今、夫が死にかけています。生きるも死ぬも私次第。
『なぜ俺が、こんなしみったれた女なんかと婚姻なんぞ……』
数ヶ月前、そんなことを私に言い放った夫シュウジが──
現在、死の淵に立たされております。
「アヤカ、選び取りなさい。あなたの裁量で、この男の運命が決まります」
羅刹と呼ばれる、私たちの世界で『神』と崇められる存在。
そんなお方が、私に大きな決断を迫るのです。
人生相談をしただけなのに、弱音を吐いただけなのに。
私の旦那は──〝肉体の中から薔薇を生やす羽目〟になりました。
全身に棘を巻き付け、皮膚から次々と花弁が芽吹いてゆくのです。
畳に膝をつき、夫が咳き込むたびに赤色が舞い散る有様。
「聞いてますか? あなたの決断で、この男の肉体は花束となります。花瓶に挿しておくもよし、誰かに贈るのでも良し。それとも、人間のまま、この男と寄り添い続けますか?」
私に問いかける幼い声音は、〈ベニコ〉様とおっしゃる神様です。わずか一〇歳になったばかりの神様が、二〇歳の私〈アヤカ〉に、淡々と問いを重ねるのです。
「あまり悩む必要はないと思うのですが。この男の言の葉が、あなたを傷つけるのであれば、花にしてしまえば良いと思いまして。せめて薔薇であれば、指を切る程度に収まるかと。それとも──」
棘のない花がよろしいでしょうか? と、まるで花屋の店子のような手軽さで、ベニコ様はおっしゃいます。
私は思考が追いつかず、ただただ現状を視界に収めるだけで精一杯。
「た、助ゲデくれッ」
身体の至る所から薔薇の花を生やした旦那が、私に懇願します。
「悪かったッ、俺ガ全て! だから──」
助けて。と、掠れた声が畳を這いました。
そんな旦那を、神様は腕一本で取り押さえ、緩やかに口元を綻ばせておりました。
顔の上半分は白布に覆われているので、神様の細かい表情は窺い知れません。
されど、確実に今、絶命する旦那を見て、赤子を見るような慈愛がそこにありました。
その有様が、あまりに現実離れしていて、私は言葉を取り落とします。
「なぜ……」
なぜこうなったのか──
✿
「学もない婢女が、随分と成り上がったものだな。なあ?」
さかのぼること数ヶ月前──
白無垢に身を包んだ私に、夫シュウジが言ったのは、そんな心無い言葉でした。
祝言の日です。婚姻を結ぼうというめでたい日に、夫が妻の着替えに押し入り、酒の力を借りて惨憺たる言葉を浴びせてくるのです。
「馬鹿な父親の借金を背負って、そのまま売春宿にでも身を落としていれば良いものを」
竜の落とし子を逆さまにしたような形の大和大陸。その広大な土地で、ここまで冷徹な言葉を口にする人間は、自分の夫だけではないかと、私はどうしたって思ってしまいます。
「なぜ俺が、こんなしみったれた女なんかと婚姻なんぞ……勝手に決めやがって……」
シュウジは湯呑みに注いだ酒を煽り、赤い顔で私を下から上へと睥睨。
その視線に歯噛みをし、私は力の無い声を上げます。
「感謝しています……ですからもう……おやめ下さい。酒気に溺れて、そのように辛辣なことをおっしゃるのは」
そんな訴えを聞くと、シュウジは眉尻を吊り上げ、酒の香りと共に怨嗟を吐き散らすのです。
「喜老園の大旦那、その息子であるこの俺、シュウジ様が、これからこんな女と生活するなんざ……」
シュウジの父である大旦那キスケは、商家の大黒柱です。
小さな煎茶専門の小売から始め、商品の保存法や独自の製法を編み出し、商売を拡げに拡げて世にその名を轟かせていらっしゃいます。
喜老園の煎茶を飲めば疝気(下半身の痛み全般)に効き、風呂に浸せばあらゆる皮膚病が治ってしまうのです。
そんな一代で成り上がった大旦那、その息子である夫シュウジは、程度の悪い遊び人でした。
有り余る小遣いを持って遊郭に入り浸り、賭博で転がるサイコロを眺めては酒を煽る日々を送っているのです。
この世は不公平であると、私はどうしたって肩を落とす思いです。
何不自由なく与えられている夫に対して、私は生まれた時から借金を背負っています。
私の父は商いに失敗しました。
呉服屋の大旦那であった私の父は、俗世の流行に振り回されました。
有名な役者が身に纏う狩衣を見れば、あれが流行ると大はしゃぎし、大量の在庫を抱えました。
次はあの花魁の打掛が流行ると見れば、また大量の在庫を抱え、絹の海で溺れて借金を重ねるのです。
そんな商売の仕方をするものだから、あっという間に返済が滞り、父は荒れ果てました。些細なことで母に怒鳴り散らし、酒に溺れる日々を送っておりました。
私が十歳を迎える頃には『家族全員で首を吊るか』という話までこぼれ落ちる始末。
「親父が……妙な情をかけなければ、こんなことには」
私が自分の出生を呪っている最中、シュウジが額を抑えて項垂れております。回った酒気も相まって、頭が痛いのでしょう。
頭が痛いのは私とて同じです。常に酒気を纏っているような夫と共に、これから先、苦楽を共にしなければならないのですから。
幸か不幸か、私は少々の徳を積んでいました。
大旦那が経営する店子として就職し、朝から晩まであくせくと働き、給金を父の借金の返済に充てておりました。
その有様に、大旦那は心を配り、一つ提案を持ちかけてくれました。
『うちの息子と結婚するのはどうだ? 借金も全部こちらが持つ。アヤカさんが熱心に働いてくれるおかげで、うちの売り上げも右肩上がりだ。良く働くし愛嬌も良い。あんたの生き様を見て、うちの息子も改心してくれるに違いない』
そんな大旦那の温情に応えるため、私はシュウジと婚姻を結ぶことを決意しました。
しかし、私の決断の結果は、失敗だったのでしょう。
「ヒナ……俺は嫌だったのだ……」
