第五十六話「兆し」
重く沈む部屋。壁には布がかけられ、香が燃え残っている。
「しくじりおって……」
誰かが舌打ちする。
「さらに身動きが取れなくなってくるな」
「どうする」
その問いに、闇の中から声が応じた。
「大丈夫だ」
ろうそくの灯りが、長い耳と獣の瞳を浮かび上がらせる。
その男は、窓の外に広がる王都の灯りを一瞥した。
「準備は、あともう少しで終わる。あの“聖女”も、王も、この国も」
手にした香炉のような器具に星灰をそっと振りかける。
「……神の名のもとに」
「ヴァルター、この街の地下には何がある?」
ルーベンの問いに、ヴァルターは窓の外から目を離さずに答えた。
「王都全体に張り巡らされた魔導回路……
太陽の光を取り込むための“導光管”と、それと連結された古い地下水道。
けど、やっぱり感じるかい?」
「……ああ。初めは自分の勘違いかと思ったけど、違う。
明らかに“凶星”が、ここに向かって動いてる」
ルーベンの声には、緊張が混じっていた。
「奴らが動いてるってことか?」
と環が身を起こす。
「そう思っていい。妙に静かだったのも……“仕掛ける前の静けさ”だろうね」
ヴァルターがゆっくりと立ち上がる。
「実はね、王都の地下で、風が“遮断”されている場所がある。
流れを殺すような仕掛けを、香でもないのに感じる。
……でも、そこに行くには王家の許可が必要なんだ」
「そこに潜んでるってことか?」環が眉をひそめる。
「その言いぶりだと、かなりヤバい場所っぽいな」
「“先代王妃の祈りの宮”――王城の奥。
滅多に許可は出ない。守りは堅い。けど……」
ヴァルターの目が鋭くなる。
「相手は獣人だ。夜目が利く。
警備の布陣がどうあれ、彼らにとっては“穴”にしか見えないかもしれない」
ルーベンが息を整えながら言う。
「行くか?王城に?」
「いや、まずは文章を送る。……父上にも連絡を入れて、援助を願うよ」
ヴァルターはいたずらっぽく笑う。
「街門閉鎖で物流も止まって、今ヒマしてるだろうしね」
ちょうどそのとき、廊下から足音が響いた。
「……酷い言い草だな」
階段を降りてきたのは、ヴァルターの父、オリバー・リース。
落ち着いた気配と、風を読む目をした、リース家当主。
「どこの許可を取りたいんだ、ヴァルター」
息子が振り返り、目を細める。
「“王城の奥”、先代王妃の祈りの宮――
その“地下”です。父上」
静かな部屋の中。
窓の外には王都の光が滲み、遠くの喧騒すら届かない。
しらたまは、香炉に火を灯し、そっと息を整える。
目の前に並べたカード。
“何か”が動いている。それを感じていても、言葉にできないもどかしさ。
だから――彼女はカードに訊ねる。
「……どうか教えてください。
この風の流れの先に、なにがあるのか」
指先で一枚、めくる。
そこに現れたのは――
《塔》逆位置
《カップのエース》逆位置
《ワンドの10》正位置
(……悪い兆し。水の流れが濁ってる……)
しらたまは、香の揺れとカードの並びに目を凝らす。
(火……破裂……崩壊……)
心がざわつく。
そのとき、ふと一陣の風が部屋を通り抜けた。
蝋燭の火が揺れる。香の煙が逆巻く。
「……もう一度」
そう呟き、彼女は深く祈るように両手を合わせ、もう一度カードを引いた。
そして、現れたのは――
《ソードのナイト》正位置
《星》の正位置
《ワンドのペイジ》正位置
風が立ち上がる。
カードの端がふわりと浮いた。
(風……前進……立ち向かう知恵……)
しらたまは、そっと手を重ねた。
「……行くべき場所がある。
誰かが立ち止まりそうになったら、わたしが風を送ろう」
香炉の中の火が、ふっと揺れて応える。
──その時、しらたまの中で何かが確かに動き出していた。
“聖女”としての役目。
それは戦うことではなく、迷いに風を送ること。
やがて夜が更けていく。
その風は、地下へと向かう仲間たちの背を、
優しく、そして確かに押していた。




