時期だった。
支部の一角に新たに設けられた「通商証明発行所」では、手続きに並ぶ列が絶えない。
ルーベンが設計した魔道記録台により、申請者の身元や所属国を簡易的に記録し、
魔印と香印を合わせた識別札が発行される。
「証明がない者は、物流路も住居申請も受け付けられません」
と、対応にあたる職員がきっぱりと言い切る様子は、
街が自らを守ろうとしている意志の表れだった。
通商証明の列には、旅装のまま疲れた顔をした避難民の姿もあった。
しらたまはその傍らに立ち、香を焚きながら、
ひとりひとりに祈りと穏やかな言葉をかけていた。
「ここでは安心してもらって大丈夫。
風は、ここに集まる人を見捨てたりしません」
彼女の声に、ひとりの母親が小さく頭を下げた。
その背中を抱くように、風がやわらかく吹いた。
一方、ヴァルターのもとには、王都からの報告が次々に届いていた。
「やはりザリーナ王女は粛清されたようです。
国境はさらに閉ざされ、交易は実質停止……。
アロマティアへの影響は大きくなります」
文官のセージは、非公式な情報も慎重に伝えてくる。
しらたまは静かにうなずいた。
風の行方が、再び、大きく揺れはじめている。
「お次の方、名前と出身、渡航理由をどうぞ」
支部の受付では、メープルとポピーが交代で書類の確認を行っていた。
窓の外では、新たに訪れた獣人の家族が支援の列に並び、
少し先では、避難民の子どもたちに温かいパンと布が手渡されている。
「バオリナの者とはいえ、罪を犯したのは一部。
だからこそ慎重に対応しないといけないね」
ポピーがぽつりと呟き、メープルも黙って頷いた。
別の日、街の会議にて、ルーベンは地図を前に語った。
「他の街では、通商を装って入った者が、
香炉の魔力構造を盗もうとした事件が報告されている。
アロマティアも例外じゃない」
「だからこそ、私たちで情報をしっかり共有し、守っていかないと」
しらたまが言うと、街の職人たちは頷き、
風の祈りに従うようにその場の空気が静かに整っていった。
そのとき、風の流れに紛れて、どこかでまた子どもが言う。
「エルドおじさん、今日も石を見せてくれる?」
男は、あのときと変わらぬ笑顔で、子どもに手を差し伸べていた。
その笑顔の奥に、誰もまだ気づかない“静かな毒”が潜んでいるとも知らずに。
初夏の風が和らいだある日、しらたまの占い処には、
いつもと変わらぬ喧騒と、かすかな香が漂っていた。
「今日はどんな香りかな、しらたまお姉ちゃん」
いつも元気な少年が、そんなふうに笑って入ってきたが──
ふいに眉をしかめ、鼻をすすった。
「……あれ? なんか、においが……しない?」
しらたまは、香炉の火元に目をやった。
たしかに、いつもより立ちのぼる煙が薄い。
それどころか、どこか重たく、香の“響き”が遠い。
その日を境に、子どもたちの様子が少しずつ変わり始めた。
明るかった少女が、急に無表情になる。
おしゃべりな少年が、しらたまの問いかけに返事をしなくなる。
眠りが浅くなったと訴える者、食が細くなる者。
まるで、香の道が、どこかで断たれてしまったようだった。
「……これ、何かがおかしい」
ルーベンが香炉の皿を持ち上げ、慎重に成分を嗅ぎ取った。
そして、低く、沈んだ声で告げる。
「香材に“何か”が混じっている。天然由来じゃない……これは、“祈り”を封じる類の物質だ」
しらたまは、胸の奥がざわりと冷えるのを感じた。
その夜、彼女はひとり、改めて香炉に火を入れた。
ふだんなら立ちのぼる透明な香が、ふっと揺れたあと、淡い紫がかった煙を吐き出した。
目に見えぬ毒。
祈りを鈍らせ、感覚を麻痺させる──見えない“浸食”の始まりだった。




