第七十九話「動き出した風」
夕暮れ、リース家アロマティア支部の執務室では、
窓辺のカーテンを揺らす風に混じって、紙の擦れる音が響いていた。
机の上に整えられた書状の山。
そのひとつをルーベンが持ち上げ、端正な字で記された文章に目を通している。
「……よし、こっちが王都宛て、で、こっちは兄上宛て」
静かに言って、仕分けた書状を二通、分厚い封筒へと収める。
「提案内容の骨子は明確に。制度導入の理由と、アロマティアでの実証可能性を強調しよう」
ヴァルターがペンを走らせながら、落ち着いた口調で答えた。
その傍らでは、しらたまが香炉に火を灯していた。
揺れる煙に目を細めながら、彼女は微笑む。
「きっと、今が変わるときなんだね」
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【王都政務庁および王女ソレイユ宛 提案文・抜粋】
> 現在、アロマティアにおいて下記の制度導入を検討しております。
一、香と水による衛生意識の啓蒙(香炉・祈りを活用した衛生習慣) 一、伝書制度の整備(支部を起点とした伝令網と魔導具の活用) 一、簡易名簿制度の確立(占い記録や相談履歴と連動した個人識別)
上記制度は、王国全体への波及を見据えた“地域実験”としての価値も有するものと考えます。 導入許可および視察派遣のご検討を賜れれば幸いです。
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【リース本家 シダー・リース宛 報告文・抜粋】
> 本支部では、以下の施策について独自に導入準備を進めております。
香と水を用いた衛生管理の啓蒙
郵便・伝書制度の導入と運用
名簿制度による居住・行動管理と保護体制の強化
財政および法的課題については、貴家の助言を仰ぎたく、詳細な資料を添えてご報告申し上げます。
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【支部広間──街民会議の準備】
数日後、支部の広間では、街の代表者や職人、移住者の声を聞くための会議が開かれていた。
「名簿って……わたしらの名前を全部記録するのかい?」
「水場を使うなら、あの井戸の整備も考えなきゃだめだろうな」
「でもさ、子どもたちが香で手洗いするってのは、なんだか楽しそうでいいよね」
しらたまが、丁寧に折られた祈り札を配りながら微笑んだ。
「これは、“見守る”ためのしくみです。困っている人を見逃さないように──
それが名簿の本当の意味なんです」
ヴァルターは一人ひとりの意見に耳を傾け、
ルーベンは記録係として傍らで速記用の魔導紙にペンを走らせる。
「伝書のこと、俺から説明してもいいか?」と環が前に出る。
「王都とラセルナの間で使ってた魔導伝令の応用だ。
文字だけじゃなく、声の録音もできるかもしれない」
「それができれば、遠くの孤児や迷子も探せるようになりますよね」
街の人々の表情が少しずつ変わっていく。
──これは、「支配」ではない。「守る」ための制度。
そうしらたまは、胸の内で繰り返す。
風は、街を包むように静かに流れていた。
新しい制度の芽吹きは、すでに誰かの手の中にあるのかもしれなかった。
──王都・政務殿──
白石造りの政務広間にて、王女ソレイユは差し出された書簡を手に目を通していた。
「アロマティアから……ふふっ、ずいぶん実務的な提案ね」
側近の文官が問う。「内容は?」
「三つ。衛生啓蒙と、伝書制度、名簿の管理。
……まるで新たな自治都市の準備でもしてるような内容よ」
その目に浮かぶのは、香りと祈りの街を思い浮かべるやわらかな光。
「アロマティア子爵らしいわ。
これは正式に取り上げましょう。文官組に意見を集めて」
──リース家・本邸──
書斎の扉が静かに閉まり、
父オリバー・リースは手元の書簡を読み終えると、手を組んだ。
「……まるで、独立領主の布石だな」
重々しい声に応じるように、隣で立っていた長男シダーが一歩前へ出る。
「弟らしい実行力です。だが、地方に自治を認めることは、中央の統制を弱める恐れもある」
「わかっている。だが、この三つ……どれも反発なく通せるよう調整された提案だ」
父オリバーは目を細め、椅子にもたれた。
「好きにやらせろ。彼の在り方が、やがて我が家の“新しい形”を示すかもしれん」
──アロマティア・街民集会──
陽の光が降り注ぐ広場。
中央には支部の掲示板と仮設の演壇。
そこに立つのは、ヴァルターとしらたま、環、そしてルーベン。
「……というわけで、これからは“届ける”人が街に必要になります」
ルーベンがやや緊張しながらも説明すると、子どもたちの目が輝いた。
「手紙を運ぶんですか!? やってみたい!」
環は笑いながら肩を竦め、「やる気ある子は歓迎だ。体力試験はあるけどな」と茶化す。
続けてヴァルターが名簿制度と衛生意識の啓蒙について触れる。
「これは“管理”のためではなく、“守る”ためのものです」
「顔の見える関係ってやつだな」
と、環が付け加えると、街の大人たちが納得したように頷いた。
「香の手洗い場も、みんなで作ればいいよ!」
「私、香炉に詳しいよ。協力する!」
広がる賛同の声に、しらたまは胸元でそっとカードを撫でた。
「“声を聴く”って、こういうことなんだね……」
──
王都からの承認、リース家の静かな肯定。
そして街民の力強い賛同が交差する中、
アロマティアはまた一歩、“祈りと暮らしの街”として歩みを進めていく。