贔屓にしている花魁でもいるのでしょう。夫は別の女の名前を口にしながら、寝息を立てはじめました。私の名前は一度も口にしたことないのに……。
それでも、今日、この日、私は妻となる身なのです。
私は寝息を立てるシュウジの肩に羽織を乗せて、頭を打たぬようにそっと手を添えて畳の上に寝かせます。
「今だけ、今だけ」
私の口癖です。辛いのは今だけ、耐えなければならないのは今だけであると。
父が酒に酔い、私と母に怒鳴り散らしていたとき、よくこうして耐えておりました。
「大丈夫、大丈夫」
毅然とした心根を持っていれば、容姿に恵まれなくとも良い女にはなれる。
時間をかければ、夫の背筋を正すこともできるかもしれない。
自分が妻として導かなければ。
そんな誓いを立てた、祝言の日でした。
✿
私の願いとは裏腹に、その後の夫婦生活はひどいものでした。
シュウジは私の名を呼ばぬままに日々を過ごし、酒と女と博打に明け暮れました。
帰りは常に遅く、朝帰りも珍しくない。帰ってきたかと思えばやはり不機嫌で、私に当たり散らすか、あるいは虚空に向かって愚痴を吐くばかり。
「お前みたいな女が家にいると、空気が淀むんだよ」
そんな言葉にいちいち心を乱していたら、心が持ちません。
私は、毎日祈るように唱えておりました。
「今だけ。今だけ……」
けれども、そんな祈りは、思わぬ形で返ってきたのです。
「羅刹様が、この町に?」
「そうなんですよ。なんでも凄い力を持っていらっしゃるとか」
祝言の日から半年後のことです。一緒に台所に立ってくれている女中さん(家事手伝い)から、そんな噂を聞きました。
羅刹様──強大な異能力を扱う方を、そう呼びます。
私達が住む大和大陸では、神のごとく崇められている存在です。
はるか昔、大陸全土で大きな戦争があったそうです。当時の権力者達は、戦火に民草を投じ続けて、罪のない人間同士を殺し合せ、多くの血を流させたとか。
そんな愚かな行いに憤怒したのが、羅刹様たちです。異能力を振るい、支配者階級の人間をことごとく殺し尽くし、この世に平穏をもたらした方達であると、教わっております。
昔は『国』という概念があったそうなんですが、羅刹様の治世が始まってから、その概念さえ握り潰されたとか。
「どうやら大旦那が、羅刹様をこの町に招待したとか。もしかしたら、この町の神様になってくれるかもしれませんね」
女中さんが嬉々として、そんなことを言います。
確かに『国』という囲いが無くなった現在、人里を管理し、運営するのが今の羅刹様の在り方です。
強大な異能力を持っている羅刹様が、民草の頂点に君臨してくれるおかげで、人間同士が血を流さずに済み、この世を安寧へと導いてくださる。
なんでも、優れた羅刹様は自然災害さえ跳ね除けてくれるとか。
「長年不在でしたからね。そうなったら良いですね」
私が曖昧に相槌を打つと、女中さんは呆れるように鼻を鳴らします。
「ま、アヤカさんったら。羅刹様が来られるなら、私達が張り切らないといけないんですよ?」
「え、そうなんです?」
「大旦那が招待したのですから、歓待の宴を行うでしょう?」
ああ、失念していました。
そろそろ夫が帰ってくるゆえ、鬱々しい気分になり思考が鈍くなっていました。
宴が行われるなら、その台所に立つのは女の仕事です。
神のごとき羅刹様に、美味しい料理を振る舞わなくてはなりません。
「それは、張り切らないといけま──」
「おいッ、帰ったぞ! 飯は出来てるんだろうなぁ!」
私の言葉の途中、旦那がドタドタと帰宅してまいりました。
賭場で小遣いを溶かしてきたのでしょう。
「……アヤカさん」
溜息を一つ吐いた私の冷えた背に、女中さんが手を当ててくれます。
気を遣わせてしまった、と私は精一杯、口元に笑みを作ります。
「大丈夫ですよ。ご飯をいっぱい食べたら、さっさと出かけてしまいますから」
「無理してませんか? 羅刹様に相談するのも手かも……」
「そんな……羅刹様に家庭の事情を? それは流石に……」
「人の世を安寧に導くのが羅刹様の役割ですよ。話をしてみるくらい」
女中さんの提案に、私は首を振ります。そこまで甘えて良い存在ではないはずです。
ただ、もし話ができる機会があるなら──
「羅刹様のお名前は?」
「ベニコ様とおっしゃるようです」
「なんとも雅な響きですね」
「持ってるお力がとにかく凄いのだそうです。どんな病も治療できる上、手の平からあらゆる生物を産み出せるらしいですよ」
「まあ……それはまさに、神のごときお方ですね」
私は口から感嘆を漏らします。なんと頼り甲斐のある方なんでしょうか。
しかも同じ女性であるということは、私の話を滑らかに聞いてくれるかも。
そんな淡い期待が私の胸に灯りました。
✿
数日後のことです。町の喧騒はいつもより慌ただしく、皆が町の入り口に立ち、今か今かと羅刹様の到着を待っておりました。
「来たぞ!」
誰かがそう叫びと、一斉に歓声が打ち上がります。
皆が人垣の中、羅刹様を一目見ようと爪先立ちで街道の先を見つめております。
私も必死にぴょんと跳躍し、人の頭の波の中、その御姿をなんとか捉えました。
羅刹様こと、ベニコ様。
その御姿は──子供でした。
幼い、あまりに幼い神様です。
両脇に従者の方を引き連れるその御姿は、あまりに小さい有様。
年齢は一〇歳ほどでしょうか。死装束のような白い着物を召し、顔の上半分にも白い布を纏っておいでです。
不思議な出立ですが、そのほのかに輝く艶やかな黒髪と相まって、何処か神秘的で幽玄な、この世ならざる風格を纏ってらっしゃる。
ただ、少しだけ、ほんの少しだけ、私は落胆してしまいました。
さぞ頼り甲斐のある大人の女性であると、身勝手な期待を抱いていたのです。
「平伏をッ、羅刹様への歓待は平伏をするのが習わしだ!」
