第二十一話「風が導く、その先へ」
ラセルナ支部が本格的に動き始めたある朝。
風見草亭の掲示板の一角に、何気なく貼り出された一枚の手紙が街の人々の視線を集めていた。
──「保護申請」──
その文字を見た瞬間、しらたまは胸の奥に微かなざわめきを感じていた。
「北方から逃れてきた子どもがいるそうだ」
ヴァルターがそう語ったのは、その日の支部会議の折だった。
「名前はポピー。年の頃は十歳前後……家族とはぐれ、ずっと一人で移動してきたらしい」
「ひとりで……?」と呟いたしらたまに、ルーベンが記録用紙を差し出した。
「彼女だけじゃない。ここ数日で、もう二人街に現れている。ネトル、そしてペルック」
「どの子も、ギフトを持っている可能性が高い」
ギフト所持者――それは、この世界において“祝福”と“忌避”の狭間にある存在だった。
力を持つ者を恐れ、理解できぬものに背を向けるのは、どこの土地でも変わらない。
そして案の定。
街の井戸端では、こんな声がささやかれていた。
「……祈ると風が荒れるらしいわよ」
「なんでも、魔物を呼ぶ“目”をしてるんだってさ」
「夜中、誰もいないところで“見えない誰か”と話してるのを見たって……」
誰が言い出したかもわからない噂話が、
まるで湿った風のようにラセルナの街をゆるやかに覆っていく。
広場に姿を見せたポピーの小さな背中を、遠巻きに眺める人々。
ネトルと名乗る少年が井戸に近づいただけで、店の主がそっと扉を閉める。
ペルックが買い物の列に並ぼうとすれば、誰かが目をそらして列を詰める。
しらたまは、その様子を見つめながら、胸の奥に少し冷たい痛みを覚えていた。
(祈りの風が運んできた命なのに――どうして、こんなにも冷たいの?)
ラセルナの街に、新たな風が吹こうとしていた。
その風は、静かに――しかし確実に、何かを変えようとしていた。
その日、空はどこかざわついていた。
風が軋むように揺れ、木々の葉が落ち着かずにささやき合っている。
「西の城壁外にある風車小屋の下に、亀裂……?」
マーリエが眉をひそめながら報告書をしらたまに見せる。
地下を走る自然の風穴に何らかの異変が起きているらしい。
空気の圧が変わり、風の流れが乱れているという。
「こんなに風が濁るのは久しぶりだな……」
ランドが低く呟くその声に、しらたまは胸の奥がざわついた。
(……風が、怒ってる……?)
そして、事件は起きた。
風車小屋の見回りをしていた街の子どもが、
崩れた土に足を取られ、地下の裂け目に落ちそうになったのだ。
「たすけてぇえええっ!」
叫び声に反応したのは、誰よりも早く駆け寄っていた三人の“忌避されし子どもたち”だった。
ポピーの手がふわりと上がる。
その瞬間、風の流れが一変した。突風でもなく、暴風でもない。
空気の圧がすうっと整えられ、子どもの身体を持ち上げるように風が押し戻す。
「地面が……裂ける……!」
ネトルの小さな手が土に触れると、その周囲の土壌がぐっ、と動いた。
まるで縫うように、ゆっくりと崩落の隙間が閉じていく。
そして、ペルックの手元に灯されたのは、小さな、けれど鮮やかな光。
その光は一直線に走り、街から駆けつけようとしていた
大人たちの足元へと続く“安全な進路”を示していた。
──奇跡にも似た、三つの力の連携。
誰に言われたでもなく、ただ目の前の命を救うために、彼らは動いた。
しらたまは、その場に駆け寄って声を失った。
(これが……ギフトの力……)
子どもを抱きかかえ、土埃にまみれながら立ち上がる三人。
「……大丈夫、誰も死ななくてよかった」
ポピーがそう呟いた時、空気がふっと和らいだ。
