第七十六話「風の神殿と理想と現実」
香炉の煙がゆるやかに立ちのぼる、午後の支部。
木漏れ日のさす窓辺で、占い机の前に座ったしらたまは、一枚のカードを引いたばかりだった。
向かいには常連の老婆が、ゆったりと腰をおろしている。
「明日は……あまり外出なさらないほうが良さそうですね。風が強くなるかもしれません」
「おやおや、じゃあ明日はパイでも作ろうかねえ」
ふふっと笑う老婆は、パンの入ったかごをそっと置いて立ち上がった。
けれど、帰り際、老婆はふと思い出したように足を止めた。
「そうだ、しらたまちゃん――」
振り返ったその瞳は、遠い記憶を探るように霞んでいた。
「昔はね、星の神様とは別に、“風の神様”を祀っていたのよ」
「風の……神様?」
「南の森の手前に、小さな丘があるだろう? いまは草に埋もれてるけどね、
あそこには、風の神を祀った神殿があったって……ばあちゃんに聞かされたよ」
老婆の声が、香の揺らぎに溶けていく。
「春一番の風がね、その丘を越えて町に吹いてくると、芽吹きの兆しが届くって……
みんな、その風を待って、畑の種まきを決めたもんだったよ」
老婆の手が、洗いこまれたハンカチを優しく握った。
皺だらけの指先に、それはまるで風を結ぶ“記憶の糸”のようだった。
その晩。
しらたまは、月明かりの中でそっと丘へ向かっていた。
空は澄みわたり、春の気配を帯びた風が頬を撫でる。
腰に下げた香炉に火を入れると、青白い煙がゆっくりと空に昇っていった。
――風よ、願いよ、どうかこの地に届いて。
両手を胸元に重ね、カードを握る。
言葉ではない祈りが、しらたまの胸の内からじんわりと広がっていく。
そのときだった。
ひゅう、と一陣の風が草を揺らし、
夜の静寂の中、丘の一部が――まるで“何か”が目覚めるように震えた。
風が空間を押し開くように吹き抜け、
雑草の間に沈んでいた大きな石が音もなく動き、
月光に照らされながら、苔むした石柱と、半ば埋もれた階段が姿を現した。
風の流れが導くように、道がそこへと続いていた。
「……出てきた……」
しらたまは、かすかな声で呟いた。
丘の奥、森と空のあいだ。
長い眠りから覚めたかのように、“風の神殿”は静かにその姿を取り戻しつつあった。
翌朝。
しらたまは再び丘を訪れ、今回はルーベンを伴っていた。
「昨日ここで祈ったら……あの階段が出てきたの。信じてもらえるかはわからないけど」
「信じるよ」
ルーベンは珍しく即答した。
風の動き、残された香の気配――
すでに周囲の“魔力の流れ”が変わっていることに、彼の目は気づいていた。
二人は苔を踏みしめながら、ゆるやかな階段を下りてゆく。
やがて現れたのは、風化しながらも美しさを湛える神殿の扉だった。
「これは……王国成立以前の建築技術だな。石の積み方、文様の流れ、そしてこれ……見てくれ」
ルーベンが壁の装飾を指さす。
そこには、風を抱く“芽吹きの木”と、両翼を広げた“鳥の紋”が刻まれていた。
「この鳥、どこかで……」
「“フィアナエル”だ。旧語で“空を渡り、種を運ぶ者”を意味する――風と恵みの神だよ。
かつてポリャンナが王国になるより前、いくつかの土地ではこの神を祀っていたと文献にある。
でも、実在する神殿が残っていたとは……」
神殿の中央には、祈り台と石の香炉が静かに据えられていた。
天井はすり鉢状に開いており、差し込む風がそこから抜けていく構造だ。
しらたまがふと近づき、手をかざす。
香炉に残っていた灰をなぞると、ふわりと風が舞い上がった。
「……祈りが、残ってる」
ルーベンが目を細めた。
「この香炉……魔力の流れを“静かに循環”させてる。
封印でも結界でもない、これは……“守るための設計”だ」
「じゃあ、きっと誰かのために、ここで祈ってたんだ……」
その日の夕刻。