優雅に町に向かって来られる羅刹様を見届け、大旦那が慌てて、町の者に声をかけます。
これはいけない、私も人垣と共に移動し、町の大通りで膝をつき平伏の形を取りました。
そうしてしばらく、頭を垂れて待っていると。
カランコロン。心地良い下駄の音が頭の上に降り注ぎます。
顔を上げてちらりと見ても良いものかと、私が心で彷徨わせていると、
下駄の音が、私の頭の前で止まり、
「そこの者、面を──」
上げてください。突然、そう声がかけられる。
幼くも、胸に流れる透き通るような声音に、私がそっと頭を上げると。
目の前で、羅刹様が膝を折って屈んでいたのです。
「良い日和です。良い縁が起きました」
羅刹様は優雅に口元を綻ばせ、顔を上げた私の頬に手を添えました。
「脈動が弱い。心労によるものでしょうか? 食事は出来ていますか?」
思考が追いつきません。困惑の極みです。
神のごとき存在に話しかけられたと思ったら、お医者さんのようなことを言われました。
「い、いえ……ここのところ食が細いかもしれません」
大いに動揺して私がそう口にすると、ベニコ様は私の肩にゆっくりと手を添えるのです。
「肩が左にやや傾いています。自分の感情の把握より、他者の感情が流れ込みやすい体質ですね。もっと自分の内面を外へ表現することで、胃の動きが戻るやもしれません。元々の意思が強く、瞳の色もしっかりしている。環境を整えれば、背中もまっすぐ立つでしょうね」
「え、え……」
あまりにも唐突告げられた言葉の濁流に、私は戸惑いを隠せません。
子供であると先ほどは落胆しましたが、私の内面を察するようなその言動に、私はすっかり蕩かされておりました。
「背を曲げれば悩みの種に水をやり、背を立てれば健全な心が芽吹きます」
そう、緩やかに言って、ベニコ様が立ち上がりかけたとき。
私はつい、
「ベニコ様には、悩みの種はございますか?」
なぜだか、そんなことが聞きたくなり、気がついたら口から溢れておりました。
神として崇められている羅刹様に、悩みがあるのか。
幼い頃からの疑問が、まろび出てしまった次第です。
その問いはあまりに不敬かもしれないと、少し間を置いてから気が付き、
「あ……申し訳ございません」
謝り、頭を下げようとしたところ。ベニコ様の手がそれを遮りました。
「面白いことを聞きますね。聞かれたことがないことを──」
聞いてくれるんですね。
そうおっしゃられ、ベニコ様はゆっくり立ち上がりました。そして、優雅に大通りを歩かれ、その背中は街道の角を曲がって見えなくなってしまいました。
「凄いですね。羅刹様がアヤカさんの前で足を止めるなんて」
後に、走り寄ってくれた女中さんがそんな感激を口にしました。
確かに、凄いことが起こったと、私自身も呆気に取られております。
ベニコ様に触れられてから、体が不思議と暖かいのです。
いつも手足が冷え切っていたのに、風呂に浸かった直後のような温みがある。
異能の力を私に振るって下さったのでしょうか。こんな気分が高鳴るのは、生まれて初めてかもしれません。
✿
ところ変わって、大旦那のお屋敷。
そこの台所で、私と女中さん達は大量の料理に溺れておりました。
神を招く宴に、大旦那も浮き足立っておいでで。
「酒は出してはならんぞッ、羅刹様は現実を歪めてしまう酒を、戒めておられるからな!」
女達が料理に奮闘する中、大旦那は都度、台所に顔を出しては去って行きます。
それもそうですよね。ベニコ様にこの町を治めて頂ければ、皆が病に困らない生涯を送れるのですから。なんとかご機嫌を取らなければなりません。
しかし、今宵、酒を禁止されているとなると……。
私が仕上がった料理を運ぶ際、厠に立った夫と廊下でばったり遭遇しました。
「チッ」
今日は特段、機嫌が悪い。本日限定の禁酒を恨めしく思ってるでしょう。
「どけ」
夫はわざと私の肩に強く当たり、私を跳ね除けて廊下の向こう側へ。
「今だけ、今だけ……」
お盆に乗せた料理がわずかに溢れてしまいました。
台所へ戻って変えを用意しようと私が足を反転させると──
「あら、先ほどの」
そう、声がかけられる。
声のした方向は屋敷の庭──その広い空間に。
主賓であるベニコ様が、いつの間にか、たったお一人で佇んでおられました。
こちらを向いて、首を傾げておいでです。
私は慌てて、その場で平伏しようと膝を折りかけると、ベニコ様が手を掲げて制止を促されました。
「この家の者だったのですね」
「は、はい……大旦那キスケの息子であるシュウジの妻でして……。それより、ベニコ様は何を? お食事をなさらないのですか?」
「宴は苦手です。絹を着せた言の葉が飛び交いますからね。過剰に機嫌を伺われるのは、こちらも神経が擦り減る。それに──」
退屈です。そうおっしゃられる。
美しい言葉の中に、確かな幼さがあって、少し私は安堵してしまいました。
超常の力を扱う羅刹様であっても、大人の中に放り込まれれば、子供らしく退屈するんだなと。
「名は?」
「アヤカと申します」
「では、アヤカこちらへ」
私はお盆を置き、ベニコ様の手招きに従って庭へ降りました。
「秘すれば花と申しますが、ただ秘匿した思いに質量はありません」
歩み寄った私に、唐突にそんな言葉を注がれました。
「花咲く夜を待つは長い。耐え忍ぶ夜にも美しさがあると思いますが、程度というものがございますよ?」
先ほどの、シュウジが私の肩にぶつかったのを見られてしまったようです。
そのわずかな間の、私たち夫婦の関係を察して、言葉をくれているのでしょう。
「秘した花をいずれ咲かさなければ、あなたはいずれ枯れてしまいます」
ちくりと胸が痛みます。羅刹様といえど、ベニコ様のご年齢は十歳ほど。
そんな幼いベニコ様に、ここまでの言葉を吐かせるほどに気を遣わせてしまった。
