第百六十四話「聖香祭」
澄んだ冬空の下、アロマティアの街は静かに息づいていた。
あたたかな陽の光が、尖塔屋根の赤瓦を照らし、
結界香の白い煙が、石畳の道をふわりふわりと流れていく。
「はい、次の香炉はこっちよぉ♡ そう、ちゃんと風下に置かないと煙が街を巡らないわ♡」
街角の小さな広場では、クラウスが子どもたちと一緒に香炉を並べていた。
手には真鍮の小さな香炉を抱えた少年少女たちが、
わいわいと笑いながら石畳の隙間にそれを据えていく。
「先生!煙がまっすぐ伸びてる!」 「よろしいっ♡ それはとても良い風よ♡」
どこか愉快で、どこか神聖なその光景に、近くを通る住民たちも思わず立ち止まり、
祈りを込めてそっと手を合わせた。
*
そのころ、風見草亭の前では――
「ミーナ、もうちょっとだけ手前かな。風が逆向きになりそう」
「うん!わたし、こういうの好き!いい匂いするし、なんだか嬉しい日って感じがする!」
ポピーとミーナが、店の看板の根元に香炉を据え、種火を灯していた。
ふたりの顔をかすめるように、調香された白煙が立ちのぼり、
淡く甘い香りが街路をくすぐっていく。
「ねえ、ポピー姉ちゃん」
「ん?」
「しらたまお姉ちゃん、あの香、作ったんだよね?」
「うん。……すごいよね、あの人」
ふたりは目を合わせて笑った。
*
支部の前では、ルーベンが火打石を手に、慎重に香炉の底に火を入れていた。
「……よし。メープル、蓋をゆっくり乗せて」
「おう!……よし、できた!」
慣れない作業に緊張しながらも、メープルは目をきらきらと輝かせていた。
煙がふわりと立ち上り、彼女の肩を包むように揺れる。
「……なんか、あったかい香り」
「しらたまが作る香は、いつも“人を守る”香だからな」
ルーベンは優しい眼差しで煙を見つめた。
*
そして、それを領主館の高窓から静かに眺めていたのは、ヴァルターだった。
香が交差する街路の向こうに、あちこちで灯される小さな火。
それはまるで――無数の心が祈りによって繋がれてゆく様のようだった。
「……いい風が吹いてるね、今日は」
彼は音もなくそう呟き、指先で窓辺のガラスを軽く撫でた。
*
一方、街の中央広場。
木立の影から、子どもたちの姿と小さな祈りの火を見守るふたりの姿があった。
しらたまと環だった。
「……こんなにたくさんの人が祈ってくれてる。ほんと、すごいなあ」
しらたまが小さく呟くと、隣の環が腕を組んでニッと笑った。
「そりゃそうだろ。おまえが香を調合して、
みんなが置いて、誰かが祈った。そういう積み重ねだ」
「……うん」
街全体を包むように、結界香の煙が風に乗り、ひとつ、またひとつと灯されていく。
人々の手で紡がれた光と香りの帯が、アロマティアを祈りの結界で満たしていく――。
そしてその中心で、ひとりの占い師が、そっと胸に手を当てた。
「きっと、大丈夫だよね」
風が、そっと彼女の髪を撫でていった。
夕闇がそっと街を包み始める頃、アロマティアの広場にはひときわ澄んだ空気が流れていた。
空には一番星が瞬き、香炉からは淡い煙が静かに立ち昇る。
風は穏やかに、まるで神の息吹のように人々の頬を撫でてゆく。
教会の鐘が一つ、深く鳴った。
やがて、広場の中央に集められた子どもたちが、そろりそろりと並ぶ。
冬の夜気に震える肩を寄せ合いながら、皆で持ち寄った白いスカーフを首に巻いていた。
その中央、クラウスが優しく頷き、手をひと振りする。
歌が、はじまった。
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♪
「光の風よ、香の雫よ
天へと昇れ 我らの祈り
聖き名に捧ぐ歌
いまこの空に響け」
♪
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透き通るような歌声が、広場を、街を、そして空へと満たしていく。
子どもたちの小さな胸に宿った祈りは、香と共に風に乗り、
まるで目に見えぬ星の糸がこの街を包み込むようだった。
人々は足を止め、言葉を交わすことなく、ただその歌に耳を傾けていた。
老いた者は涙を流し、若き者は手を握りしめる。
この歌を知っている者も、初めて聴く者も、ただ一つの想いを胸に抱く。
――願わくば、この平穏が永く続きますように。
香炉の煙が空へと昇る。
その先にある、誰かに届くことを願って。
歌が終わると、しばしの沈黙が街を包み――
やがて、万雷の拍手が広場を揺らした。
その中で、しらたまはそっと瞳を伏せる。
「ありがとう……」
彼女の声は誰にも届かず、けれどその祈りは、たしかに風の中に溶けていた。
年の瀬前。
陽が落ちるとアロマティアの街は、
まるで一斉に息をひそめたかのような静けさに包まれた。
石造りの塔に据えられた大鐘が、今まさにその時を迎えようとしている。
街の広場には人々が集い、焚かれた香炉からは、白く淡い香煙が立ち上る。
その香は、祈りの言葉と共に調合された“年の風”――古くから伝わる神聖な香だった。
──カン……カン……。
塔の鐘が鳴る。
ひとつ、ふたつ。
その音は夜の帳に溶け、街の隅々にまで届いてゆく。
香煙は鐘の音に呼応するようにゆらぎ、空へと舞い上がった。
「これが……アロマティアの風か……」
旅の神官が、帽子を取り胸元で手を組む。
広場に集った者たちは声を発さず、ただ風と香に身を委ねていた。
夜の静寂が、香と鐘の音とともに“年の終わり”をそっと告げていた。
それはまるで、街全体が祈りとともに深く息を吐き、静かに整ってゆく瞬間だった。
年の瀬。
深夜のアロマティアは、満天の星に照らされた沈黙の世界だった。
灯火の消えた通りに浮かぶのは、各地から集った占い師たちの帳と小屋、
そして白い布で覆われた“祈りの間”。
しらたまの“占い処”は広場の東端、星の見える高台に設えられていた。
夜風は穏やかで、香炉からは焚かれた“年の橋”の香がやさしく流れている。
しらたまは静かにカードを手に取った。
その手には一切の迷いがない。
「……見えたのは、ひとつの風の道標。来年は、導きの年になるでしょう」
その声は、帳の奥にいた者だけでなく、広場に立ち尽くす人々の胸にも届いた。
老婦人が目を潤ませ、若者が小さくうなずく。
誰もがそれぞれの胸に、“導かれるもの”を思い浮かべていた。
しらたまは祈るように、ひと息、香の風に想いを託した。
“この風が、誰かの希望に変わりますように。”
こうして、アロマティアの一年は静かに幕を下ろしていった。




