第四十四話「風が恋を知るとき」
【ヴァルター視点】
「……危なかった」
ヴァルターは王都のリース家、自室の椅子に項垂れていた。
額に手を当てたその姿は、普段の落ち着いた彼からは想像もつかないものだった。
舞踏会という名の戦場。
彼女──しらたまは、今日のために努力を重ね、ひたむきにレッスンに打ち込んできた。
その頑張りをずっと傍らで見てきたからこそ、自分には余裕があると思っていた。
けれど、家から出てきた彼女の姿を見た瞬間、その自信は粉々に砕けた。
──ああ、可愛らしい。
そう思ってしまった。そう感じた自分に、まず狼狽えた。
馬車の中では景色を見るふりをして、彼女と目を合わせることができなかった。
王城に到着して緊張を隠せない彼女に声をかけたとき──
その場にいた誰よりも、美しく見えた。
貴族たちの視線から彼女を守るように立ち回っていたのは、
護衛や案内役としての義務……そう思い込もうとしていた。
けれど本当は、誰にも彼女に近づいてほしくなかっただけだった。
あのジャカランダ侯爵が現れたときは、口の中で舌打ちした。
冷静を装ったが、拳は自然と力が入っていた。
幸運にもラベンダー辺境伯令嬢が助け船を出してくれた。
だが──正直なところ、他の誰かと笑っている彼女を見るのは、胸の奥がざわついた。
音楽が鳴り響き、反射的に彼女の手を取り、舞踏の輪へと逃れるように導いた。
その手の温もり。小さな震え。
自分がこの手を導けるのは、ほんのわずかな時間かもしれないと、そう思った。
一緒に踊った時間は、何にも代えがたい至福だった。
楽しそうに笑う彼女。
照れながらも、自分のリードに身を任せてくれる彼女。
──これ以上の幸福があるだろうか。
踊り終えて少し疲れた様子を見て、庭園へと連れ出した。
そこに現れたのは、王女ソレイユ殿下。
その気さくで朗らかな会話のなか、彼女がリラックスしていく姿を見るのは嬉しかった。
けれど、どうしようもなく胸がちくりと痛んだ。
そこに、第一王子ユリウスが姿を見せた。
学院時代の友人であり、今も信頼できる存在。
自分の報告が評価され、国の発展に役立てると言われたときも嬉しかったはずなのに、
その横に立つしらたまを見ていると、胸の奥に独占欲が芽を出す。
そして、ソレイユ殿下の最後の一言。
「手放しちゃだめよ」
──そんなに、分かりやすかっただろうか。
聞こえなかったふりをして、そそくさと会場へ戻った。
そして帰りの馬車の中。
疲れ切って眠る彼女の横顔。
その姿に、思った。
──この一瞬を、見ていられるのは自分だけだ。
その感情に気づいたとき、自分の中に広がっていたのは──独占欲。
いつから自分は、彼女を“ただの契約者”ではなく見ていたのだろう。
項垂れたまま、ヴァルターは呟く。
「こんなはずじゃなかったんだけどなぁ……」
けれど、風は嘘をつかない。
自分には分かる。
今、どんな風が吹いているのか。
彼女にも──その風が、少しだけ届いていたことも。
口元に、ふっと笑みが浮かぶ。
未知なる風の祈りを宿す女性。
その力に忍び寄る脅威は、これからも続くだろう。
それでも、彼女の隣にいたいと思う。
契約者としてではなく、一人の男として。
「僕も……風を吹かさないとね」
ヴァルターは、星降る王都の夜空を見上げながら、
静かに、けれど確かに誓った。