「申し訳ございません、お見苦しいところをお見せしました」
私は恥入り、頭を垂れました。
すると、その肩にベニコ様の手が優しく添えられるのです。
なんだかその手の温もりに、目頭が熱くなりまして、
「夫の生き様を正すのは妻の役目であると、私なりに過ごしてみたのですが──」
弱音を、滑らかにこぼしてしまいました。
十歳の子供に、大人のドロっとした事情を聞かせるなんてことは、通常であればおかしい話です。されど、ベニコ様は私のこれまでの話を、暖かく促してくれるのです。
「……なるほど。よく話してくれましたね」
それが、すべてを語り終えた私に対する、ベニコ様の最初のお言葉でした。
風がそよぎ、夜の匂いがわずかに鼻先を掠める。宴の賑わいとは隔絶されたこの静かな庭先で、私は自分の胸の奥に仕舞っていたものを、すべて吐き出してしまいました。
「お恥ずかしい話です。幼いベニコ様に、穢れた身の上話を……」
「どれほど年若くとも、羅刹は人々の安寧のために存在するもの。遠慮など無用です。それに、私が強引に聞き出したようなものですから」
ベニコ様はそうおっしゃり、まるで花に触れるように、私の手の甲を撫でました。
「借金の支払い、その代わりに婚姻を。後に、夫の堕落を正す道を選びましたか……」
私の話を深く咀嚼するように、ベニコ様は頷きます。
「自分を高く見積もってくれた大旦那の期待に応えたい。そして、妻としての矜持、愛情のない生活。……借金なき今、夫と別れない理由はないというのに。不義理であると考えていますか?」
「はい……それもあるのですが……」
私は、言葉に窮しました。確かに大旦那への義理を果たすため、シュウジを立ち直らせたいという気持ちもありますが、自分でもはっきりと整理できない、考えようとすると鉛のように頭が重くなるものがありました。
「あなたの中に、父親の影が潜んでますね。借金苦に堕落してゆく父親と、夫シュウジを重ねている。愛すべき家族が、信頼できない者へ変貌してゆく。その過去の痛みを拭うため、自分の力で道を踏み外した身内を救おうとしているのですね」
自分でも不明瞭だった心根を、こうまではっきりと言葉にされる。
本当に十歳なのでしょうか。私は驚愕して、口元に手を添えてしまいます。
ベニコ様が音に乗せると、胸につっかえた気持ちの正体に光が当たり、私はただただ頷いて、喉を詰まらせました。
借金に苦しんだ父と、何不自由なく育った横暴な夫は、荒れた結果は同じですが、その過程が違う。それをわかっていても、どうしても重ねてしまう。
そしてもう一つ──今の状況で、もっとも強く重なるものがありました。
「あなたは、あの頃の母親でもあるのですね」
ベニコ様の打ち込むような声音に、胸が強く脈打ちました。
「怒鳴る父に対し、ただ怯える母を見て、あなたは『ああなってはならない』という想いを抱えてきた。そして今、あなたは同じ場所に立っている」
そうなのでしょう。心の奥底で、認められてはいませんでした。
「……堕落してゆく父に向けて、母は静かに、ただ静かに悲しそうな顔を向けるだけでした。そんな在り方を、私は憎んでいました。なぜ、もっと言葉を尽くさないのかと」
私が歯噛みして言うと、ベニコ様はしっとりと微笑まれるのです。
「あなたの見えないところで、尽力していたのかもしれませんね。ひっそりと、木陰に咲く花もありますから」
剥がれてゆく。私の心に蓄積した、硬い何かが。
「母は、弱い人じゃなかった……言い返す言葉は無くとも、ずっとそこに……いました。逃げることもできたのに、ずっと、家族を捨てずに……」
「アヤカ、あなたもね。その強さを、ちゃんと継承していますよ」
胸に波紋のように拡がるその言葉に、私の頬に落涙が伝う。
すると、ベニコ様は足の爪先を立て一生懸命に手を伸ばし、私の額を撫でるのです。
「よくできました。あなたの美しき心、確かにこのベニコが見届けました」
言われた途端、私は膝から崩れ折れ、その場に尻をつけました。
神様だ。間違いなく、眼前に佇む幼女は、神様に他ならない。
背中が、手足が熱い。心臓が喧しいほどに打ち鳴らされている。
私にとって、圧倒的な救いの言葉です。
ひっそりと咲かせてきた思いが、誰かに認められる。
その安堵感で、このまま、なんだか、脱皮してしまいそうで。
「ああ……ああ……」
しとしとと、子供のように泣きじゃくる私の頭を、ベニコ様がゆったりと撫でる。
その手つきがあまりに優しいものだから、殊更に涙が止まらず──
✿
茫然自失。今の私はそんな状態です。
二〇年間蓄積してきた雪が溶けて水となり、大きな川へと流れ落ちる。
それほどに泣いて泣いて、泣きじゃくってしまいました。
どれほど時が経ったのでしょう。もう一粒も流れないというほど流し切って、顔を上げた頃には、鈴虫がリンっと鳴いていました。
そして間もなく、最後まで見届けてくれたベニコ様は、「ふふっ」と肩を揺らして。
「薬を与えましたから、次は〝毒〟を──」
流してみましょうか。ぽつりと、聞こえるか聞こえないか。
虫の音に消え入りそうな低声で、さらりと呟きました。
「ベニコ……様……?」
刃物のような鋭さを帯びる言葉に、私がハッとして顔を上げると、
「行きましょうか、アヤカ。花を咲かせに」
そうおっしゃられ、私の手を強く引くのです。
子供と思えぬ力強さに、私はたたらを踏んでしまいます。
「ベニコ様!? どちらに!?」
「宴会場です。大事な話をしなくてはね」
その足はさっさと屋敷の中へと上がり、颯爽と廊下を進まれます。
廊下の突き当たり、一人の男性が片膝を立てて控えておりました。
年は二〇ほど、私と同くらいの年齢でしょうか。たくましい顔つきの中に、燃えるような瞳を収める、どこか近寄りがたい風格の男性です。
