第百六十一話「お茶会のあとで」
お茶会のあとには、ほんのりと甘いスコーンの香りと、紅茶の残り香が漂っていた。
カップの中にはもう半分も残っていないが、誰も席を立とうとはしなかった。
「……ねぇ、しらたまお姉ちゃん。その舞踏会のとき、緊張してた?」
ミーナが椅子にもたれて、スプーンをくるくる回す。
「んー、してたよ。足、震えてたもん」
しらたまは頬をふくらませながら、照れくさそうに微笑んだ。
「それでも、背筋はぴんと張っていたのでしょう?」
クラリッサが紅茶を口にしながら目を細める。
「あなたはいつも、恐れをそのまま受け止めて進むわ。それって、簡単じゃないのよ」
「……逃げたくなるときもあるけど、誰かが見ててくれる気がして……」
そう言って、しらたまは窓の向こうを見やった。
光の中、風が通るたびに花の鉢が揺れていた。
「風の匂いが変わりました」
セリーヌが静かに言った。
「リリオネアから戻ってきた風ではなくて……“この街の風”ですね。懐かしくて、やわらかい」
ミーナがぱちんと手を打った。
「じゃあ、“おかえりの風”って名前にしようよ!しらたまお姉ちゃんが連れてきた風!」
みんながくすっと笑った。
「ただいま、アロマティア」
しらたまが、そっと呟いた。
それは、誰にというわけではなくて、この街に――この瞬間に――。
カップの中で紅茶がわずかに揺れた。
街の鐘が、ひとつ、静かに鳴る。
スコーンが残りひとつになったころ、ミーナが唐突に話題を投げかけた。
「ねぇねぇ、しらたまお姉ちゃん、ヴァルター様と、なんかなかったの?」
「……ぶっ!?」
しらたまは思わず紅茶を吹きそうになった。
「おや、急に随分と直球ね」
クラリッサが肩を揺らしながら笑う。
「だって、あの人、しらたまお姉ちゃんのこと見る目が
ちょっと違うっていうか~……えっと、“まるで詩の中に閉じ込めたい”って感じ?」
「言い方がポエムだわ、ミーナ」
セリーヌがくすりと微笑みながら紅茶を注ぎ足した。
しらたまは顔を赤くして、うつむいた。
「な、なにもないよ……!ほんとに!
その、ちょっと手を引かれたり、守ってくれたりは、あるけど……」
「でも、舞踏会のあのとき、駆け寄ってたんだよね?“しらたまっ!”って」
ミーナが両手を頬に当てて再現しようとする。
「や、やめてぇぇ……!」
クラリッサが茶菓子をひとつ口に運びながら、淡く笑った。
「でも、あの人、普段の柔らかさとは裏腹に、感情の底が深い。
きっと、心に触れたら……沼よ?」
「沼って……」
しらたまは困りつつ、でも――胸の奥が少しだけ温かくなっていた。
セリーヌがそっと呟く。
「……“心の魔術”は、一番解きにくいものです」
(あのとき、あの声)
「……しらたまっ!!」
その声が、胸の奥に微かに残っている。
鋭くて、真っ直ぐで、だけど揺らいでいた。
まるで――誰かを失うことを恐れているみたいな、そんな声。
あの夜の仮面舞踏会。
煌びやかな光の渦のなかで、誰が誰かもわからなくなっていた。
孤独と混乱の只中にいた私の名を、彼は確かに呼んだ。
その声に、私は救われたんだ。
「……ふふ、何を思い出しているの?」
クラリッサの微笑みが、現実へと引き戻す。
「え? あ……なんでもないの……」
慌てて笑う自分に、少しだけ呆れる。
“なんでもない”――
本当はそうじゃないのに。
あの人は、いつも少しだけ距離を取ってくる。
優しさと、過去と、たぶん何かの恐れ。
そのすべてを、私にはまだ理解しきれない。
でも。
「……もっと、知りたいな」