神殿にて調査報告を聞いたヴァルターは、少し沈思したあと、静かに言葉を発した。
「……ここを、“孤児院”にしようか」
「え?」と、しらたま。
「神殿としての敬意は残したまま、この場所に“居場所”を用意したい。
親のない子、傷を抱えている子、住む場所を失った子……そういう子たちが、
この風のように自由に、でも優しく守られて、生きていけるように」
神殿の天窓から、ゆるやかに夕風が吹き込む。
祈り台の香炉がかすかに揺れ、香の残り香が再び空へ舞い上がった。
それはまるで、かつての神が“応えてくれた”かのようだった。
しらたまは胸の奥が温かくなるのを感じながら、そっと笑った。
「……いいね。風の神様も、きっと喜ぶと思う」
* * *
木の壁に灯るランプの下、テーブルには熱い香茶と焼き菓子。
静かな夜の帳の中、しらたまは帳面を手に語り始めた。
「ねえ、聞いてくれる? ちょっと、私の世界の話」
ルーベンがいつものように本から顔を上げる。
「……また不可思議な制度かい?」
「えへへ、まあね。でもね、日本では“子どもはみんな学校に行く義務”があったの」
「……は?」
ルーベンの眉が静かに跳ねる。
「義務、とは誰に対して? なぜ学ばせる?」
「未来のため……かな。自分の人生を選べるようにするためっていうか」
「選べる人生など幻想だ。生まれた身分と土地が“天命”を決める。それが世界の理だろう」
「でも、もし生まれが悪くても――」
「しらたま、それを口にするな。身分の否定は反乱思想ととられてもおかしくない」
間髪入れずに環が口を挟む。
「ま、ルーベンの言い方はキツいが、正直その通りだな。
こっちの連中は“文字を学ぶ農民”なんて見たら、裏で何か企んでるって思うだろうよ」
「……じゃあ、医療保険! 誰でも診てもらえるの!」
「無償で?」
ルーベンが思わず吹き出す。
「医師は貴族のための職業だ。下々の病など、教会の水で癒せとでも?」
環は頭を掻きながら苦笑する。
「まあ、教会に寄進すれば薬は出る。
けど、本当に重い病は“神の罰”だって諦めるのが普通だな」
「……じゃ、じゃあ……」
しらたまが焦るように手帳をめくる。
「子どもを保護する制度、里親とか……!」
その言葉に、ルーベンが急に黙った。
しばらくして、低く冷たい声で言い放つ。
「――それは、奴隷と何が違う?」
「……!」
しらたまが口をつぐむ。
「労働力を育てて売るつもりか。慈善を装って支配したいのか?」
「ち、違う! そんなつもりじゃ……!」
環がフォローに入る。
「おいおい、責めすぎだルーベン。
……でもまあ、俺も正直最初に聞いたときは違いがわからなかったな」
「ねえ、兄ちゃんまで……」
環は膝を組んで溜め息を吐いた。
「こっちじゃ、昔“口減らし”で子どもを売る家もあった。
売るって言っても、表向きは“奉公”って名目さ。
遊郭に流された女の子も少なくなかった。
……だから、制度って言葉に悪いイメージを持つ人は多いんだ」
「…………」
沈黙のなか、ヴァルターが静かに口を開いた。
「しらたま。それが、君の優しさだってことは……ちゃんとわかってるよ」
「……ヴァルター」
「でもね、この世界では“制度”という言葉が時に、悪意や搾取の温床になる。
君の考える“里親制度”も、裏を返せば子どもを扱うビジネスになってしまうことがあるんだ。
だから、まずは“孤児院”の形が最善なんだよ。
僕たちが、子どもを守る“場”そのものにならなければならないんだ」
しらたまは目を伏せた。
「……うん、ごめん。わかってなかった。わかりたくて、でも――」
「……少しずつでいいんだよ、しらたま」
ヴァルターの声は、春の風のように穏やかだった。
「君の“当たり前”は、君の世界の優しさだ。
それをここにどう根づかせるか……僕たちの役目でもあるんだから」




