第二十話「風は、名を連れて」
星神フィオルを祀る聖都トゥルシー、その高塔に佇む一人の巫女が夜空を仰ぐ。
その瞳は、星の配置だけでなく、風の流れすら読み取るという「月詠の巫女」
――イリス王妃もその血を引く巫女の一人だった。
「……届いたのですね。祈りの風が」
遠い南の地から吹いたそれは、ただの風ではなかった。
確かに、誰かが願いを乗せて放った“祈りの風”。
巫女は静かに祈りを捧げた。
「どうか、あなたの歩む道が穏やかでありますように」
──その風の名を、やがて人は“白き星の風”と呼ぶことになる。
星まつりの翌朝、風見草亭の一室。
しらたまと環は、ひととき静かに向かい合っていた。
「兄ちゃん……どうして、この世界に?」
しらたまの問いに、環はどこか気まずそうに頭を掻く。
「昔、どこの国かも忘れちまったが、旅先で手に入れたんだ。
深い青に光るインク――『蒼の星涙』って名前でな」
そのインクで何気なくメモを書いてたら、周囲が光に包まれて……気づいたらこの世界にいた」
「え、異世界転移のきっかけが……インク?」
「まあな。偶然そこに居合わせたシナモンが拾ってくれなきゃ今ごろどうなってたか……」
環は遠くを見るような目で語る。
「ギフトの正体はわからない。でもな、不思議なことに俺が先頭を歩くと道がひらけるんだ。
だから、行商人たちからは“風を割る者”なんて呼ばれてた」
ふむふむと聞いていたしらたまの視線が鋭くなる。
「兄ちゃん、その青いインクって……これ?」
しらたまは手元にあったタロットカードのひとつを突き出す。
そこに記された名前――『Momose Siratama』。
その文字は、深く澄んだ青で、美しくも神秘的に輝いていた。
「……これ、兄ちゃんが使ったインクじゃない?」
「……あー……あぁー……かもな?」
どこか誤魔化すような環に、しらたまは黙って拳を握る。
「お兄ちゃんいいことしたろ?」と満面の笑みを浮かべる環。
──次の瞬間、ぱしん!という乾いた音が響いた。
「痛っ!? ちょ、たま!?」
「何やってんのよこの人は!!」
怒るしらたまを見ながら、環は笑って頬をさすった。
「……でも、お前がここにいるってことは……結果オーライだろ?」
しらたまは、呆れと照れが混じったような顔で、そっぽを向いた。
「……もうっ、ほんとに……」
その横顔は、どこか嬉しそうでもあった。
──兄妹が交わした軌跡の真実。
それはこの世界の運命を変える、“星の絆”のひとつとなってゆく。
ぽろん、と。
静かな午後、風見草亭の片隅でリュートの音が響いた。
その音に、どこか和やかな空気が満ちていく。
「仲良きことは美しきかな」
いつものように、軽やかに弦を爪弾くヴァルターが微笑む。
テーブルの向かいでは、ルーベンが分厚い本を手にしながら淡々と言葉を継いだ。
「……まぁ、これで少しは安定するだろ」
広間には、ラセルナの面々と《風車の輪》の団員たちが集っていた。
その中心に立つのは、旅団の長――シナモン。
「ここ、ラセルナを《風車の輪》の拠点とする。
これからはリース家、そしてこの町の発展に力を貸すつもりだ」
街に根を下ろす覚悟を、飾らぬ言葉で宣言するその姿に、場の空気が一瞬だけ引き締まる。
「ふふ、これはまた……賑やかになるわね」
とマーリエが笑い、ミーナは「旅団の人たち、お菓子食べるかな!」とはしゃいでいた。
その光景を目にしたヴァルターは、ゆっくりと外の風に目を向けて呟く。
「風が流れてる……相変わらず、この街は心地よい風が交わる場所だよ」
そう言って、リュートの弦を再び軽く撫でた。
穏やかな音色が、ラセルナの空にふわりと舞い上がっていく。
『風の詩 ―ラセルナにて―』
ゆるりと吹いた 丘の風
揺れる風見草 陽にそよぎ
石畳 響く笑い声
ここは 帰る場所
いつか祈った ひとしずく
星の光を 拾い集めて
誰かの夢に 灯すように
風はそっと 舞い上がる
──願いが香に変わるなら
君の手に、やさしく残ろう
この街は、風の街
忘れられた名も、想いも
すべて ここに在る




