第四十一話「白の聖女の影法師」
商都滞在から数日。
街角には《白の祈り》を模した護符や香袋、
さらにはしらたまの使用する白タロットを真似た模造品が溢れ始めた。
装飾過多で神聖さに欠けるその模倣品たちは、見た目こそ「白」を思わせるが、
肝心の祈りの本質とは遠く、ただの流行や商材として消費されていた。
──それだけならまだしも。
一部では、祈ることで「病が癒える」「運が開ける」と謳われた
“偽薬”が流通しているという噂が流れ始める。
しらたまはその話を耳にし、胸を痛める。
ヴァルターは沈痛な面持ちで街角の露店を巡り、
いくつかの商品を手に取りながら、唇を噛みしめていた。
「これは……信仰を食い物にしている」
その声には、怒りよりも深い悲しみがあった。
ルーベンは一つの香袋に指先で触れ、鼻を近づけると小さく首を傾げた。
「……おかしい。香の調合が歪んでる」
科学的知識を持つルーベンは、露店から数点を買い取り、
錬金術調合台を借りてサンプルの分析を始める。
ガラス管の中で蒸留される香灰の成分を分解すると、
微細な粒子の中に奇妙な共通項が見つかった。
「これは……星灰に似ている。いや、似ているけれど……もっと粗悪で不安定だ」
ルーベンの言葉に、しらたまも眉を寄せる。
「星灰……でも、こんな風に香に混ぜるものじゃ……」
「おそらく、誰かが“似せて作った”人工香灰だ」
ルーベンはそう結論づける。
──それは、禁忌に近い調合。
本来、星灰は“風と星の導き”に従って生成される稀少な物質。
香や薬に用いるには高度な知識と信仰的配慮が必要とされていた。
それを“商業目的”で模倣し、不完全な形で流通させている者がいる──
「悪意か、欲か、どちらにしても危険だ」
ヴァルターが低く呟く。
彼の目が、どこか遠くを見つめるように曇っていた。
しらたまはそっと、自らのタロットを胸に当てた。
──祈りが、歪められている。
心の中に、風がざわめくような感覚。
これは、止めなければならない。
彼女の胸の奥に、静かに火が灯るのだった。
調査の中で、模造香の出処が明らかになる。
それは、かつて王都の貴族階級に属していた一派──“エン=ファルド商会”。
現在は表向き解体されたとされるその商会が、
裏で祈りと香を使った記憶操作実験を進めていたことが判明する。
「まさか、あの名前がここで出るとは……」
ルーベンは驚愕を隠せなかった。
それは、彼の師・ソル・マーディンがかつて立ち向かおうとしたものだった。
「あの人は、“香は癒しであって、拘束であってはならない”って……そう言ってた」
記憶の奥にある穏やかな声が、今も耳に残っていた。
ルーベンの言葉に、しらたまは静かに頷いた。
香は、人の心と深く結びついている。
それは、祈りと同じ──目には見えなくても、人を癒し、導くもの。
ある日、しらたまは街角でふと鼻をくすぐる香に立ち止まる。
それは人工香灰が混じった香袋の一つだった。
だが、しらたまがその香りを吸い込んだ瞬間──
──景色が滲み、誰かの“記憶”が流れ込んできた。
ざらついた手、涙を堪える声、かすれた祈りの音。
しらたまの視界に浮かび上がったのは、見知らぬ実験室の一角と、
その奥で静かに香炉に祈りを捧げる、一人の人物──
それは、ルーベンの記憶にあったソルに他ならなかった。
「……ソルさん……」
しらたまの声は震え、目にうっすらと涙が浮かんだ。
香に宿る祈りは、消えていなかった。
その祈りの断片が、彼女の“導き”に応えたのだ。
「大丈夫。きっと、まだ……どこかにいる」
しらたまは、そっと香袋を握りしめた。
そしてこの出来事が──彼らを、
封じられた記憶と祈りの真実へと導いていく。
やがて判明した模造《白の祈り》の中心人物──
それは、自らを「新たな聖女の代弁者」と名乗る女、エリシアであった。
