第一話「白の星は、まだ眠っていた」
午後の占いの館は、静かだった。
窓から差し込む淡い光が、棚のガラス細工や石の浄化皿をきらきらと照らしている。
香の煙がゆるやかに漂う中、百瀬しらたまは、今日最後の客を見送った後、深く息をついた。
「……ふぅ。今日もお疲れさま、わたし」
テーブルの中央には、白地に星模様が浮かぶ手製のタロットカードが整然と並んでいた。
布の端をそっと折り、束を手に取る。
そして傍らに置いていたホワイトセージの束に火を灯し、小皿に立てる。
シュウ……という細かな音と共に、清らかな煙が立ちのぼる。
しらたまは一枚ずつ、カードを丁寧にその煙へとくぐらせていく。
表、裏、そしてふち。すべてにそっと意識を向けながら。
「今日も、ありがとう。たくさん助けてくれたね」
それはまるで、“祈り”に近い所作だった。
煙がゆるやかに満ちる中、彼女は最後の一枚──《星》のカードに触れた。
指先にふわりと、微かな温度の変化が走る。
「……あれ?」
何か、違う。
カードが微かにきらめいたように感じた。
――気のせい、かな。
そう思いながらも、しらたまはカードを両手で包み込むように持ち直し、
今度は少しだけ強めに意識を向けてみる。
その瞬間――
白いカードが、青白い光をふわりと帯びた。
光は瞬きほどの短さで、しらたまの手の中で淡く揺らぎ、やがて空気に溶けるように消えた。
「……へ?」
視界が、ぐらりと傾いた。
足元から音が遠ざかり、周囲の輪郭がぼやけていく。
セージの香りも、昼の光も、すべてが遠のいて。
「なに……これ? 夢?」
星の気配だけが、やたらにはっきりと残っていた。
そして次の瞬間、彼女はもう、見知らぬ世界に立っていた――
気がつけば、目の前には木々があった。
どこか違う。空気の質も、光の角度も、何もかもが異質だった。
しらたまは、腰を抜かすようにその場に座り込んだ。
風が吹き抜けるたびに、枝葉がざわざわと騒ぎ、どこか遠くから鳥の甲高い声が聞こえる。
「……え、え? え、ちょっと待って……え?」
声が震える。
心臓の音だけが耳の奥に響いて、息が詰まりそうだった。
周囲を見回す。どこにも“部屋の輪郭”なんてない。セージの香りもない。
目の前に広がっているのは、森。
それも、絵本やジブリのような柔らかい森じゃない。
地に足のついた、生々しい、生命の濃い“現実の森”。
「……え、どこ? どこここ? なんで森? なにこれ? なにこれ?
夢? 夢でしょ?!」
声が震える。
心臓の音だけが耳の奥に響いて、息が詰まりそうだった。
叫んでも返事はない。
風の音と、鳥の声、そして何かの小さな動物の足音だけ。
思わず立ち上がろうとして、地面に手をついた。
そこには柔らかい土と、乾いた落ち葉と、何かの枝──
「っひ!!」
何かが指先に触れた。
とっさに手を引っ込めたが、それがただの小枝だったとしても、もう限界だった。
「こわいこわいこわいこわいこわい!!」
情けないとわかっていても、震えが止まらない。
わたし、森とかムリ。虫とかムリ。自然の音が怖い。なにこの現実感。
こんな時、兄がいてくれたら。
「たま、お前こういう時、まず深呼吸な」
って、そう言ってくれる人がいたら。
そんな思いが喉までこみ上げた時だった。
――ガタゴト。
遠くから、木を揺らすような重い音が聞こえてきた。
カラン。キィ。
それは、蹄の音。
「え……馬? 馬の……馬車?」
慌ててしらたまは道の端に隠れるように身を低くする。
息をひそめ、じっと音の主を待つ。
やがて、木立の向こうから現れたのは――
素朴な木製の馬車。
その前に立つのは、がっしりした体格の中年男性と、
笑顔を絶やさぬ穏やかな女性だった。
夫婦は互いに話しながら、ゆっくりと馬車を進めていた。
「なんだい、今日は荷が軽いねぇ」
「ま、たまには静かな夜道もええもんだろ」
穏やかな、優しい声。
その空気に、しらたまの張り詰めた恐怖が、ふっと緩んだ。
「……ひと、だ……」
足が勝手に動いていた。
「す、すみませんっ、あのっ、あの、ここってどこですか!?
