第百五話「月明かりと微笑む悪魔」
アロマティアの夜。
収穫祭の飾りが街角に揺れ、淡い月明かりが町を静かに照らしていた。
行商人のテントには焚き火の残り香が漂い、
宿舎ではギフト所持の子どもたちが眠りについていた。
その静寂に、音もなく“影”が忍び寄っていた。
夜風にまぎれるように動く黒衣の影は、
ひとつ、またひとつと、子どもたちの寝所へ近づいていく。
――しかし、それは叶わなかった。
「――ほぁら、暴れるんじゃないわよ♡」
乾いた音が響いたかと思えば、
次の瞬間、闇の中から現れたのはクラウスだった。
しなやかに身をひるがえし、扇を片手に黒衣の男の腕をねじり上げる。
細い指とは思えない力で、完全に動きを封じていた。
「ふふ、夜の蝶を気取ってるつもりかしら?
でも残念、あたくし夜の狩人なの♡」
背後の路地から、環が縄をぶら下げて飛び出してくる。
「そっちはどうだー?」
「大漁よー♡」
クラウスが笑いながら返すと、
環も数人の黒衣をまとめて縛り上げていた。
「ったく、ギフト持ちのガキばっか狙いやがって……どういうつもりだ」
その場へヴァルターが駆けつけ、町の衛兵も後に続く。
「衛兵! こいつらを牢にぶち込め!」
剣を下ろすことなく、ヴァルターは周囲に警戒を向けていた。
「予想はしてたけど……早かったわねぇ」
クラウスが唇を噛む。
そのとき、ふわりと月明かりが陰り、
屋根の上に黒く揺れる影が現れた。
漆黒のローブに身を包み、顔は覆われている。
だが、露出した口元は若く、端正な顔立ちが垣間見えた。
「……我が主への手土産です」
「手土産とは……それはどういう意味かな?」
ヴァルターが声をかけると、男は微かに笑った。
「文字通りですよ、アロマティア子爵。
この子らは、我が主への“捧げもの”にちょうど良い」
「馬鹿言うな!」
環が怒気をにじませた声を上げる。
「なんだよそれ……人をモノ扱いしやがって!」
「あなたの主様は、ギフトの収集家かしら?
成金貴族ではたまに見るわ、奇怪な趣味を持つ連中」
クラウスがあざけるように扇をあおいだ。
しかし男は、表情ひとつ変えずに答えた。
「今日は“ご挨拶”程度のつもりです。
また会いましょう、祈りの者たち――」
月明かりが一瞬揺れたかと思うと、
その姿は黒い霧に包まれ、音もなく消えた。
その消えた余韻に、ヴァルターがそっと目を伏せた。
「……また、風が動き出している」
クラウスはすっと背筋を伸ばし、鋭く言い切る。
「今度は、見逃さないわよ」
――とある国の廃教会。
崩れた天蓋、苔むした柱。
床に散らばる無数の聖書の残骸の上で、蝋燭だけがゆらゆらと揺れていた。
その中心。
黒い玉座にもたれかかるように腰を下ろしていたのは、第五王子ランスーンだった。
銀の器に注がれた葡萄酒をくゆらせながら、満面の笑みで言葉を投げかける。
「やぁ、レイヴン。おかえりー!」
その言葉に応えるように、黒いマントをはためかせてひざまずいたのは――
先ほどアロマティアを襲った男、レイヴン。
漆黒の外套に身を包み、半ば顔を隠したまま、口元には相変わらずの余裕を浮かべていた。
「申し訳ありません、我が主。
やはり……勘付かれてしまいました」
言葉こそ“謝罪”だが、口調に悔いは微塵もない。
むしろ、楽しげに笑いながら報告しているようだった。
「いいよいいよ。いいのさ」
ランスーンは軽やかに応える。
「しらたまちゃんはいずれ手に入れるから~。
逃げたって、もがいたって、壊れないおもちゃなんてないからね」
ランスーンの笑みは純粋だった。
純粋すぎて、どこか歪んでいる。
その横、蝋燭の火に照らされた一人の少女が静かに立っていた。
白い装束に身を包んだその名は、リゾナンス。
冷たく整った声で、淡々と尋ねる。
「……フィオル教への動きは?」
レイヴンは片膝をついたまま、手を胸に当てて答えた。
「守備は恙なく。火種さえ用意すれば、炎上するのは時間の問題です。
“崇拝”と“憎悪”の境界なんて、紙一重ですから」
「そう。そうなんだよねぇ」
ランスーンは椅子を軋ませながら立ち上がると、蝋燭の炎を見つめた。
「人ってね、ちょっとした“火種”さえ用意してあげればいいんだよ。
あとは勝手に――」
ランスーンの顔が、ゆらめく炎に照らされて歪む。
「――まるでおもちゃのように、壊れていくのだからさ」
笑っている。
蝋燭の火に浮かぶその顔は、心底楽しげに“世界の壊し方”を語っていた。