彼女は元・王都の貴族出身。
かつて社交界を席巻した美貌と弁舌を持ち、
その立場を失った今もなお、影響力を巧みに使い続けていた。
エリシアは《祈り》を“演出”とみなし、
その効能ですら「人の心の錯覚」であると冷笑する。
「祈りとは、光と音、香と言葉で“構成”されるもの──
私には、それを再現する手がある」
彼女の背後では、香炉と共に舞台照明のような光装置、
そして微細な人工香灰の散布装置が動いていた。
「私は証明してみせる。祈りなど、いかにして作られるものかを」
その言葉に、しらたまは言葉を失う。
目の前の女が語る“祈り”は、まるで儀式を模倣した一種の幻術であった。
けれど──
その場にいたヴァルターが、静かに前へと出る。
「君が演じているものは、誰かの痛みの上に築かれている」
ヴァルターの声は穏やかだったが、確かな怒りと悲しみを含んでいた。
「それを“祈り”と呼ぶのは──、僕は、許せない」
風が揺れた。
ラセルナの祈り。
ルーベンの師の信念。
そして、しらたまの中に宿る“願い”が、その場の空気に確かに灯った。
偽りの祈りに、真実の声が重なる瞬間だった。
やがて、模造品の被害が露見し、体調を崩す者が現れ始める。
香の不正成分、祈りの誤用、演出の欺瞞。
人々の間に広がっていた“白の聖女”への信頼までもが、ひととき揺らいでいた。
そんな中、しらたまは広場にて、香を用いた“祈りの儀”を提案する。
──それは、「真の祈りは、演じるものではなく、思い出すもの」
だという信念に基づいたものだった。
夕暮れの広場、静かに灯された香炉。
しらたまは、白い衣をまとい、祈りの言葉を胸に込めて香を焚く。
立ち昇る香の気配が、そよ風に乗って広がってゆく。
──母の手。
──友の励まし。
──旅人の願い。
香に触れた人々は、それぞれの中にある“記憶の祈り”を思い出していく。
「香に宿るのは、あなたの誰かを想った記憶です。
それは、他の誰でもない“あなたの祈り”です」
しらたまの声は、澄んだ祈りの風とともに街を包んだ。
涙が流れる。
誰かを想った日の気持ちが、香の記憶とともに蘇り、人々の胸を打つ。
──それは、心を解き放つ祈りだった。
エリシアは静かにその場を去り、王都の命により監視下に置かれることとなる。
商都ウォールナットには、
“祈りと香は商材ではない”という意識とともに、
しらたまたちが残した風が、確かに吹いていた。
事件の終息後、しらたまたちに商議会から協議の申し出が届く。
主導したのは錬金術事業を担うアーデル商会の後継者・シオン。
「……香に記憶が宿るというのなら、
それは人の心に寄り添う新たな医療にも、精神安定の手段にもなり得るわ」
シオンはそう語りながら、ルーベンとともに香灰成分の解析と調香の理論化に取り組み始める。
彼女は商人としてではなく、一人の理術師として祈りの真価を見極めようとしていた。
一方、ヴァルターは、しらたまの行った祈りの儀と街の反応を記録し、
「風の商会計画」としてまとめ上げる。
その中核に据えたのは、《香と祈り》という非物質的価値の流通。
癒し、感情の共有、そして“心の繋がり”を生む媒体としての香。
「ラセルナで培われた祈りが、理の都で解析され、
商都で人々の営みに結びつく──
これこそが、風の交易路だ」
ヴァルターの構想に、シオンは「理にかなっている」と静かに笑い、
ラセルナへの香材や香炉の輸出ルートを試験的に用意することを承認。
ルーベンもまた、星灰の応用を前提とした香の精製レシピを安全に共有する仕組みを構築する。
それは、かつて失われかけた“祈りの記憶”を再び世に戻す、新たな旅の始まりだった。
──こうして、しらたまたちの手で香と祈りは、
一国の中で静かに、確かに流れ始めることになる。




