第二百十七話「風蝕の洞窟」
王都近郊にある初心者向けダンジョン【風蝕の洞窟】。
その入り口は、岩壁にぽっかりと空いた洞窟の口だった。
夏の初めの風が草葉を揺らし、洞窟の奥からはほのかな潮の香りと湿った空気が漂ってくる。
「ここが……ダンジョン」
カウムディが小さく息を呑んだ。
洞窟に一歩足を踏み入れると、そこはまるで別世界だった。
岩壁の隙間から差し込む陽の光に照らされて、
青緑の光をまとった浮遊体が静かに揺れている。
水気を帯びた藻のようなその魔物たちは、ふわふわと空中を漂い、
探索者たちの動きに反応して緩やかに揺れるだけだった。
「わぁ……アルジーたちですね」
しらたまが嬉しそうに声を上げる。
「この子たちは、ここの精霊さんなんですよ。
攻撃してこないので安心して大丈夫です」
「精霊……」
カウムディはアルジーの群れにゆっくり手を伸ばし、指先がふれる直前で止めた。
「ただそこにあるだけで、癒される……。
これも“祈り”のようなものかもしれないな」
プラーナがうなずく。
「魔物であって魔物でない存在。
それがこの層の守りなのかもしれません」
淡く発光するアルジーや、地面にびっしりと張りついたモスたちは、
ただ静かに呼吸するかのように揺れていた。
「こいつら、光に反応してるみたいだ。ほら、ルーベン」
環がランタンを持ち上げると、
光の動きに合わせてアルジーがふわりと揺れた。
「潮気を抱いて眠る魔素の胞子……面白い構造してる」
ルーベンは興味津々に観察しながら、錬金用の採取瓶を取り出した。
「ここでしか取れない薬草や魔素が多いんです」
しらたまが足元の湿地を指差す。
「アルジーの胞子は、ヒーリングポーションの素材にもなりますよ」
カウムディは、静かに拾い上げたモスを見つめた。
手のひらで小さく震えるその姿は、まるで風の導き手のようだった。
だが、その美しさの裏にある静けさが、どこか不安をもたらした。
「足元が……少し緩いな」
湿った岩に、靴がぬるりと滑りかける。
ヴァルターが注意を促した。
「このあたりはまだ安全だけど、油断は禁物だ。
風の音も、深くなるにつれて変わってくる」
アルジーの間を通り抜けた先に、暗がりが口を開けていた。
そこからはかすかに、ざざ……ざざ……と地を這うような音が聞こえる。
「……先に進もうか」
カウムディが静かに言った。
小さな祈りのような緑の導きに見送られながら、
一行は第二層へと足を踏み入れていくのだった。
第二層に足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
湿った石の匂いが濃くなり、天井が低く、狭く歪んだ通路が続く。
足元はぬかるみ、わずかに傾斜しているのがわかる。
「慎重に進んでください。ここの床、滑ります」
しらたまが小声で告げる。
「音……してる」
クラウスがささやくように言ったその時だった。
──ズドンッ!
壁の影から球状の物体が転がり出て、
ルーベンの脚元を狙って突進してきた。
「ピルバクだ!」
ルーベンが後退しようとするが、足元の湿地に足を取られる。
「させないわよ♡」
クラウスが滑り込むように前に出ると、軽やかに剣を振り抜き、
突進してきたピルバクの進路を逸らす。
ピルバクは岩壁に激突し、鈍い音を立てて転がっていった。
「ありがとう、クラウス……助かった」
ルーベンが息を整える。
「ったく、油断大敵ってやつよねぇ♡」
クラウスは小悪魔的にウィンクする。
しかしその刹那、奥から這い出してきたのは、
光沢のある黒い殻を持つ巨大なムカデ――ミリピードだった。
「ミリピード!注意しろ、毒持ちだ!」
ヴァルターが叫ぶが、それよりも早く、
ミリピードがプラーナに向かって毒液を吐きかける。
「プラーナ、下がって!」
カウムディが声を張ると、プラーナは素早く横に跳びのいた。
毒液が地面に触れ、じゅうと煙を上げる。
カウムディは周囲を見渡し、すぐに判断を下す。
「プラーナ!前衛へ、俺が毒を引き受ける!」
「カウムディ様、しかしそれは――」
「僕の魔力は高い。数発の毒攻撃程度なら耐えられる!君は剣で牽制してくれ!」
言い終わるや否や、カウムディは腰のポーチから香草を取り出し、
自らの鼻先に軽くすり込む。
魔力を使って香を拡散し、呼吸器への影響を抑える防御策だ。
「っ……! 思った以上に……くるな……っ」
顔をしかめながらも、彼はミリピードの前に立ち塞がる。
プラーナが刃を振るい、ミリピードの注意を引くように動く。
ルーベンが後方から補助魔法を展開し、クラウスは毒が届かぬ距離から剣を構えていた。
「クラウス、今!」
「了解っ♡」
閃光のようにクラウスが前に飛び出し、剣先から光が放たれる。
《ルミエール・トラップ》
目くらましの閃光がミリピードの感覚を狂わせると、
プラーナが鋭く斬り込み、カウムディの魔力放出が毒を打ち消す。
数秒の連携ののち、ミリピードの巨体が崩れ落ちた。
「倒した……!」
ルーベンが小さく歓声をあげた。
しらたまはすぐにカウムディに駆け寄り、傷や毒の反応を確認する。
「少し息が荒いけど、致命傷じゃない。薬草の効果もちゃんと出てる」
「よかった……」
プラーナが安堵の表情を浮かべる。
カウムディは肩で息をしながらも微笑んだ。
「少しは……戦えるようになったかな」
「うん、上出来だよ、カウムディ」
ヴァルターがそう言って軽く頷いた。
こうして一行は、風と毒のざわめきが満ちる第二層を乗り越え、
第三層――静かに闇が広がるホール空間へと歩を進めるのだった。