小さな声でそう呟いたのは、自分でも気づかないほどの囁きだった。
窓の外を吹く風はやさしく、
しらたまのオレンジ色の髪をひと房、指先に巻きつけて遊んでいた。
湯気立つ紅茶のカップを手に、セリーヌがふと静かに呟いた。
「……こんなあたたかな世界があるこの街は、落ち着きますね」
窓の外では、アロマティアの風がやさしく花を揺らしていた。
「だよね!」
しらたまが、にこりと笑う。
「王都もすごいなって思うけど……やっぱり、アロマティアがいちばん!」
「わかりますわ」
クラリッサが上品にカップを置き、微笑む。
「我が家、ゆくゆくは貴族への復帰を目指しておりますけれど――
それでも、その時にはこの街に別荘を築きたいほどですの」
「ふふっ、ヴァルターなら……きっと許してくれそうだね」
しらたまの言葉に、クラリッサも「ええ、きっと」と優しくうなずいた。
ミーナが大きな声で手を上げる。
「いいな! いいな! 王都、行ってみたーい!」
「ミーナは……一瞬で迷子になりそうだわ」
セリーヌが苦笑を浮かべながら呟くと、陽だまりの中に、くすくすと笑いが咲いた。
風見草亭の午後は、そんなやわらかな会話の中で、ゆっくりと流れていくのだった。
陽が少し傾き始めた頃、領主館の一室では、
紙とインクの匂いが静かに空間を満たしていた。
「……この証言、こっちの記録と微妙に食い違ってるな」
ヴァルターが手元の書類を睨みながら呟く。
「三人称の主語が曖昧すぎる。誰が何を見たのか、きちんと書き直す」
ルーベンはすでに赤いインクで修正を加えていた。
部屋の片隅、書架には香炉がひとつ。
アロマティアの調香師が作った“集中の香”が淡く漂っている。
「……二度目はない」
ヴァルターがふと手を止め、窓の向こう――街の景色を見やる。
遠くには、風見草亭の煙突から、ほのかに昇る湯気が見えた。
「舞台は一度片付いたように見えて、幕裏はまだ騒がしい」
静寂の中、ルーベンがぽつりと漏らした。
「……最近、星の動きがおかしい」
ヴァルターが筆を止めて眉をひそめる。
「おかしい?」
「まるで……“作られた”ような星があるんだ。
自然の流れにない、不自然な星。しかも――禍々しい光を放ってる」
窓の外、青空の奥にあるはずの星に、ヴァルターは無言で思いを馳せた。
「……それは、気をつけた方がいいな。こちらへの影響は?」
「ないとは言いきれない」
ルーベンは書類から顔を上げる。
「しかも、あいつ――しらたまは……巻き込まれやすいからな」
それは、信頼であり、警戒でもあった。
彼女は“風”に導かれるがゆえに、常に世界の流れの只中に立つ。
「そのために僕らがいるんだろ?」
ヴァルターがわずかに笑った。
「今の僕たちは、もはや“勇者一行”と呼ばれてもおかしくはないさ」
「勇者に聖女、魔術師に錬金術師、修道女に……
セリーヌは魔道士ってとこか。完璧だな」
ルーベンも苦笑まじりに肩を竦めた。
ヴァルターはペンをくるりと回しながら、わずかに口元をゆるめる。
「僕らは――いつか“伝説”をつくるのかもしれないよ?」
「……ただひとつ残念なのは、物語で映える“勇者と聖女の結婚”がないことだな」
そう言ったルーベンに、ヴァルターは迷いのない眼差しを向けた。
「ああ、ないね。――彼女の隣は、僕だから」
一瞬、静寂が流れたのち、ルーベンが吹き出す。
「言うじゃないか」
「そのくらい強気でいかないと、彼女には敵わないからね」
書類の山の向こう、ふたりの影が揺れていた。
それは、仲間であり、友であり、そして──支える者たちの決意の影だった。