確か、ベニコ様の従者のお一人だったかと。
「ベニコ様、もうよろしいので?」
私たちの姿を見るなり、そうおっしゃられる。
「はい、もう大丈夫ですよ。共に戻りましょうか、セイシロウ」
「かしこまりました」
ベニコ様の音頭に従い、セイシロウ様が私の後ろを追従します。
そういえば、私が泣いている間、誰も訪れはしませんでした。セイシロウ様が人払いをしてくれていたのでしょうか。
後ろを歩くセイシロウ様が、私の泣き腫らした顔を見るや、背中に手を添えてくれるのです。そして──
「ここからが踏ん張りどころですよ」
そんなことを耳打ちされました。
「ベニコ様は、魂を問われる神です。どうか、ご自分のなさりたいように」
温かい手の感触と共に、励ますような言の葉。
されど、どこか、嫌な予感を湧き立たせました。
✿
宴会場の入り口、その襖をベニコ様は滑らかに開け放ちます。
室内にずらりと居並ぶのは、この町の重役の方々と、大旦那と夫シュウジ。
皆が背筋を伸ばし、正座して神の帰還を待っていたようです。
「ベニコ様ッ、おかえりなさいませ! いやいや、心配しましたぞ」
大旦那がにっこり笑顔を浮かべ、揉み手でベニコ様を上座へ誘います。
これほどに堅苦しい場ですから、私は端っこに座ろうと足を向けると、握られたベニコ様の手が離れず、そのままあれよあれよと、私を引き連れて上座に座られるのです。
「おや、アヤカさんを気に入られましたか?」
大旦那が嬉しそうに聞くと、
「はい。なかなか見応えのある花でしたから」
口元を緩めて、ベニコ様がそうおっしゃられる。
それに、気に食わないとばかりに眉を寄せたのは、夫でした。
「なぜ……あんな女が……」
心底、私が嫌いなのでしょう。夫の視線に、私はただ溜息を吐きます。
心の殻を破られた今、気分の下降はありませんでした。
先ほど一生分、泣きじゃくりましたから、どこか俯瞰した視点で夫を観察できます。
「さて、皆に重要な話をしなければなりません」
ベニコ様が言うと、皆が顔に緊張を浮かべます。
「決めました。私、この村の神の座に、座ってみようかと思いまして」
そう告げると、室内は割れんばかりの歓声が響き渡ります。
「なんとッ、この町に神がッ!」
「これはめでたいッ、ベニコ様のお力があれば、誰も病にならずに済む!」
「こうしちゃいられねえ、町の者すべてに報せなくては!」
この世の春とばかりに盛り上がって、数人が町の外へと報せるために立ち上がりかけると、ベニコ様は片手で静聴を促しました。
「もちろん、条件があります」
一言、その前置きに、皆が口を閉じて居住まいを正しました。
その最中、夫シュウジはだらしなく背を曲げ、退屈そうな顔をしています。さっさと賭博か遊郭へ赴きたいのでしょう。
「私が治める人里であるならば、飲酒を一切禁じようと思います」
そう、ベニコ様がおっしゃられると、シュウジの口から「は?」と怒気が混じる短い吐息。
周囲の反応も戸惑いの一色です。
「人の心を乱すものは、いずれ争いの種となりますから。まずは、それを断ち切ってみましょうか」
どよめく男たち、皆が口々に疑問符を呟いていらっしゃいます。
されど、それらの反応を見ても、ベニコ様は淡々と続けられる。
「この規則を破った者に、流血を伴う罰則を与えます」
恐ろしいことを口にしました。
「どんな罰にしましょうか。酒を飲んだ量に応じて血を流してもらいましょうか」
まるで夕飯の献立を考えるような、気軽な声音です。
「気をつけてくださいね。人間は一升瓶一本分の血液を流せば死に至りますからね。運よく止血が間に合えば、助かる目もわずかにありますが。まあ……内臓と精神に後遺症は残ってしまうやも。それで良いならお飲みになって下さい」
そして、まるで他人事のような、突き放す響きを打ち込まれる。
「酒をですか……? 流血……? それは少々……」
大旦那が代表して、恐る恐る抗議を漏らします。
確かに、苛烈にして容赦のない条件です。この町には酒蔵もございますし、遊郭に居酒屋もございます。酒を禁ずるとなると、娯楽の大部分が成り立たず、町の収益の大部分も見込めなくなります。
「厳しいですか?」
「はい、流石に。酒はご勘弁願いたい。外からも娯楽を目的に訪れる方がもいらっしゃるので……この町の経営が成り立たなくなってしまいます」
大旦那が額に汗して頭を垂れると、ベニコ様は思いついたように手を叩き、
「では、血を流すのはよろしくないと言うことであれば、目玉を抉りましょう」
更に、苛烈な罰を提示されました。
「死に至るのは流石にやりすぎでしたね。目玉はなくとも酒は飲めますから、存分に楽しまれるとよろしいかと」
幼子から漏れる酷い言葉の数々に、皆が戦慄し、瞠目しました。
その中でも一際、顔を青ざめさせている、我が夫シュウジ。
酒と女遊びが彼の生き甲斐ですから、それを同時に奪われるようなものでしょう。
ちなみに私は……正直、ありがたいと思ってしまいます。酒に酔った父やシュウジの振る舞いに苦しんだ人生です。酒などない方が良いとさえ思って生きてきましたし。
「しばらく、お考えになってくださいませ」
ベニコ様が言うと、耳に痛いほどの沈黙が辺りを支配しました。
すると、静観していたお偉方が、流石にと口を開きました。
「いやいや、ベニコ様。あまりお戯れを申されるのは困ります」
「そうですぞ。あなた様はまだ幼い。ゆえにわからないのでしょうが……」
「そんなことはまかり通りませんし、そんなことできないでしょう?」
子供の戯れであると、声を揃えてヘラヘラと肩を揺らすお偉方。
それに便乗するように、夫シュウジも声を上げました。
「そうだ! 無茶を言うもんじゃないぞ!」
そして、意気揚々と立ち上がり、ずいずいと私の元まで歩いてきます。
