第七十一話「リングベア討伐戦」
アロマティアの南端を抜け、一行は静かに森の中へと足を踏み入れた。
朝の陽光が木々の合間から差し込み、
森は適度な明るさと清らかな空気に包まれていた。
だが、奥へ進むほどに、肌を撫でる風が変わっていく。
──ざわり。
気配が濃くなる。空気に微かに混ざる鉄のような匂い。
「……止まれ」
ヴァルターが手信号で一同に停止を命じた。
その視線の先、半ば朽ちた倒木の向こうに──
「……いた」
血走った目を光らせ、巨大な影がうごめいていた。
それは――通常の倍はあろうかという巨体のリングベア。
うねるような筋肉、震える鼻先、よだれが草地を濡らしている。
「なんだよこれ……こんなの報告になかったぞ」環が呟く。
「……帰ったらギルドに通報だな。虚偽報告、義務違反だ」
ルーベンが静かに言う。
「その前に……こいつをどうにかしよう。ルーベン、頼めるか」
「ああ、このサイズなら……三つ!」
ルーベンは腰袋から臭玉を取り出し、一気に三発──
そのうち一つはクマの太腕で叩き落とされたが、もう一つは見事口元に命中。
もう一つは手に当たって粉砕し、濃い臭気が付着した。
「グオァオオオッ!!」
地を揺るがすような咆哮が森に響く。
「環! 今だ、ハンマーを!」
「おっしゃああああっ!!」
環の振るう大槌が真紅の熱を帯びて燃え上がる。
「ヒートシャベル」は火の魔力を帯びた打撃を与え、リングベアの脇腹に食い込んだ。
「しらたま、祈りを!」
「うん!」
ヴァルターの指示に応じ、しらたまがカードを手に取り、胸に抱いて祈りを捧げる。
「星よ、風よ……この子を苦しめるものを取り払って……癒しの風を届けて……!」
《星》のカードが淡く光を放つ。
そこから現れたのは──金の翼をもつ神獣、《ステラ》。
その姿がリングベアの周囲を舞うと、巨獣の呼吸が次第に緩やかになる。
「……今だ、麻酔銃構え!」
控えていた兵士たちが一斉に肩を上げた。
「――撃て!」
ヴァルターの号令と共に、鋭い音が森に響く。
撃ち込まれた麻酔針が幾本もリングベアの毛皮に突き刺さり、その体が一瞬ふらつく。
「グル……オオ……」
そして──ドサリ、と大きな音を立てて、その場に崩れ落ちた。
「……勝利ッ!」環が叫び。
「……ふぅ」ルーベンが息を吐いた。
「やったぁ……!」としらたまも手を握りしめる。
ヴァルターはふっと笑い、いつもの柔らかな声で言った。
「ありがとう、みんな。……なんとかなったよ」
陽の差す森の中。
まだ温かいリングベアの体を囲み、
兵たちが速やかに捕獲作業へと移っていった。
「――対象を転送します!」
転移魔導具を構える兵士の声が、森に響く。
3…2…1…
淡く光が灯り、リングベアの巨体と共に数名の兵士が転移の魔法陣に包まれ、
光の粒と共に消えていった。
一行はその場で静かに息を整えながら、数十分の帰還を待つ。
そして。
再び光が灯り、帰還用の魔導具から先ほどの兵士たちが姿を現す。
「転移完了しました!」
ひとりが声を上げ、他の兵たちも安堵の表情を浮かべる。
「ご苦労さま。……皆も、本当に助かったよ。ありがとう」
ヴァルターが朗らかに微笑み、言葉を続けた。
「帰ったら、風見草亭で労いたい。今日くらいは、みんなでゆっくりしよう!」
その言葉に、兵たちからわっと歓声があがった。
しらたまもふぅと小さく息を吐く。「……よかったぁ」
ふと視線を森の奥へ向けてつぶやく。
「あのクマさん、大丈夫かな……?」
「うん、あと十五分もすれば麻酔が切れて目覚めるはずだよ」
ヴァルターが穏やかに答える。
「なにより、あの個体は相当強靭だ。あの程度の麻酔では少し眠っただけだろう」
ルーベンが淡々と解説を加える。
「いやぁ……俺、あんなでっけぇの、ヒグマ以来だわ」
横から環があっけらかんと口を開く。
「……ヒグマ?」とルーベンが眉をひそめた。
「ああ。俺ら兄妹の故郷にいるんだよ。寒冷地に棲む巨大クマでな、
最大2.8メートル級がいるって話で……前に一回、そいつと出くわしたことがあってさ」
「……まさか」
「取っ組み合いになったんだよな、がっつりと」
「お前……ほんとに人間なのか……?」
ルーベンがぽつりと呟く。
「なにやってんの兄ちゃん……」
しらたまが、額に手を当てて呆れ顔。
「ふふ……」
ヴァルターが小さく笑い、冗談交じりに続ける。
「じゃあ次からは、環ひとりでも討伐できるかもしれないね?」
「いや、それはちょっと困るな!? みんながいるから俺は輝けるんだってば!!」
環が慌てて叫ぶと、一同の笑いが静かな森に広がっていった。
こうして、アロマティア領初の討伐作戦は無事成功のうちに幕を閉じた。
深夜のアロマティア。
祭りの喧騒も、討伐の熱も静まり、町はすっかり夜の帳に包まれていた。
広場の片隅。
街灯に照らされたベンチに、ひとりヴァルターが腰掛けている。
ぼんやりと空を見上げながら、手のひらで小さな風を作っては、消していた。
「……お疲れ様、ヴァルター」
声がして振り返ると、そこにはしらたまの姿。
薄い羽織をまといながら、やわらかな微笑みを浮かべていた。
「ああ、しらたま。どうしたの?」
「窓から見えたから……来ちゃった」
そう言って、彼女は隣に腰を下ろす。
「討伐って、初めて見たけど……大変だったね」
「そうだね。指揮側に回るのは初めてじゃなかったけど、無事に終わってよかったよ」
「学院時代に?」
「うん。三人一組で指揮役を交代しながら模擬試合をやるんだ」
「わかった!殿下とセージさんだね?」
「正解。その時が……彼らとの最初の出会いだった」
ふと、ヴァルターの表情が懐かしさと少しの照れで和らぐ。
「ねえ、ヴァルター」
「ん? なんだい、しらたま」
しらたまは少し、視線を落とす。
けれどすぐに彼をまっすぐ見上げて、言った。
「……わたしね、ヴァルターのこと、もっと知りたいの」
「……へ?」
「わたし、この世界に来てまだ浅いし、知らないことがたくさんある。
でもね、まずは――近くにいる人のことを、ちゃんと知りたいって思ったの」
その言葉に、ヴァルターはほんの一瞬、息を呑んだ。
けれど、すぐに優しく微笑んで頷く。
「……なるほど。そうだね。お互いに……いろいろ知っていこうか」
「じゃあ、まずは……わたしの故郷の話でもする?」
「いいね。聞かせて」
星の下、ふたりの声が重なってゆく。
夜風がそっと吹き抜け、広場の木々を優しく揺らした。
その様子を、広場の角に立つ灯りの下――
夜回り中の住民が、そっと微笑みながら見守っていた。
夜は静かに巡り、
ふたりの心は少しずつ、近づいてゆく。




