第三十話「旅立ちと決意の道」
その朝、ラセルナの空は高く澄んでいた。
街の広場に集まった人々が、しらたまたちの門出を見送るために集っていた。
「これ、持っていって」
小さな手が、そっとしらたまの手に何かを握らせた。
それは、布と紙で丁寧に包まれた手作りの護符。
「お姉ちゃん、また戻ってきてね」
ぎゅっと笑う子どもたちに、しらたまは涙をこらえて微笑んだ。
ポピーとメープルは、香炉に特別な香を用意してくれていた。
立ちのぼる煙が、風に乗って街じゅうへと流れていく。
「祈りの香。街の風とつながって、しらたまさんの背を押してくれるよ」
「……ありがとう」
見送る声、手を振る人々、そして温かな風に背を押されながら──
しらたまたちは馬車に乗り込み、王都への旅路を踏み出した。
同行するのは、ヴァルター、ルーベン、環、そしてセージ。
旅路の緊張感を和らげるように、ヴァルターのリュートの弦がぽろろんと鳴る。
「まるで巡礼の一行みたいだね」
そんなヴァルターの冗談に、ルーベンが苦笑し、環がふっと笑う。
馬車の中で、しらたまは静かにカードを握りながら、目を閉じた。
(……わたしの祈りって、なんだろう)
誰かのために祈って、誰かを照らしたくて。
だけどそれが争いを呼んだり、自分の無力さに泣いたりした。
それでもあの日、《ステラ》は現れてくれた。 祈りは、まだここにある。
──だから、進む。
道中、森沿いの旧街道を通っているときだった。
空気が急に重たくなり、馬車の馬が嘶いた。
「風が、変だ……」
ヴァルターが窓を開けて外に目をやる。
一瞬の沈黙ののち、低く唸るような気配とともに、
森の影から一体の小型魔物が飛び出してきた。
牙を剥き、黒い毛並みに紫の斑点。
まだ若い個体のようだったが、明らかに“狂気”の風をまとっている。
「しらたま、下がれ!」
環が盾のように前に立つ。
だが、ヴァルターはすっと前に出て、手を軽く振った。
「いい風が吹いてる」
彼の周囲に、優しくも鋭い風が集まっていく。
「──《風のさやけき》」
その呟きと同時に、魔物の足元から螺旋状の風が巻き起こり、
獰猛なそれをふわりと浮かせ、軌道をそらす。
風に乗せて、そのまま森の奥へと優しく吹き返された。
「……すごい」
呆然とつぶやいたしらたま。
「殺さずに、導いたの……?」
「祈りがこもってたからね」
ヴァルターは優しく笑った。
「風は、誰かの意思を運ぶ。僕の祈りが“争わない”って言っただけさ」
しらたまは、その風の静けさに、少しだけ涙ぐんだ。
(わたしも……あんなふうに)
その心に、またひとつ、祈りの芽が宿る。 王都への旅は、まだ始まったばかりだった。
王都ポリャンナは、王命がすでに下っているにもかかわらず、その空気はどこか張りつめていた。
聖都の影響が根強く残る王都では、「白の聖女」という存在に対する民衆の好奇心と、
貴族たちの警戒心が入り混じっていた。
馬車が城門を通る際、衛兵たちは丁寧に敬礼したが、その瞳は緊張を隠しきれていなかった。
「……風が重いね」
ヴァルターが馬車の窓から外を見つめ、ぽつりと呟いた。
やがて馬車は王宮の側殿に横付けされ、迎えに出ていた女官に導かれる。
「王妃様がお待ちです」
通されたのは、緋色の絨毯が敷かれた応接の間。
その奥に立っていたのは──王妃だった。
静かに歩み寄り、しらたまの前に膝を折るように屈むと、そっと彼女の手を取る。
「よく来てくれました。……本当に、ありがとう」
その声は、母のようなぬくもりに満ちていた。
「わたし……」
しらたまが言葉を探すと、王妃は首を振って言った。
「あなたは、あなたのままでいいのです。
どうか、恐れずにいてください。あなたの祈りを、王も見守っています」
しらたまは、胸の奥からふわりと湧き上がる何かを感じながら、深く頷いた。
その後、一行はリース家本邸へと案内された。
王都内に構えるその屋敷は格式高く、けれどどこか温かみがあり、
しらたまたちを穏やかに迎え入れた。
「落ち着ける部屋をご用意しました。必要なものがあれば遠慮なく」
セージの丁寧な案内に、しらたまは何度も頭を下げた。
部屋の窓から見える王都の空は、まだ少し曇っていた。
その夜、リース家の伝令がヴァルターとルーベンのもとを訪れる。
「明朝、王宮にて政務会議が開かれます。貴族身分としての立場をもって、ご出席をお願いいたします」
ルーベンがふうっと息をつきながらネクタイを締め直す。
「さて、久々の“お飾り貴族”の出番だな」
「少なくとも、風を読む役には立つさ」
ヴァルターはリュートのかわりに、金の装飾が施された家紋入りのブローチを胸に留める。
一夜の静けさの先に、政治の風が吹き始めようとしていた。