「さっきから、ずっとおかしいと思ってたんだ。この女がベニコ様に張り付いて、何か吹き込んだに決まってる!」
そんなことを吐き散らし、私の腕を強引に取って、まるで『罪人を捕らえた』とでも言うように、お偉方を煽るのです。
「こいつの入れ知恵だ! ベニコ様を騙すような真似をして、ひどい女だ! 酒を嗜むこの俺の、ありもしない悪口を吹聴したのだろう!」
「そんなことは──ッ」
声を荒げて反論しかけた私から視線を切り、シュウジは嘲笑を浮かべてお偉方に訴えるのです。
「なあ? この女はダメだ。俺は散々と見てきたよ、こいつは親父を謀って金をせびり、俺と婚姻を結ばせて贅沢三昧をしてるのだ」
ひどいものだろう? と、シュウジの蛇のような声音が床を這いました。
その態度に腹を煮やしてくれたのは、大旦那でした。
「シュウジッ、アヤカさんになんてことを言うんだ! 俺からアヤカさんに話を持ちかけたのだぞ! 人を騙すような娘ではない!」
「それが騙されていると言うのだッ、騙されていると自覚しながら騙されてる奴はいない! なあ、親父頼むよ。正気に戻ってくれよ」
シュウジは、どこぞの役者のように芝居がかった所作で両手を広げ、噴火した大旦那の両肩に手を乗せます。
「おかしいと思わないか? ベニコ様が流血だの目玉だの言い出したのは、この女を連れてきてからなんだぞ! そう思わないか!?」
皆さん! と、次にはお偉方に向き直り、浮ついた声音で尋ねる。
すると、シュウジの調子に乗せられた面々が口々に言うのです。
「確かに、おかしいとは思いましたな」
「そうだ。妙な話の流れになったのは、アヤカさんが来てからだな」
「よろしくありませんぞ。ベニコ様に何を流し込まれたのか」
そう口にされた方々の顔を見て、私は瞬時に悟ります。
なるほど、シュウジと共に盃を傾け合う面々です。何かキッカケがあったら息を合わようと、密約を交わしていたのでしょう。
「ほら、皆もそう言っている。ここから出ていけ。この町からもな」
言いながら、むんずと私の腕を引いて強引に立たせるのです。
流石に私も我慢の限界です。だから、弾かれるように声を上げておりました。
「今おっしゃったことはッ、すべてあなたがやってることではないですか!」
決死の覚悟で上げた叫声は、雪崩のように崩れて転がるのです。
「酒に溺れ、博打に溺れ、女に溺れて贅沢三昧! 挙げ句の果て、店の売上から小遣いをくすねている! 知ってるんですッ、あなたが喜老園の帳簿を改竄してることを!」
妻であるから、夫の立場を守るために黙っておりました。女中さんにも、ベニコ様にも打ち明けることを憚っておりました。
されど、妻としての矜持が堰き止めていたものが、もう完全に決壊してしまいました。
「そうですよね? 酒、博打、女。毎日のように自分の裁量を超えた金銭を注ぎ込んでいるのですから、早々に小遣いは溶けてしまう。何処から補充してるのかと思えば、大切なお店の売上からくすねていたんです!」
その狂った行いを、咎めたこともあります。なんとか止めるように促し、懇願しても、煩わしいとばかりに手を払われるばかりでした。
「私との婚姻を利用しているのは、あなたの方です!」
夫には、逃げ場がありました。喜老園を一代で築き上げた名商人──町の経済を支える大旦那の息子という壁。さらに私との婚姻という体裁。その二重の外面が、彼に「まともな人物」という影を与えていました。
私の身にもそんな風潮が刻まれておりました。『男とは家庭を持てばいずれ改心するもの』という古い観念に囚われていたのです。
「い、言いがかりだ!」
夫が喚いたその声は、もはや空気を震わせる力を持ってはいません。
皆が絶句して、私たちを一点に見つめるばかり。大旦那でさえ、耳にした夫の罪に、唖然としてかたまっておりました。
「みんな、この女に騙されるなッ!」
そう促すも、誰の耳にも響かず。
静まり返った座敷に、ただ、ベニコ様のため息だけが響きました。
「なるほど」
たった一言。幼い声音が軽蔑するように注がれる。
ベニコ様は襟を静かに整えると、ゆるりと顔を上げました。
「証拠は?」
「は? 証拠……?」
「あなたは『言いがかりだ』と言いました。ならば、アヤカが虚偽を述べている証拠を、ここにお示しなさい。できないのであれば、それはあなたの罪の証明となります」
「この女が勝手に言ってることに証拠なんて──」
「店の帳簿を見れば一目瞭然では? 捌いた商品の数と、売上を照らし合わせればよろしいかと」
その声音は、柔らかくも刃のようでした。
室内に漂っていた静寂が、更に凍りつき、お偉方たちが目を逸らし、大旦那は憤怒の形相を浮かべるのです。
周囲を見渡し、顔を引きつらせるシュウジに対して、ベニコ様は退屈そうに言います。
「不都合がなければ、今から帳簿を取ってきてもらいましょう。お願いします、セイシロウ」
「はい。承ります」
短く返答し、そそくさと外へと駆け出すセイシロウ様。
その背中に、ベニコ様は呆れたように声をかけます。
「あなた一人で行って、店の場所がわかりますか? アヤカを連れて行くのです。夜道は危ないから、あなたはその護衛です」
「察しが悪く申し訳ありません……アヤカ殿、お願いしてよろしいですか?」
お顔に似合わず、おっちょこちょいなところがあるのでしょうか。
気まずそうに微笑まれて、セイシロウ様は私に手を差し伸べます。
が、しかし──
「お前のせいで……」
私の腕を掴んでいた夫シュウジが、私の身を強く引き寄せる。
「お前が余計なことを言わなければッ」
「返す刀がないと思いましたか? 全部ッ、身から出た錆ではありませんか!」
夫の滲むような怨嗟に、私は怒声で打ち返しました。