わたし、気がついたら森にいて──」
声は裏返っていた。でももう、怖くて仕方がなかった。
女性――マーリエが驚いたように目を見開き、
すぐに馬車から飛び降りてくる。
「まぁまぁ、どうしたの? ひとり? 怪我はしてない?」
「……ランド、ちょっと馬を止めておくれ!」
「…………」
寡黙な男――ランドは無言で頷き、馬の手綱を引いた。
マーリエはすぐにしらたまのそばにしゃがみこみ、
優しくその背に手を添えた。
「大丈夫、大丈夫。怖かったろう?
ここはポリャンナ王国、南の街道だよ。
ちょうどラセルナ宿に向かってたところさ。……一緒に、来るかい?」
その言葉が、しらたまの心を決壊させた。
涙がぽろりとこぼれた。
やっと“ここ”が、自分だけの異常じゃないと知れた。
馬車のわき、木々に囲まれた道の端で、
しらたまは震えながら深く頭を下げた。
「……たすけていただき……ありがとうございます……」
その声は、まるで誰か他人が言っているようだった。
息も、姿勢も、不格好なくらいぎこちない。
体はまだ、怖さでこわばっている。
頭の中では“セージの煙”のことや
“カードが光った瞬間”がぐるぐる回っていて、
自分がなぜここにいるのか、
本当に現実なのか、すべてがはっきりしない。
だが、礼だけは──どうにか、礼だけは言っておかねばと、
反射のように声を出していた。
「そりゃまぁ……驚いただろうねぇ」
目の前の夫人──マーリエは、落ち着いた声でそう言って、
しらたまの背にそっと手を添えた。
その手のあたたかさに、少しだけ体が緩む。
だが。
隣に立つ男性、ランドの視線は冷静だった。
口は開かない。だが、全身から“警戒”の気配がにじみ出ていた。
じっとこちらを見つめ、表情ひとつ動かさずにいる。
何かがあれば、即座に対応するために“観察”している、そんな目だ。
しらたまは小さく息をのんだ。
(……うん、まぁ、そりゃそうだよね……)
こんな時間に、こんな森の奥で、
明らかに“よそもの”の小娘が、白い服でひとりぼっち。
明かりも荷もなく、武器もなく、ただ“そこにいた”だけ。
――怪しいにもほどがある。
むしろ声をかけてもらえただけで運がいい。
助けてくれたこの人たちを、変な奴に巻き込むわけにもいかない。
「……あの、わたし……その、
名前は、百瀬しらたま、っていいます……。
よくわからないんですけど、気がついたら、森にいて……
もしかしたら、どこかで迷子になったのかもしれません……」
口調もおかしい。内容もおかしい。
自分で言っていても、空々しさに吐きそうだった。
だが、マーリエはその全てを“ひとまず”受け止めてくれた。
「うんうん、わからないこと、いっぱいあるよね。
とにかく今は落ち着いて……ほら、馬車に乗って。
寒いし、足もガタガタでしょ?」
「……はい……」
マーリエの手に引かれるようにして、
しらたまは馬車の脇に足をかける。
ランドは何も言わずに一歩退き、道を空けてくれた。
その瞳は相変わらず鋭いままだったが、
それでも、“拒絶”ではなかった。
馬車に乗り込み、膝の上で自分の手を握る。
あたたかさを感じるためでも、震えを止めるためでもない。
ただ、現実感が欲しかった。
(夢だったらいいのに……。でもこれ、絶対夢じゃない……)
馬車は、揺れる。
ごとん、ごとん。
車輪が舗装されていない地面を軋みながら進む音が、
夜の静寂に微かに重なる。
しらたまは震える手を膝の上で組み、無理やり口元を閉じていた。
何も考えたくなかった。
でも、“何も考えずにはいられない”のが、今の自分だった。
馬車の中。座席の前側、
少し距離を取って座る夫婦が、低く話しているのが聞こえる。
「あの名乗り方……お前、聞いたことあるかい?」
「ないねぇ。少なくとも、このあたりの言葉遣いじゃないわ」
「名前の響きも妙だった。
どうせどこかの異国から攫われてきた娘が逃げ出したんだろうよ。
奴隷商の荷崩れ、ってやつさ」
「まぁ、そうだったとしても、
ここにいたってことはもう縁切れってことだわね。
……でもあの目は、“いけにえ”の目じゃなかったよ。
ちゃんと生きてる子だった」
「………………」
しらたまは、呼吸が止まりそうになるのを感じた。
──奴隷?
