第六話「風見草亭の女たちと、決断の光」
転移してから、1ヶ月が経っていた。
最初はまばらだった来訪者も、
今では毎日五、六人がしらたまのもとを訪れるようになっていた。
風見草亭の小さな物置小屋──今では「占い屋ルアー」として、
この街にそっと根を張り始めている。
けれど、世の中は甘くない。
日が当たれば、影もまた伸びる。
少しずつ広まり始めた評判は、
好意ばかりを連れてくるわけではなかった。
「……突然現れた余所者だ。怪しいったらないよな」
「“あそこ”、魔女が棲んでるって話、聞いたかい?」
通りすがりの声が、まるでナイフのように刺さってくる。
──聞こえてるよ、ばっちりね。
と思いつつも、しらたまは立ち止まらない。
(懐かしいな、この感じ……)
占いの世界なんて、あっちでもこっちでも胡散臭がられて当然だった。
同じ館の占い師同士ですら、
笑顔の裏で噂や悪意を囁き合っていたこともある。
(でもまあ……それでも、
ちゃんと信じてくれる人がいれば、それでいいって……)
──その時だった。
「ちょいとあんたら、その口、慎みな」
ぴたりと空気が止まった。
声の主は、マーリエだった。
手には買い物かご。
エプロンの裾をきゅっと握りながら、
彼女はまっすぐ噂話の主たちを見据えていた。
「この宿で働くもんに、“魔女”なんて言葉、よう使えたもんだね。
怪しい? 怪しいってのはね、知らないからこそ、
ちゃんと見ようとしなきゃ出てくる言葉さ」
女将の声は静かだったが、明確な“怒り”があった。
日々、宿場を見守り、料理を作り、
あらゆる客を迎えてきた彼女のその言葉には、
誰もが口を噤むだけの重みがあった。
「風見草亭の名に泥を塗るような口を利くなら──」
「──それ以上、言葉にするな」
とっさに言葉を続けたのは、
どこからか飛び込んできたミーナだった。
「しらたま姉ちゃんがどれだけ親切か、優しいか、
あたしは知ってるよ!話もしないで、顔も見ないで、
人を悪く言うなんて、ぜったいおかしいっ!」
ミーナの声は震えていた。
けれど、それでも胸を張っていた。
「あなたたちの言葉は、安い噂にすぎませんわ」
続いたのは、クラリッサ・ノワ。
その物腰は優雅で、だが凛としていた。
まるで、かつての貴族社会で
何度も戦いをくぐり抜けてきたかのように。
「私の目に狂いはありません。
“占い屋ルアー”は、風見草亭の誇りです。
……彼女を侮るならば、
わたくし自身の選択も侮辱することになりますのよ」
風が静かになった。誰も言葉を返せなかった。
そして、しらたまはぽつりと呟いた。
「……でも、大丈夫なんです。慣れてるから。こんなの、別に──」
「だからそれがダメなんだってば!」
ミーナとクラリッサ、そしてマーリエの三人の視線が揃って、
しらたまに突き刺さる。
「“慣れ”ちゃいけないことだってあるんだよ」
「自分が受けるべき尊重を、投げ捨てないでくださいまし」
「……自分を下に見るのは、やめときな」
静かに、けれども確かに。
その日、しらたまは“守ってくれる人たち”の決断と、
まっすぐな怒りを受け取った。
風見草亭の女たちの強さは、優しさと、信じる力に満ちていた。
言葉じゃない。態度で。まなざしで。
彼女たちは、この場所で生きる者として、
しらたまを迎え入れてくれていたのだ。
(……ありがとう)
その想いが、胸の奥で小さく光を灯した。
そしてそれを見ていた男が一人。
いつも通り、分厚い本を読みながらも、
時折目だけを上げていたルーベン・カリストは、
しらたまの姿を見て、ほんの少しだけ──ふっと笑ったのだった。
ぽろん……。
ひと撫で、弦を揺らすと、空気がそっと震える。
昼下がりの風見草亭の裏庭。
木陰に腰かけ、僕は今日も、
風の機嫌を伺うようにリュートを奏でていた。
……また、吹いた。
少し湿った風。
けれど、遠くの砂漠では乾いた風が吹いてるらしい。
