第二百三十七話「嵐の先の光」
しらたまの調律が一瞬でも船体を保たせたその隙に、ヴァルターは舵輪へ両手をかけた。
「……持ちこたえてくれよ」
彼の足元を海水が何度も打ち、濡れた靴底が滑る。
それでも身体を預けるように舵を切り、波の合間に船首を押し上げる。
だが、影鯨の巨体がすぐそこまで迫っていた。
甲板から見上げるほどの高さ、その黒光りする背に雨が叩きつけられ、
まるで巨大な岩塊が海を割って進むかのようだった。
「左舷いっぱい!」
操舵長が叫ぶ。だが、次の瞬間、右舷側の海面から再び星紡ぎクラゲの触手が突き出てきた。
触手はマストの根元に絡みつき、ずるり、と音を立てて引き倒そうとする。
「切りなさい! 今すぐ!」
クラウスが剣を抜き、ロープを飛び越えて刃を振るう。
水しぶきと共に切り裂かれた触手は、甲板にべしゃりと落ち、淡く光る液体を撒き散らした。
それが足元に触れた瞬間、魔力を持つ者の膝がぐらりと揺れる。
「……くそ、吸われる……!」
ルーベンが後退しつつ、すかさず銀色の粉をばらまく。
「エクソシズムソルトだ! これで少しは……!」
塩の粒が液体に触れ、ぱちぱちと音を立てながら煙を上げた。
その時、環が後部甲板から叫んだ。
「後ろの波、異常に高い! 押し潰されるぞ!」
全員が振り向くと、黒い影鯨が海中へ潜り、
その反動で巨大な渦が生まれようとしていた。
海面が吸い込まれ、船体がゆっくりと傾く。
「船首を渦から外せ!」
ヴァルターの声に、舵が大きく切られる。
しかし、波と渦が絡み合い、船は容易には動かない。
その間にも星紡ぎクラゲの触手が再びのしかかり、後部甲板をなぞるように這い回る。
ミモザが叫ぶ。
「動きを封じます! 離れて!」
彼女の杖先から、冷気の奔流が迸った。
触手の表面が瞬時に凍り、ぱきぱきと音を立てる。
「今よ!」
クラウスと環が同時に刃を振るい、凍りついた触手を粉砕した。
海へ崩れ落ちた欠片は、白い泡を散らしながら沈んでいく。
だが、影鯨の唸りが再び響いた。
海の底から、重い鼓動のような衝撃が伝わってくる。
しらたまの胸が、嫌な予感で締めつけられた。
「……また来る」
その言葉を証明するように、海面が弾けた。
巨大な尾びれが、まるで天を突く槍のように持ち上がり、
次の瞬間、船尾へと叩きつけられる。
木材が悲鳴を上げ、帆桁の一部が砕けて甲板に落ちた。
その衝撃で、しらたまの身体も数歩後ろへ弾かれる。
命綱がびんと張り、背中に衝撃が走った。
「しらたま!」
ヴァルターが片手で舵を押さえたまま叫ぶ。
彼女は大きく息を吸い、再び《調律》の力を甲板へ流し込んだ。
波のうねり、木の軋み、風の呼吸……全ての音を一つに束ね、船体の震えを抑える。
「……少しだけ、持たせます!」
ヴァルターはうなずき、再び舵を切った。
環が甲板の端から顔を上げる。
「渦の外側に抜けられる! このまま南東へ!」
「全員、掴まれ!」
舵の向きに合わせ、船首が渦をかすめるように滑っていく。
海が怒号を上げ、波頭が牙のように砕け散った。
その刹那、影鯨の巨体が海面から飛び出した。
その眼が、確かにしらたまたちを捉えているように見えた。
だが、次の瞬間——轟音と共に、その巨体は渦の中心へと落ち、海水が爆発的に跳ね上がる。
「今だ! 抜けろ!」
操舵長の叫びに、帆がわずかに広げられ、風を受ける。
船体が震えながらも渦から離れ、南東の波間へと飛び出した。
後方では、星紡ぎクラゲが触手を漂わせ、ゆっくりと海中に沈んでいくのが見えた。
影鯨の背も遠ざかり、やがて灰色の波と一つになった。
それでも嵐は終わらない。
黒雲が空を覆い、稲光が水平線を裂く。
風は依然として船体を揺さぶり、油断すればすぐに転覆しかねない。