温情をかけてくれた大旦那を傷つけたくないから、私は夫の罪を告げ口してきませんでした。されど、もうおしまいです。調子に乗って自身を追い込むような真似をしたのは、夫なのですから。
「全部、全部ッ、自分の行いが、自分に返ってきただけです! 私に責を問うなど、お門違いも甚だしい!」
「貴様ぁああ! よくも!」
雷に打たれた樹木から炎が上がるように、夫は弾かれたように激怒し、片腕を振り上げました。
力いっぱい、私の頬に平手を張られる。
そう思った瞬間──
「まあ、こういう手合いはわかりやすい」
私と夫の肉体の間に、いつの間にかベニコ様は身を滑らせておりました。
そして、手を振り上げる夫の胸に手をかざして、
「咲き誇りなさい」
一言、その一言が落ちた直後。
夫の胸元から一輪の薔薇が顔を出しました。
「へ……?」
間の抜けた声を漏らし、夫は自身の肉体を見下ろします。
「あ、あ、あ……」
夫の短い呼気に合わせて、薔薇は皮膚を突き破り、鮮血を滴らせ、燃えるような紅の花弁が拡がってゆくのです。
赤々と、夫の口から止めどなく血液が溢れて、ドボドボと畳にも赤く花を咲かせるのです。
「アヤカ殿ッ」
その異様な光景に、私が瞠目してかたまっていると、セイシロウ様が私を引き寄せ、夫が散らす血糊がかからぬように私の身を庇ってくれます。
「あまり良い色とは言えませんね。お酒の飲みすぎでしょうか。赤に濁りが混じっていますね」
ベニコ様は言いながら、夫の頭を押さえつけ、犬を躾けるようにその場に座らせる。すると、胸だけでなく、次から次へと夫の肉体から薔薇の花が顔を出し、荊棘を絡ませて肉体を締め上げてゆくのです。
「いでエッ やめてグデぇ!」
肉が裂けてゆく音と共に、吹き付けるような返り血が畳に散ってゆく。
その最中、ベニコ様はゆるりと微笑まれておりました。
「はるか昔、我ら羅刹の祖先は、人々から戦争という行為を取り上げております。それから、人々を平穏に導くため、神としての役割を担い、秩序の糸で乱世を収束させました。ですので──」
言いさし、ベニコ様は夫の背後に回り、薔薇の花を一輪摘まれました。
「私の前で暴力を振るうとなると、少し話は違ってきます。世を乱す行為を見過ごすわけにはいきませんから」
手に持った薔薇の一輪を、ベニコ様は緩やかに、絶句する大旦那に手向けます。
「偉いですね、キスケ。私の動きを察して息子を窘めなかった。息子の本性を引き摺り出そうとする私に、恩情を求めることもできたのにね」
私はハッとします。怒りのあまり忘れていましたが、大旦那は目の前で行われた息子の暴走を、強く止めてはいませんでした。
その答え合わせとばかりに、大旦那が口を開きます。
「最早……あなた様がされることに……言葉は無意味と……承知していますから……息子がアヤカさんに狂行を振るった際……ただ馬鹿なことはするなと、祈るばかりでした」
「良い良い。わかっていますね。わずかな間だけ、私の従者であったのですから。痛いほど身に染みておりますか」
「はい……」
初耳でした。大旦那がベニコ様の従者だった?
誰からも、そんな噂の欠片さえ聞いたことはありません。
「ですがッ、どうか、どうかお情けをッ、愚かな息子の命をお救いください!」
そう、大旦那が必死に畳に頭をこすり付ける。
それを見つめるベニコ様は──
「ふふふふっ」
笑っておいででした。その声音は、嘲りとも蔑みとも違う。
まるで、息子の成長を間近に見て、つい笑みが溢れた。そんな母性があるのです。
それがいっそ、恐怖と戦慄を呼び起こします。倫理観や価値観が人間とは決定的に異なる、人智が及ばぬ神であると、まざまざと知らしめるようで。
「ここまで、あなたは良い子にしてくれていたのですから、少しばかり考えてみましょうか」
そして、大旦那の肩に優しく振れるのです。
「そこらにいる者を連れて退出なさい。私はアヤカとシュウジとお話をしますから」
「承り……ました……」
決意するように頷き、大旦那とお偉方はぞろぞろと部屋を出てゆかれます。
その最後、襖を閉めるときに、私と大旦那は目が合いました。
互いに申し訳ないとばかりに、潤んだ瞳の交換。その心の交流が、胸を締め付けます。
大旦那はずっと、私を高く評価し、労わってくれました。
それがこんな結果となった申し訳なさを、互いに抱えていたのでしょう。
「さて、アヤカ」
ベニコ様が水を向けると、セイシロウ様が私の背中を押して前へと進ませるのです。
「あなたに、この男の命を委ねようかと思いまして」
そう告げられ、ベニコ様はシュウジの頭を掴み、私の方へ向けさせました。
「あなたの決断で、この男は薔薇の花束に変わります。あなたが決めなさい」
生かすか、花とするか。ベニコ様はそんな命運を私に提示されます。
「助けて……おデがッ……悪かったかラ……」
肉体の中から花を生やすというのは、想像を絶するほど痛いのでしょう。
夫は息も絶え絶えに涙を垂らし、ただただ力の無い謝罪を落とすばかり。
見るに耐え難い惨劇です。直視すると、気を失いそうな光景であります。
「聞いてますか? あなたの決断で、この男の肉体は花束となります。花瓶に差しておくもよし、誰かに贈るのでも良し。それとも、人間のまま、この男と寄り添い続けますか?」
改めて問われて、私は必死に思考を回します。
シュウジに対しての煮えたぎるような怒りは、今もなお私の中に燻っております。
されど、こうして夫が風前の灯火となると、どうして大旦那の悲しむ顔がチラついてしまいます。
「あまり悩む必要はないと思うのですが。この男の言の葉が、あなたを傷つけるのであれば、花にしてしまえば良いと思いまして。せめて薔薇であれば、指を切る程度に収まるかと。それとも、棘のない花がよろしいでしょうか?
