第九十三話「風の導き、絶望の塔へ」
「なんだ……?」
ユリウスの眉がぴくりと動く。
「これは……地響き……?」
ヴァルターの声が、地面の震えと共鳴する。
そのとき、解放軍が合流してきた。
環が笑顔で声をかける。
「おう、そっちはどうだった!」
だが、アピオスは一言も返さない。
環が怪訝な顔で問い直す。
「どうした……?」
アピオスはうつむき、声を絞り出した。
「……族長たちが皆、自害していた」
「……なんだって?」
ヴァルターの顔色が一変する。
「族長たちだけじゃない。神官たちも……皆、笑顔で逝っていた」
アピオスの目には、理解不能の恐怖が浮かんでいた。
「……まるで、救済でも得たかのような……幸福の、死だった」
その場の空気が、凍りついた。
――そのとき、再び地が唸る。
「……地響きが、まだ続いている」
ユリウスが低く告げる。
アピオスが辺りを見回す。
「地響き……?いや、まさか――」
王都地下――
牢の底から、淡い光が広がり始める。
幾何学のような魔導紋が、禍々しく浮かび上がり、
空気そのものが粘りつくような圧力を持ちはじめた。
それと同時に、地上にも光があふれ出す。
街の至るところに、謎の光の柱が現れた。
市民たちはなお、呪詛にも似た言葉を繰り返し、光の中で動こうともしない。
軍と解放軍はギリギリで光の外縁に退避した。
「なにが……起きてるんだ……」
ヴァルターがつぶやいた。
そして。
“それ”は姿を現した。
人の四肢を、頭部を、身体ごと練り固めたような――
粘土細工のように無数の人間がねじり込まれた、異形の塊。
肉が軋み、関節が不自然に動き、眼球だけが光を宿している。
「悪趣味すぎる……」
ルーベンが青ざめた顔で言う。
環が嘲るように叫ぶ。
「これ考えたやつ、医者に診てもらったほうがいいぜ……マジで!」
ユリウスの顔が強張る。
「フランキンセンス」
「はっ。……おそらく、“アンデッド”の上位種かと」
「対処は可能か」
フランキンセンスは苦い顔で返した。
「最前は尽くしますが……後退の準備もご指示を」
「わかった」
ユリウスは短く頷いた。
――王都中央聖域、かつての塔の最上階。
そこには、囚われの白の聖女・しらたまがいた。
彼女は手錠に繋がれ、窓辺から王都を見下ろしていた。
そして、耳に届いたのは――
下界から響く、地獄のような音。
「そんな……こんなことって……」
唇を噛むしらたまに、背後から軽やかな声が投げかけられた。
「どう? 生きながらにしてキメラにされる人間の魔物。
混沌と絶望が混ざりあって、じつに美しいと思わない?」
そこに立っていたのは、第五王子ランスーン。
その顔は、喜悦に満ちた天使の仮面を被った悪鬼そのものだった。
隣に控えるリゾナンスは、何も言わず、ただ静かに眺めていた。
「しらたまちゃんは、ちゃんと見ててね。
大切な人たちが、君の目の前で消えていく。
その絶望と恐怖――ちゃんと、刻み込んであげるからね」
その“笑顔”には、愛も祈りもなかった。
ただ、壊すことに歓びを覚える、空虚な悪意だけが残っていた。
地響きと悲鳴が入り混じる戦場。
解放軍も、ポリャンナ軍も、キメラの前に為す術なく、ただ動きを鈍らせるのが精一杯だった。
「おい、足元……なんだ、あれ」
環の声に、ルーベンが目を凝らす。
「……酸、だ!高熱の酸が滲み出ている!」
キメラの脚元から泡立ちながら流れるそれは、触れるものすべてを溶かしていく。
泡の弾ける音と同時に、耳をつんざくような叫び声が上がる。
それは、キメラのものか、あるいは取り込まれた者たちのものか――誰にも判別できなかった。
「高温性の酸です!このままでは……!」
バニラが叫ぶ。
「撤退だ」
ユリウスの冷徹な声が戦場を引き締める。
だがその中で、ひとりだけ前を向いたまま立ち止まっている者がいた。
ヴァルターだった。
「……僕は、このまま進む」
「ヴァルター!!無茶だ!!」
セージの声に、ルーベンが続く。
「でも……やるさ。そのために来たんだ」
「おう!俺も行くぜ!」
環が叫ぶ。
「本気か、ヴァルター」
ユリウスの目が、淡く光る。
「僕は、いつだって本気だよ、ユリウス」
しばしの沈黙の後、ユリウスは背後の参謀へ声を投げた。
「フランキンセンス、バニラ――あとどのくらい、もたせられる」
「どんなに引っ張っても30分」
「延長の用意ができれば、プラス30分いけます」
「ヴァルター。――1時間で戻ってこい」
「……ありがとう。行こう、ルーベン、環!」
「おう!」
「ああ!」
王都、中央聖域。
塔の最上階、重厚な扉の奥にしらたまは囚われていた。
「兄ちゃん、危ないっ!! 」
窓から見えた仲間の姿に、しらたまの心が突き動く。
「やあやあ愚かなやつらが来たぞぉ!」
ランスーンが高らかに笑う。
「ねえ、しらたまちゃん、あいつら大事なんでしょ?
だったら、あいつらがいなくなったらどうなると思う……?」
その声は、狂気の中で甘く染まっていた。
一瞬、しらたまの瞳が揺れる。
けれど――
「ならない!!そんなことには、絶対にならない!!」
塔の窓から、声を張り上げる。
「ヴァルター!!ルーベーン!!兄ちゃーん!!」
「聞こえたかい?」
「……ああ、間違いない」
「まだ元気そうだな!」
風を受けながら、三人は空へと駆け上がっていく。
「あの塔の上か」
「遠回りじゃなきゃ行けないのが辛いな」
「なあヴァルター!風でびゅんっ!と飛んでひゅっ!と行くのはどうだ?」
環の冗談めいた提案に、ヴァルターは静かに笑う。
「さすがに……いや、まて」
手元の魔力増幅の腕輪を見る。
「……できるかもしれない」
ランスーンは余裕の笑みを崩さない。
「無駄だよ。塔の下にはアンデッドがぎっしりだ。扉を開いたら“詰み”。即終了なんだよ?」
だが、しらたまは微笑んで言った。
「大丈夫。ヴァルターたちは――絶対に来る!!」
その瞬間、風が、塔を包んだ。
強く、渦を巻きながら天を駆ける旋風が、上空へと舞い上がる。
その風に乗って、三つの影が塔の上空に現れる。
「――迎えに来たよ、しらたま!!」
塔を貫く風は、祈りに応じた“希望”だった。
ついに――再会の時が訪れる。