第七十三話「アロマティアの守り人」
春霞の午後、アロマティア旧市街の広場では、
数人の町人たちが洗濯物を干しながら世間話に花を咲かせていた。
「……そういえばさ、知ってる? あのドルク子爵、ついに幽閉されたんだって」
「へえ、やっとって感じだよね。あいつが領主だった頃はさ……」
一人の老婆が洗い立ての布をぎゅっとしぼりながら、顔をしかめた。
「税ばっかり取ってさ、道路の修理も、井戸の整備も、なんにもしてくれなかったくせに」
「おまけに、北の川辺地区なんて治安は悪いわ、流通も止まるわで、もう散々だったわよ」
「それが今やどうだい。支部の新しい道ができて、子供が安心して遊べるようになったんだ。
ヴァルター様が視察に来て、橋まで直してくれたじゃないか」
「んだんだ。あのお方は“目線”が私らと一緒なんだよ。
偉そうに命令するだけじゃなくて、ちゃんと聞いてくれるもんなぁ」
一方、支部の執務室では──
「マリウス・ドルク伯爵の資産、やはり王都の一部商会と裏で繋がっていました」
そう報告したのは家令アルベルトだった。
ヴァルターは机に置かれた古い帳簿を指でなぞる。
かつてマリウスが用いていた、使途不明の予算記録。
読み解くほどに、怒りというよりも、冷たい失望が広がっていた。
「この数字……子どもたちの薬や、防寒布、全部“名目だけ”で消えてる。
……これを見て平然と座っていたなんて」
そこへしらたまがそっと紅茶を差し出す。
「今はもう、違うよ」
「え?」
「“風”はちゃんと届いてる。町の人たち、みんな言ってる。
“今は声を聞いてくれる人がいる”って」
ふと、執務机の横の窓から広がるのは、春に向けて準備が進む建設地区の風景。
真新しい木材が運ばれ、笑い声のなかで足場が組まれている。
ヴァルターは小さく息を吐き、目を閉じた。
「……なら、もっと“聞く耳”を育てていかなくちゃな」
* * *
風は変わった。
人々がそれを感じているなら、たしかに、“あの時代”はもう終わったのだ。
町の人々のささやかな会話も、帳簿の数字の裏に潜む過去の影も──
すべてが静かに、だが確かに、王都へと届いていた。
それはやがて、ひとつの声となって宮廷を動かす。
“風”が変わった証を、最も敏感に感じ取ったのは、市井に目を向け続けたあの王女だった――。
王城の政務殿。柔らかな陽光が差し込む白石の広間に、王女ソレイユの凛とした声が響いた。
「アロマティアは変わらねばなりません。
あの土地は、いまや“祈り”と“風”が交差する未来の要です」
議席の貴族たちがざわつく中、ソレイユはまっすぐ父王を見据えた。
「マリウス・ドルク子爵の管理のもとで何が起きたか、既に多くの報告があります。
民の声は届かず、予算は不透明、治安は悪化の一途を辿っていた
……それを是正したのが、他でもないリース家の次男、ヴァルター・リース様です」
彼女は一枚の書状を高く掲げた。
「これはアロマティアの民から集めた、自筆の嘆願署名です。
“ヴァルター様を、我らの守り手として迎えたい”と――」
静まり返る貴族たち。
「高貴なる生まれも結構。だが、民に選ばれる者こそが、真の“貴き者”ではありませんか?」
その言葉に、老王のまなざしが柔らかく揺れた。
「……よいだろう。ドルク子爵は審問の上、処罰とする。
アロマティアの新領主は……ヴァルター・リースとする」
その瞬間、ソレイユの口元に、かすかな安堵の笑みが浮かんだ。
* * *
「明日はあまり外に出ないほうがいいかもしれませんね」
広場の片隅、木陰に置いた机の向こうで、しらたまが優しく告げる。
「おや、それなら明日は編み物でもしてようかねぇ」
老婆はしわくちゃな笑顔を見せ、手にしたパンかごをそっと差し出した。
「またね、祈り人さん」
「ありがとうございます。……ふぅ、さて、部屋のお掃除しようかな」
最近のしらたまの生活は、少しずつ形が決まりつつある。
朝から昼までは支部の受付で占いを行い、
午後になると広場へ出向いて人々の声に耳を傾ける。
雨の日は支部に留まり、資料や道具の整理をするのが常だ。
夕方になれば、ヴァルターの執務室を訪れる。
その日の雰囲気や顔色に合わせて香茶を淹れ、
言葉少なに過ごすこともあれば、穏やかに世間話に花が咲くこともある。
最近は、王都からの手紙が届くようになった。差出人は王女ソレイユ。
内容はたわいもない季節の挨拶や出来事が主だが、
行間からはアロマティアの様子を探る意図が透けて見える。
だからこそ、返事には少しだけ神経を使う。
かたくなりすぎず、けれど芯のある文を──そのやりとりにも、ようやく慣れてきた。
最初のころ、文字の読み書きはあまり自信がなかった。
ラセルナの小屋暮らしでは、必要最小限の記録程度だったから。
それでも、今では読めるし書ける。
これも、この異世界に来た時に与えられた“恩恵”のひとつなのかもしれない。
ちなみに兄の環は、そういった細かいことにあまり頓着がない。
午後にふと時間ができると、クラリッサからお茶会のお誘いが届く。
最近はそこに、ミーナも自然と加わるようになってきた。
「しらたまお姉ちゃん! 恋愛はガッツだよ!」
「あはは……」
「笑っている場合ではございませんわ。はやくしないと取られてしまいますわよ?」
「えっ、だ、だれが……?」
「「子爵様っ!!」」
二人の声が揃った瞬間、しらたまの顔が真っ赤になる。
「そ、そんなこと……思ってなんか……」
「奥手ですわねぇ、しらたま様は」
「ぐいっといかなきゃー! ぐいっと!」
返す言葉も見つからず、しらたまは紅茶のカップを手にして、そっと口をつける。
その様子を、ルーベンは黙ったまま本を読みながら、口元にうっすらと笑みを浮かべて聞いていた。
夕餉は、いつもの風見草亭。
最近は宿泊客も増えている。
祈りと香の町として少しずつ知られ始めたことで、
冒険者や行商人が多く訪れるようになったのだ。
満室になることも増え、宿を訪ねて断られる客を見るたび、
しらたまは申し訳ない気持ちになってしまう。
「そろそろ場所変えたほうがいいな」
環の言葉には、もっともだと思いつつも、
しらたまにはこの宿への思い入れが強すぎた。
離れるとなると、胸の奥が痛む。
それでも、町に貢献するためならと、気持ちの整理に悩む日々でもある。
夜になると、香炉に火を灯す。
今日の占い結果を記したノートをめくり、カードの並びをそっと整える。
ひとつひとつの動作に、今日出会った人たちの顔が浮かぶ。
そして最後に、願うのだ。
「明日も、こんな日が続きますように」と。
しらたまは、小さく目を閉じて──祈るように、眠りについた。