風ってのは、旅人みたいなもんさ。いつもどこかで誰かを撫でてる。
僕は音楽で風を読む。
誰が笑って、誰が泣いて、誰が怒ってるのか、
音にすればちょっとだけ、見えるんだ。
今日の風は……怒ってた。
でも、それ以上に優しかった。
ぽろん……。
占い屋ルアー。
あの娘が来てから、風の流れが少しずつ変わった。
この町の空気に、小さな渦が生まれて、
あっちにもこっちにも“ひかりの種”が転がっていく。
だけどさ、世の中ってやつは時々、
その種を踏みつけたくて仕方がない人間もいるんだよね。
“余所者だ”
“魔女だ”
なんてね。
聞こえてないと思ってるのかな。
ああいうの、風はちゃんと運んでくるのに。
ぽろん……。
でも、面白いことに。
その“言葉”の向こうで、ピシッと空気が割れた。
「その口、慎みな」
……あれは、マーリエさんだね。
まったく。ああいう時の女将さんってば、まるで斬馬刀だよ。
声一つで、空気を切るんだからさ。
続いたのはミーナ。
あの子はいいね、正直で真っすぐ。
泣いて怒って笑って、ちゃんと“生きてる”。
クラリッサ嬢も、いい意味で変わった。
あの令嬢の視線が、しらたまに向けられるたびに、
まるで宮廷の鏡に陽が差すみたいに“柔らかく”なるんだよね。
僕?
僕は、ただ音にしてるだけ。
風が教えてくれたことを、ぽろん、ぽろんと奏でてる。
誰かがそれを聞いて、何かを思ってくれるなら、それでいい。
――しらたまは、きっと気づいてないだろうけど。
あの子の声、空気を変えるんだ。
触れた場所が、じんわりあたたかくなる。
誰にも届かないような心の底に、そっと火を灯すみたいに。
ぽろん……ぽろん……。
今日もまた、誰かがルアーの扉を叩いた音が、風に乗って届く。
ふふ。
“おもしろい風だね”、君は。
この先、どんな風が吹くのか……
僕ももう少し、ここに腰を落ち着けてみようかな。
風が歌い終わるまでは、ね。
裏庭に回ったしらたまは、思わず声を上げた。
「……え、ヴァルターさん!? そこにいたの!?」
木漏れ日の下、古い木の根元に腰掛けたヴァルターが、
静かにリュートを抱えていた。
細く、柔らかく、一本の弦を爪弾く。
ぽろん──
その音は、風とともに生まれたように自然で、
彼の存在をまるで空気の一部のように溶け込ませていた。
「常に風とともにあるよ」
彼は目を細め、歌うように、
けれどごく当たり前のことのようにそう言った。
しらたまは、つい唇を噛むようにして笑ってから、
きゅっと拳を握った。
「えへへ……あんなのはへっちゃらだよ!
全然、気にしてないもん!」
大げさにガッツポーズを決める彼女に、
ヴァルターはひとつ、うなずく。
「君は強いね。……とても素晴らしい風だったよ」
その言葉が、なんとなく胸の奥にしみる。
そして、次の言葉は、さらに不思議な響きをまとっていた。
「君にはいずれ、星の導きが起きる」
「……星の、導き……?」
しらたまが問いかけるより早く、
ヴァルターはそっと視線を空へ向け、
リュートを静かに弾きはじめた。
それは、語り継がれる詩だった。
星の導きの神と、運命を渡る巫女の物語。
夜の帷に舞い降りた光が、一人の少女を選び、
彼女は祈りを捧げながら“道”を照らす。
その詩には、どこか懐かしくて、
けれどまだ見ぬ何かを呼ぶような、
優しくて、少しだけ哀しい調べがあった。
風が鳴り、枝葉がざわめく。
しらたまは黙って聴いていた。
(……なんで、この詩、こんなにも……)
まるで昔から知っていたような、
どこかで何度も聴いたことがあるような──
けれど絶対に、初めて聴くはずの詩。
ヴァルターの声とリュートは、ひとつの風となり、
しらたまの心の奥の“なにか”を、そっと揺らしていた。
それは言葉ではうまく言い表せない感覚だった。
ただ、星が。
どこかで、瞬いているような──そんな気がした。
ψ 更新頻度:毎日5話更新 ψ
˙▿˙ )/<ブクマしていただけると励みになります。