第三十六話「西へ」
西の都ウィロー編
ルーベン視点から始まります。
風が止まる──
そんな感覚に襲われたのは、リース家支部の階下、書庫にいた時だった。
焚いていた香が一瞬だけ消えかける。まるで空気が逆流したかのように、風の流れが鈍くなる。
「……また、何かが動いてる」
そう呟いた瞬間、手元の机に置いていたギルド印章入りの封書が、風もないのにわずかに震えた。
錬金術ギルド本部──ウィローより召喚。
差出人は、研究理事会。
そして、添えられたもうひとつの名──
《ソル・マーディンに関する記録、再開》
師が──風を視る錬金術師が、消息を絶ってから幾年月。
ようやく、その名がギルドで動いた。
ルーベンは無言で手紙を握りしめる。
その手は震えていたが、胸の内は不思議と静かだった。
翌日、ルーベンは支部の集会室で、ヴァルターとしらたま、環の三人に報せを伝えた。
「俺は、ウィローに行く。
ギルドから正式な召喚だ。……ソル師の記録が、出た」
しらたまが驚いた顔を見せ、ヴァルターは真顔に戻った。
環は、懐かしいような笑みを浮かべて言った。
「ウィローか。あそこは、何度も行った。西の風ってのは、癖があるぞ」
「同行させてくれ」と、
ヴァルターが言ったのは、少し後のことだった。
「風の噂で聞いたが、ウィローは今、研究派と伝統派の対立が激しくなってる。
ルーベン、君一人じゃ危ない。
それに……商業の窓口としても、リース家が西と結ぶ口実は欲しい」
ルーベンは少し驚いたが、どこか安心して頷いた。
そして、しらたまが言った。
「わたしも行くよ。……白の聖女、なんて名乗らない。ただ、ルーベンの友達として」
ウィローへ向かう馬車の中。
ラセルナとは異なる大地の気配。
風は乾いていて、空が澄んでいるようで、逆にどこか音がしない。
「このあたりに入ると、風が語らなくなるんだ」と環が言う。
「語らなくなる?」
「祈りや願いじゃなく、秩序と論理で動いてる。そういう土地さ」
ルーベンは窓から見える赤茶けた岩肌と、
規則的に植林された街道沿いの草木を眺めながら、小さく頷いた。
「ウィローは“理の都”だ。情や霊験より、計算と証明を尊ぶ」
「それが悪いとは言わないけど……ちょっと、寂しい気もするな」としらたま。
「祈りを“証明”しろって言われたら、戸惑う人もいるだろうね」とヴァルター。
ルーベンは黙っていた。
でも彼の胸の内では、小さな波が揺れていた。
──祈りと理。
──証明と信頼。
ウィローに着いたら、自分はきっとその境界を突きつけられる。
けれど今は、ただ、師の行方を確かめたい。
「ソル師が残したものが何か。それを見極めに行く。……それだけだ」
その言葉に、誰も何も言わなかった。
ただ、馬車が進む音が、乾いた風の中に消えていった。
ルーベン・カリストは、数年ぶりにウィローの街を訪れていた。
風が違う。
空気に満ちる粒子のひとつひとつが、思考と理論を重んじているような張り詰めた感触を纏っていた。
目の前に広がるのは、石と金属、幾何学で構成された無駄のない街──理の都ウィロー。
ウィローは「論理と秩序によって統べられる都」として名高く、
街のあらゆる施設は法則に従って配置されている。
道は星の運行と季節の周期に沿って設計され、
中央には「知識の塔」と呼ばれる巨大な時計塔がそびえる。
そこは学問と記録の象徴であり、住民たちは塔の鐘の音で日々の生活を律する。
香炉も、祈りの対象ではなく「精神集中のための芳香蒸留装置」として用いられ、
街の至る所で香気に包まれた静かな議論が交わされていた。
しらたまが「香りが違う」と漏らしたとき、ルーベンは言った。
「ここでは、香りすら“思考を整える手段”なんだ」
祈りの感性が重んじられるラセルナとは、あまりにも違う世界。
ルーベンは一行を案内し、かつての学び舎──錬金術ギルド本館の門をくぐる。
そこでは幼馴染である研究員・ミリア・ヴェイルが彼らを出迎えた。
彼女は変わらぬ冷静な眼差しでルーベンを迎え、淡く微笑んで言った。
「……ずいぶんと、遠回りして帰ってきたのね」
ミリアは今、“命の調律”という専門領域で高く評価されている研究者であり、
ルーベンのかつての“想い”と“誓い”をよく知る存在でもあった。
ヴァルターや環にも簡単な挨拶を交わしたのち、ミリアは小声で告げる。
「……あの人のことよね。ソル先生が“最後に記録した研究”に、あなたの名前があったの」
その言葉に、ルーベンの胸はざわつく。
ギルド内部は、理論と証明を重視する空気が支配していた。
近年は「伝統派」と呼ばれる保守勢力が台頭し、
しらたまが用いる“祈り”の力についても、「非科学的」と断じる意見が強い。
その急先鋒に立つのが、ギルド内の論客であり
ルーベンのかつての先輩──ザグラン・ロシュである。
「“奇跡”などという曖昧な現象が、理論の足元を崩す。
錬金術は、感情に支配されるべきではない」
ギルド内での立場を脅かされているルーベンは、
しらたまを連れて来たことすら問題視されかねない。
だが、それでも彼は迷わなかった。
「お前の“祈り”を理解できる場所があると信じたいんだ」
一行は静かに宿へ向かう。
ルーベンはふと振り返る。
街の高台から見下ろすウィローの夜景は、冷たい理論の結晶のように光っていた。
──ここに、まだ“導き”は残されているのだろうか?
彼の心に、風がひとつ吹いた。
それは遠いラセルナの風と、どこか似ていた。