その場に居合わせた街人たちは、皆、一様に沈黙していた。
それが畏怖でも感動でもなく――ただ、理解が追いつかない静けさだった。
風のうなりが収まり、亀裂の広がりが止まった。
薄明かりに浮かぶ風車小屋の前で、しらたまは胸に手を当てて立ち尽くしていた。
ポピーの共鳴が風の流れを和らげ、
ネトルの接合が地の裂け目を閉じ、
ペルックの光が人々の動線を照らした――
それは決して“奇跡”ではない。
意味のある“必然”だった。
誰かが、ぽつりと呟く。
「……あの子たち、魔物憑きなんかじゃない」
まるでその言葉を皮切りにしたように、
目を逸らし続けてきた街の人々が、少しずつ、風の音に耳を澄ませ始める。
「……すまん……」
最初に謝ったのは、最も頑固だった老人だった。
「恐ろしい風だとばかり思ってた……でも、違った。あの風は……人を守る風だった」
「ありがとう」「助けてくれて、本当に……」
「怖がってごめんね」「あたし、あんなこと言って……」
口々に頭を下げる人々を前に、
ポピーもネトルもペルックも、はじめはきょとんとした顔をしていた。
「……ほんとに、怒ってないの?」
「怒ってなんか……ないよ」
「よかったぁ……」
その光景を、しらたまは静かに見守っていた。
自分がなにか特別な力を持っているという実感はまだない。けれど、祈った。
ただ、誰も傷つかないように。
この街で、誰かがひとりぼっちにならないように。
(ポピーの風は、周囲の痛みに気づく力。
ネトルの手は、壊れたものを結び直す力。
ペルックの光は、暗がりを進むための灯り――)
どれも、ここに来るべくして集まったものだった。
まるで流れ星が軌道を描いて交差するように。
あの子たちは、風の導きによって呼ばれたのだ。
風が静かに収まり、風車の羽が穏やかに回り出す。
傷ひとつない子どもたちと、元の形を取り戻した風穴。
現場に居合わせた街の人々が、沈黙を破るように、ぽつりぽつりと口を開いた。
「あれは……“魔物憑き”なんかじゃない」
「違う、あの風……あれは……“神の風”だ」
「祈りの……風だったんだな」
その言葉に、しらたまは胸の奥で何かがゆっくりとほどけていくのを感じた。
人々の目が、もはや恐れのそれではない。
戸惑いの中に、ほんのわずかな光がある。
しらたまは一歩前に出ると、集まる人々に向けて、まっすぐに語りかけた。
「これは、祈りです。
ポピーちゃんたちは、誰かを助けたくて……
誰も傷ついてほしくなくて……自分の力を使いました。
それだけなんです。ただ――祈るように、風を起こしただけ」
風がそよぎ、彼女の髪を揺らす。
その香りは、スウィリア。
街の空気に馴染む、優しい風の香りだった。
マーリエが、そっとしらたまの背に手を添える。
「……ねえ、しらたまちゃん。
これからは、“恐れ”より、“知る”ことが大切なのかもね」
しらたまは小さく頷いた。
「うん。知らないって、こわいことだよね。でも――
知れば、きっと変われる。風みたいに、どこへでも届くから」
子どもたちの手が、ラセルナの人の手に重なる。
かすかに笑い声が混ざり、見上げた空に小さな星が瞬いていた。
この街の空気が、変わろうとしている。
それはたったひとつの祈りが、風に乗って届いた証。
──そしてその風は、これから先も、誰かの心へ吹いていく。
「……よくがんばったね」
しらたまは三人にそう言って、ひとりひとりに手を伸ばした。
「君たちのギフトは、“恐れ”じゃなくて、“祈り”のかたちだよ」
優しい風が、そっと街を包み込む。
それはスウィリアの香りを乗せた風。
この街の空気が、確かに少しずつ変わり始めたことを知らせていた。