攫われて?
異国から?
そんな言葉、日常の占いの館では聞いたこともなかった。
自分が、そこに分類される存在なのかと思うと、
背中に冷たいものが走った。
けれど、不思議と頭は冷静だった。
ここは、もう“あの世界”ではない。
言葉は通じる。人の形をしている。
だけど、“価値観”が違う。
(本当に……別の世界、なんだ……)
その現実が、ようやく少しだけ、心に染み込んできた。
「ねえ」
不意に、夫人――マーリエが振り返り、ふわりと微笑んだ。
「うちはね、宿を営んでるの。“風見草亭”って言うんだよ」
「……宿?」
「そう。旅人や、職人や、ちょっと訳ありの子たちが泊まってく。
あんたみたいな子も、時々いるよ」
マーリエは優しくしらたまを見つめる。
「落ち着くまで、うちにいなさい。
部屋なら、いくらでもあるから」
その言葉は、何よりもしらたまの心をほぐした。
ああ、この人は“疑っていない”んじゃない。
“それでもいい”って言ってくれているんだ。
「……ありがとうございます」
やっと、声が出た。
けれど、その背後。
馬の手綱を握る男──ランドの視線は、相変わらず鋭いままだった。
沈黙のまま、夜道を見つめるその横顔は、
油断も、情も、簡単には見せてくれない。
でもその目が時折、馬車の窓越しにちらりとこちらを見るのも──
たしかに、見えた。
「さぁ、ここを使って」
マーリエに案内されたのは、二階の端にある小さな部屋だった。
床は木製。窓にはレースのカーテン。
机と椅子と、小さな収納棚、そして壁際のベッド。
照明はなく、机の上には蝋燭が一本だけ灯されていた。
(……たぶん、これが“電気”代わりなんだ)
ほんのり甘いような、蜜蝋の香り。
見知らぬけれど、どこか落ち着く空気があった。
「ありがとうございます……」
しらたまが小さく頭を下げると、マーリエは柔らかく微笑んだ。
「あとで、あったかいスープ持ってきてあげるよ。
胃、冷えてるだろうしね」
「……はい……」
その言葉が、ありがたかった。
気づけば、膝が笑っていた。力が抜けていた。
──そして、数十分後。
扉がノックされ、木製のトレイに乗せられたスープが運ばれてきた。
「お待ちどうさん。無理しないで、ゆっくりお食べ」
中身は透き通った塩味のスープ。
胡椒が効いていて、温かい湯気が立ち上っている。
浮かんでいるのは柔らかく煮えた玉ねぎと、
ほくほくしたじゃがいものような芋。
(……玉ねぎと……じゃがいも、だと思う。
けど……この世界にその名前が通じるかは、わからない)
スプーンを手に取り、ゆっくりと口に運ぶ。
少し熱くて、でも、優しい味が広がった。
(固形物は、のどを通る気がしない……けど……)
そう思いながらも、しらたまはゆっくりと、全部食べきった。
「ごちそうさまでした……」
トレイを抱えて階下へ戻り、食器を返す。
マーリエが「えらいね」と笑ってくれた。
再び部屋に戻ると、蝋燭の火がゆらゆらと迎えてくれた。
ベッドに倒れこむように体をあずけ、天井を見つめる。
「……考えたって、無駄……か」
呟いた言葉は、思ったよりも静かで、
そのまま、深い眠りへと沈んでいった。
そして翌朝──
木の床に差し込む淡い朝の光。
窓の外からは鳥の声と、人々の話し声がかすかに聞こえる。
(……夢、じゃ……なかった……)
しらたまが身を起こしたその瞬間――
「……誰だ、お前」
聞いたことのない、男の声がした。
「えっ……」
目の前に、知らない青年がいた。
白衣めいた上着、眠たげな目元、乱れた髪。
明らかに“この部屋の主ではない人物”が、部屋の椅子に腰かけていた。
「は、えっ、えっ、だ、だれ!? なに!? なにしてるの!?」
「……いや、俺が聞いてる」
悲鳴を上げたしらたまに、
青年はじっとこちらを見たまま、まばたき一つしなかった。
補足:この男の正体
名前:ルーベン・カリスト
錬金術ギルド見習い/この宿に長期滞在中
「見知らぬ人間がいる」と聞いて、
好奇心から“何も言わずに部屋に忍び込んだ”ただの変人である。
ψ 更新頻度:毎日5話更新 ψ
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