第百八十八話「空白を埋める絆」
皆がそれぞれの客間へと引き上げたあと、
談話室にはヴァルターと父オリバーだけが残っていた。
火の落ちた暖炉の前に、ふたり分だけ残された温かい香茶が湯気を立てている。
ヴァルターが椅子に深く腰を下ろし、目を伏せたまま口を開いた。
「……父上」
「なんだ?」
「……昔のことを、少し思い出していました」
オリバーは無言で、香茶を口に含んだ。その音だけが、静けさに波紋を落とす。
「僕は……あの時、家に戻るべきだったんでしょうか」
「お前はどう思っている?」
「……逃げた、と。ずっとそう思っていました」
「だが、逃げた先で立った。それが今のお前だろう」
「……はい」
しばらく沈黙が流れた。
オリバーがゆっくりと椅子にもたれかかる。
「私には……息子が二人いる」
「……はい」
「ひとりは家を守り、もうひとりは家を広げた」
「……僕は、家を広げたんでしょうか?」
「アロマティエは、すでに“リースのもうひとつの家”として王国に知られている。
お前が立ち上げ、守ってきたその街と、仲間たち。
それが、なによりの答えだ」
「……光栄です」
オリバーは、珍しく穏やかな笑みを浮かべた。
「そして、私は父親として――もう一度、息子と話ができたことが、なによりうれしい」
ヴァルターの肩が、ふと、緩んだ。
「……こちらこそ、来てくださって嬉しかったです。
正直、父上がどう思っておられるのか……怖かった」
「……怖がりだったな、お前は」
「はい。いまでも、少しだけ」
「それでも、立っている。それでいいんだ」
ふたりのあいだに、静かな時間が流れる。
「……父上。しらたまに、出逢えて本当によかったです」
「よい女性だな。……お前に足りなかったものを、きっと補ってくれる」
「……そうだと、思います」
「思いではなく、“願い”として言いなさい」
「……はい。願っています。彼女と――共に歩いていきたい、と」
オリバーは目を伏せて、うなずいた。
「ならば、私から言えることはひとつだけだ」
「……なんでしょう」
「父として、ではない。リース家当主として言おう。
――ヴァルター・リース。お前が築いたものを、誇りに思う」
「……ありがとうございます、父上」
その言葉には、長い時間を超えてきた重みと、絆があった。
そして、ふたりは並んで静かに、湯気の立つ茶を飲んだ。
それはきっと、過去の痛みをも溶かすような、あたたかな時間だった――。
鳥のさえずりが聞こえ始めた頃――
館の静けさを破らぬように、ひとりの女性が音もなく回廊を歩いていた。
エバー・リース。
リース家の母にして、ヴァルターの母。
その足が止まったのは、バルコニーの前。
そこに先に立っていたのは、息子――ヴァルターだった。
「おはようございます、母上」
「おはよう、ヴァルター。……早いのね」
「少し、目が冴えてしまって」
「昨夜は、父様と随分話していたものね」
ヴァルターは静かに笑った。
「……叱られるかと、思ってました」
「叱ることがあるとしたら、あの時、何も言わずに家を出たことかしら」
ヴァルターは息を詰まらせたように、視線をそらす。
「……申し訳ありません」
「けれど、それはもう過ぎたこと。
あなたがどう生きて、何を築いてきたのか――この目で見て、よくわかったわ」
エバーはバルコニーへと歩を進め、朝の冷たい空気に髪を揺らした。
「この街には、あなたの“意志”がある。
どこを見ても、あなたの気配がある。母として、誇りに思うわ」
「……ありがとうございます」
「けれど、ひとつだけ」
エバーは振り返り、まっすぐにヴァルターを見つめる。
「あの子――百瀬しらたまさん。
とても綺麗な子ね。目の奥に、強さと優しさを宿していた」
「……はい。僕には、もったいないくらいの人です」
「ならば、大切にしなさい。
手を取り合い、歩いていくことの重みを、どうか忘れないで」
ヴァルターは小さくうなずいた。
彼にとって、母の言葉は何よりも静かで、重い。
「……はい。しらたまを、守ります」
「守るだけでは駄目よ。彼女と、共に進むのよ。支え合って」
「……肝に銘じます、母上」
エバーは微笑んだ。その笑顔は、若き日の彼女を彷彿とさせる、柔らかなものだった。
「さ、朝食の準備が始まる頃でしょう。起こして回らなければ」
「では、僕も手伝いましょう。……子どもたちの顔も見たいですし」
「ふふ、そうね。起こしてもらえたら、あの子たちも喜ぶわ」
そうしてふたりは静かに、館の廊下へと歩を進めていった。
朝の光が、ようやくアロマティエの街を照らし始める頃――
そこには、確かな絆を取り戻した親子の姿があった。
街に春の陽射しが降り注ぎ、石畳の道を歩く一行の笑い声が職人街に響いていた。
「この辺が香草市場通り。薬草屋さんと香油のお店が並んでて、観光客にも人気なんです」
しらたまが胸を張って案内する。
「しらたまお姉ちゃん、あのにおい、なにー?」
エリオットが鼻をひくつかせながら聞いてきた。
「それはね、ロミーとティームの蒸留の匂いだよ。奥でおばあちゃんが香油つくってるの」
「すっごーい!」と目を輝かせるエリオット。
「よければ中、見学させてくれますよ」としらたま。
「すみません、お願いできますか?」
ヴァルターが声をかけると、店主の女性がにっこり微笑んで手招きした。
中では、蒸留器から蒸気がふわふわと香りを立てていた。
「見て!ガラスのなかで水と油が分かれてる!」
ラルクが目を輝かせる。
クラウスがそっと耳元で囁くように
「これがね、美しさを引き出す秘密のエッセンスよ♡」
「えっ……は、はいっ」ラルクが頬を赤らめた。
外に出ると、環が子どもたちとじゃれあっていた。
「おーい!このへんの店でカラフルな飴があるって聞いたけど、知ってるやついるかー?」
「知ってるー!!」エリオットが大声を上げて指差した。
「案内お願いしやす!ラルク隊長も!」
環の言葉にラルクもふっと笑ってうなずき、先頭に立って歩き出す。
その後ろ姿を、アリッサとしらたまが並んで見守っていた。
「ふふ、うちの子たち、すっかり懐いてますね」
「私のほうこそ、助けられてばかりです」
しらたまがぺこりと頭を下げた。
「いえいえ。あなたのような方がヴァルターのそばにいるなら、私も安心できます」
そう言って、アリッサが柔らかくほほ笑む。
そこへ、ルーベンが苦笑いしながら追いついてくる。
「まさか町歩きにここまで振り回されるとは思わなかった……」
「おつかれさま。お子さまたち、元気だからね」
しらたまが差し出した冷たい香茶を、ルーベンはありがたく受け取った。
一方で、クラウスは香草の花束を手に、エバーと談笑していた。
「このラヴェンダー、アロマティエのは特に上質なのですね♡」
「ええ、娘が選んだ畑の一角で摘んできたのです」
「まあ、素敵な親子の絆ですわ♡」
最後尾を歩くヴァルターとオリバーは、後ろから一行を見守っていた。
「……ずいぶんと、いい空気だな」
「ええ、まるで家族のようです」
「そうだな」ヴァルターは目を細める。
「祭りを迎えるのが、ますます楽しみになってきたよ」
そう言って、家族と仲間たちの笑顔が響くなか、
春の街並みの中へとゆっくりと歩みを進めた──




