第三十四話「風は止まらない」
使節団が聖都トゥルシーを後にし、王都ポリャンナへと戻る日。
冷たい朝霧のなか、しらたまは星詠みの装束を脱ぎ、
胸元には王妃から贈られた白のスカーフだけを残していた。
「……祈りは、暮らしのそばにあるもの」
静かに呟く声に、ヴァルターが頷いた。
「それが君の選んだ“答え”だ。ならば王都も、それを受け入れるだろう」
王都の門が見えてくると、護衛騎士たちが先触れを放ち、市民たちが道を空けた。
だが──その表情にあったのは、驚きと、静かな敬意だった。
「白の……祈り人だ」
「本当に、帰ってきたんだ……」
民衆の中から、しらたまへ花を差し出す子どもがいた。
しらたまは膝をつき、その手を受け取る。
「ありがとう。わたし、帰ってきたよ」
その言葉に、王都の空気がほのかに和らいでいく。
王宮ではすでに王妃イリスが使節団の帰還を待っていた。
静かに立ち上がり、しらたまの手を取る。
「お帰りなさい、しらたま様。……あなたの祈りは、星の都に届いたのですね」
しらたまが深く一礼する。
「はい。わたしの祈りは、誰かの不安に寄り添うものでありたいと、心から思いました」
イリスはその言葉に微笑み、王へと進み出る。
王は玉座に座しながらも、やわらかなまなざしで言った。
「ポリャンナ王国の民が、祈る自由を持ち得るために──
しらたま、そなたの行いに王として敬意を表す」
王命により、しらたまの“祈りの自由”は正式に保障されることとなる。
また、聖都での一連の働きにより、しらたまは“民間祈祷師”として認可され、
王国各地での活動を認められる。
王都の一部では「白の聖女」という呼び名が、信頼と希望の象徴として広まりはじめていた。
しかし、しらたま自身は──その名よりも、“ひとりの祈り人”であることを望んでいた。
リース家本邸の一室。
そこでは再び、しらたま、ヴァルター、ルーベン、環、セージが顔を揃えていた。
「まずは……無事に戻れて何よりだね」
ヴァルターがほっとしたように言い、椅子に腰掛ける。
「けど、これで終わりってわけじゃない。むしろ、始まりだ」
ルーベンが書類の山を睨みつけながら呟く。
「ラセルナの支部、だな」
環が立ち上がり、地図を広げる。
「この場所が祈りと相談の“拠点”として本格的に動くには、王都の後押しと支援が不可欠だ」
「そこは、我々が全力で支えます」
セージが力強く言った。
しらたまは静かにカードを手に取り、呟く。
「この風を止めないために……私も、進みます」
王都に再び、優しい風が吹いていた。
──次なる舞台は、再びあの街。
祈りの風が交差する、南の街──ラセルナ。
数週間後、しらたまたちは王都からラセルナへと帰還する。
街の空気は柔らかく、どこか誇らしげで、帰還を知らせる風鈴の音が一斉に鳴り響く。
「おかえりなさい、白の祈り人さん」
そう呼ぶのは、かつて支部に相談に来ていた老婦人。
ポピーとメープルも、玄関先でしらたまたちを待ち構えていた。
「支部の掲示板、毎日お客さんでいっぱいだったんです!」
「しらたまさんが帰ってくるってだけで、街のみんなが元気になったよ!」
ラセルナ支部の建物は改装が進められ、
応接室・祈祷室・子どもたちの居場所である相談スペースなど、
正式な設備が整えられていた。
「ここが……本当の“拠点”になるんだね」
しらたまがぽつりと呟く。
「風の通り道は整えた。あとは君の祈りが、この街に根づいていくかどうかだ」
ヴァルターの声には、どこか優しさと試すような色が混じっていた。
その日の夕刻。
街の広場で、しらたまの帰還と支部再始動を祝う小さな集会が開かれた。
人々の中に、かつて“魔物憑き”と呼ばれたギフト所持の子どもたちが混ざっていた。
「ここにいて、いいんだよね」
「うん。私たちがいたから、支部ができたんだって」
祈りは確かに、人々の中に芽吹き始めていた。
ラセルナ支部が本格始動してから数日。
王都や各地から「ギフトを持つ子を預かってほしい」という依頼が届くようになる。
中には、過去に“祓い”を受けそうになった子どももいた。
「ラセルナには“風が通っている”。だから子どもたちが呼ばれるのだろう」
ルーベンが古文書を読みながらそう呟いた。
町では、新たに移住してくる家族も増えていた。
かつてはよそ者を警戒していた町民たちも、
今では「祈りの町として知られるのも悪くない」と笑う。
支部ではメープルを中心に、生活相談や職業斡旋などの取り組みが始まり、
しらたまは毎日の祈りと占い相談のほか、子どもたちとの対話の時間も大切にしていた。
ある日──
「……また、“風の声”が聞こえた気がする」
しらたまが呟いたとき、空に光る軌跡が走る。
それは、遠くどこかで“祈りの風”が呼応している証だった。
しらたまは思う。
この町が、祈りの交差点となる未来が来るのだと。
そしてその夜。
リース家の密使が支部を訪れる。
封書の中には──
「教会の一部過激派が、南方に“異端の儀”を執り行う兆候あり」との報せ。
再び、祈りの風が試されようとしていた──。
聖都トゥルシー。
静寂に包まれた星詠みの塔の一室で、ひとつの報告書が開かれる。
──「白の聖女、聖都から帰還。王命による保護継続。民衆の間に祈りの文化、広まりつつあり」
その文面を見下ろす男の瞳は、氷のように冷たかった。
執行官ローレル。教会庁内でも最も過激な立場を貫く者。
「愚かな温情……神の教えは、妥協を許さない」
彼は静かに立ち上がり、僧衣の裾を翻す。
「今度は、法と剣をもって臨もう」
一方、星詠みの塔の最上階。
ペッパーは香を焚き、リリーと向き合っていた。
「予想より早いな」
「ええ。でも……感じませんか?あの祈りが、星々の動きを変え始めている」
ペッパーはわずかに目を細める。
「嵐が来る。だが、ただ手をこまねいているわけにはいかない。準備を始めよう」
二人は視線を交わし、星詠みの塔の地下書庫へと向かう。
──その奥には、かつて封じられた“ある儀式”の記録が眠っていた。
その頃、ラセルナ。
再建されたリース家支部では、子どもたちの声が響いていた。
祈りの香が町を包み、ギフト所持者たちは徐々に町に溶け込んでいく。
ヴァルターは、塔の窓辺から町を見下ろしながらしらたまに問う。
「君の祈りは、街に何をもたらしたと思う?」
しらたまはそっと微笑む。
「……風、かな。祈りの風。心を通す、小さな風です」
その言葉にヴァルターもふっと笑う。
「なら、この街はその風を止めないことだ。嵐が来ても、君の風が消えぬように」
深夜──。
遠く南の空に、うっすらと黒雲が立ち上り始めていた。
まだ誰も、その気配に気づいてはいなかった。