環が樽を押さえながら息を吐く。
「……生きてるな、俺たち」
「まだ港までは遠いけどね」
クラウスが肩をすくめ、剣の刃についた液を海水で洗い流した。
ヴァルターは舵から手を離さず、前方を見据えたまま言った。
「……この先に入江がある。風を背に受ければ、嵐の外まで出られる」
しらたまは濡れた髪をかき上げ、深く息を吸った。
潮の匂いはまだ重く、海は怒っている。
それでも、彼女の胸には確かな脈動があった——「生き延びる」という強い拍動が。
船は再び波を切り裂き、南東の闇へと進んでいった。
風はなおも唸り、雨は鉛の弾丸のように頬を打ち続けていた。
南東へ舵を切った船は、渦の魔物からは逃れたものの、依然として怒涛の中にあった。
海面は黒い獣の背のように隆起し、波と波の谷間に落ちるたび、船体は悲鳴を上げてきしむ。
「帆、もう一段だけ広げろ! 風に乗るよ!」
ヴァルターの声が嵐の咆哮を裂く。
上層甲板で濡れ鼠になった水夫たちが素早く帆を解き、
たたきつける雨と風に翻弄されながらも固定した。
環は濡れたデッキを蹴り、舷側にしがみつくミモザを支えながら叫ぶ。
「もう少しだ! 入江に入れば波も落ち着く!」
クラウスは舵のそばで荷締めロープを締め直し、
ルーベンは魔鉱石炉の結界を強化しながら必死に魔力を繋ぎ止めていた。
ふと、しらたまの耳に、変化が訪れる。
先ほどまで海を支配していた、底知れぬうねりの音が、わずかに遠ざかった。
潮の匂いも、焦げつくような鉄臭さから、かすかに甘みを帯びた湿った香りに変わっていく。
「……風向きが変わった!」
見張りが叫ぶ。
それは陸地が近い証だった。海風に混じる森の匂い、
そして波の周期が短くなる感覚——間違いない、港は近い。
「右舷、灯り確認!」
遠く、霧のような雨の帳の向こうに、いくつかの小さな橙色の光が瞬いていた。
港町のかがり火だ。嵐に揺られながらも、確かな方向を示している。
「全員、最後まで気を抜くな! 波が港口でぶつかるぞ!」
ヴァルターの号令とともに、船は湾口の狭い水路へと進入した。
両脇には切り立った黒い岩壁がそびえ、砕けた波が白い霧を上げている。
風がまともに抜ける場所ゆえ、突風が吹き荒れ、舵は容易に取られそうになる。
しらたまは再び腰の命綱を握りしめ、甲板に響く全ての音を拾う。
波の砕ける音、帆が鳴く音、舵輪の軋む音……
そのすべてを心の中で束ね、船体の震えを押さえ込むように《調律》を放った。
ヴァルターがわずかに口元を上げる。「……助かる」
そして——湾を抜けた瞬間、嵐の勢いがふっと和らいだ。
外海からの高波は岩壁に阻まれ、港内の水面はまだ荒れてはいるが、命を脅かすほどではない。
「……着けるぞ!」
錨を降ろす号令が飛び、係船ロープが港の石柱へ渡される。
最後の大波が船体を揺らし、きしむ音とともに船は岸壁へぴたりと寄せられた。
甲板に、沈黙が訪れる。
それは嵐の轟音が消えたからではなく、生き延びた実感が全員の胸に重く広がったからだった。
環はへたり込み、笑いながら息を吐いた。
「港の匂いって、こんなに安心するもんだっけか……」
クラウスは剣を鞘に収め、肩の力を抜く。
「これだから海は嫌いなのよ、まったく」
ルーベンは濡れた眼鏡を拭きながら、
「魔鉱石炉、無事だ。次は乾燥作業だな」といつもの口調に戻っていた。
しらたまは濡れた前髪を払い、港の光を見つめた。
雨ににじむ橙色は、まるで遠くから手を差し伸べるように温かい。
背後ではヴァルターが舵輪から手を離し、低く呟く。
「——よく持ちこたえたね」
港の人々が駆け寄り、縄梯子が降ろされる。
嵐の夜はまだ続いていたが、そこは確かに“安全圏”だった。