そんなことを淡々とおっしゃるベニコ様に、私は居住まいを正して向き直ります。
「ベニコ様……ありがたく思います。私の心を救いとってくれた上に、夫の愚行から守って頂き、深く感謝しております。ですが……そのなさりようは……」
「ほう……」
そう、ベニコ様が一息吐くと、夫の生やした薔薇からぽたりと血が一滴したたり落ちました。
「他者の感情を気にかけていますね。キスケのために、私を止めますか? 己の欲望を問いなさい。あまり──」
がっかりさせないでくださいね。そんなことを私に厳しく言い放つのです。
焦燥がみぞおちから這い上がり、私の手が勝手に震えてしまいます。
セイシロウ様が『ベニコ様は魂を問う神』とおっしゃられた理由がよくわかりました。
私の心の奥底に問いかけているのです。他者の願望を抱えて結論を述べることを、決して許してくれないのでしょう。
「もしや、己の立場を気にしていますか? 夫が花となれば、この町に身の置き所がないと?」
「それは……」
思い至りませんでした。自分の身より、大旦那への気持ちにしか、私は傾いていませんでした。確かに、この状況、ベニコ様が夫を花に変えてしまえば、私がそうするように促したことになるのでしょうか。
ただ、私は間が抜けてるのでしょう。あまりその思考を突き詰めようとは思えません。
「考えもしなかった、という顔でしょうか。他者の期待に応えるばかりが、あなたの人生ではないでしょう?」
私に表情を読み取って、ベニコ様が諭すようにおっしゃる。
「安心しなさい。この町が嫌なら、あなたが幸福に暮らせる土地へ送り届けますよ」
「……え?」
「ここよりはるか南に温泉地があります。あなたは体温が上がりにくい体質ですからね。そこで余生を過ごせば、心身ともに健康体でいられるかと」
こんな状況で、喜べば良いのかよくわかりませんでした。
目の前で起こっていることが、あまりにも現実離れしていて。
「あまり時間をかけても苦しめるだけです。数を数えましょうか」
シュウジの憔悴する様子を見て、ベニコ様は私を急かします。
五、四、三、と数えられ、私は慌てふためき、咄嗟に膝をついて声を上げていました。
「お、お待ちください、ベニコ様! 最後に……最後に一つだけ、夫と対話してもよろしいでしょうか? それを聞いた上で、私は選びますから」
私の申し出に、場の空気がわずかに揺れました。
幼い神様は、ただ静かに頷くのです。
「よろしいでしょう。ですが、それがあなたの決断を歪める理由とするなら──」
「わ、わかりました。決して、判断材料には致しません。自分の後学のために、聞いておきたいと思います」
「よろしい」
「……ありがとうございます」
私は少しだけ安堵して、薔薇の花に彩られた夫に声をかけます。
「シュウジさん……どうして、あんなにも私を……家を……傷つけたのですか? 本当の気持ちを、聞かせてください……」
問うと、夫はか細い呼吸の中、朦朧とした目をこちらに向けます。
もはや気力も尽きかけているのか、それでも、わずかに唇を震わせて首肯しました。
「……俺は……俺は、嫌だったんだよ……こんな家も……親父も……一生懸命なあんたも……全部……ゴホッ」
しわがれた声が、吐血と共にか細く畳に落ちる。
「……小さい頃から……ずっと、言い聞かされてきた……お前は跡取りになるんだって……商売を覚えろって……親父の言いなりになる人生なんて……地獄だった……」
震える声。涙が、赤く咲いた薔薇の花弁を濡らす。
「だから……少しでも、親父に仕返しがしたかった……俺の将来の選択を勝手に決めたくせに……小遣いだけやって自由を与えているような顔をして……店の金を抜いたのは……そうだ……全部、俺だ……。だけど……俺だって……ッ、俺だってッ……苦しかったんだぁ!」
そこまで言うと、夫は痛ましく咳き込み、花びらを一枚はらりと床に落としました。
「……あんたのことが……妬ましかった……親の借金背負って……懸命に働いて……輝いてて……親父に大切にされてて……気持ち悪かった……」
その告白を、ベニコ様はじっと見つめて、
「……なるほど。そういうことでしたか」
幼い声音が、しとりと冷たく注がれます。
「あなたの抱えていたものは、確かに重かったのでしょう。しかし、それは、あなたが他者を傷つけて良い理由になると?」
ベニコ様は、わずかに身を屈め、薔薇の絡む夫の顔に手を添えます。
「あなたは生まれに甘んじたのでしょう? 父親の言うことを聞いていれば、賭博に女に酒と、贅沢の限りを尽くせますからね。自分で将来を選び取れないようなこと言っていましたが、全部あなたの選択では? 自分で人生を選びたいのであれば、今ある小遣いを持って、別の土地へ移ればよろしかったのに」
つらつらと、幼い神の鋭い言葉が注がれ続けます。
「アヤカは、父親が重ねた借金に追われ、労働の中で自分の人生を繋ぎ止めてきました。輝くように見えたのは、一生懸命だったからです。その命の輝きを、視界に収めていたというのに……」
私を暖かく評して下さった後、ベニコ様は溜息を吐かれました。
「そんなアヤカに対し、あなたは怨嗟と怠惰に耽り、贅沢を存分に貪った挙げ句、己の欲を満たすために店の金を盗み、妻であるアヤカにお門違いな嫉妬と、凄惨な言葉を浴びせてきた。アヤカのような人間が報われない世界を作るのは、いつだって、あなたのような頭の悪い人間です」
言葉は鋭くも淡々と、感情が乗らない声音で、ベニコ様は締めくくります。
反論の言葉もないのか、夫の充血した視線は床に落とされ、ただ痛みを噛み締めるように沈黙しました。
「さあ、アヤカ。今一度問います」
ベニコ様は仕切り直すように柏手を打ち、再び私へ水を向けます。
「あなたは、この男の命をどうしますか?」
問われ、私は深く息を吸い込み、たっぷり時間をかけて吐き切ります。
すると、心の中に、一つの想いがはっきりと立ち上がっていました。
「私は、この人を……生かそうと思います」
その答えに、ベニコ様は首を傾げ、穏やかながらも鋭く問われます。
「ほう、その心は?」
「ここで、この人の命が潰えた場合、私は背負ってしまいます。この人の死を」
私が思い描いたのは、これからの人生でした。
「ふむ。この花はいらぬと? 非道な夫を成敗したという証は、あなたの人生に必要ではありませんか? それなりの自信にはなるかと思ったのですが」
「はい。いりません。この先、私の長い人生の中で、この人の死が頭の中にチラつくのは、どうしたって嫌なのです。これから先、一片の曇りもなく、楽しい人生を歩きたいのです」
頭に過ったのは、両親との思い出でした。
まだ父が荒れる前、家族で楽しく食事をしていたあの頃。
もし、また、あんな瞬間を迎える日が来るのであれば、シュウジの死が私の心に深く影を落とすでしょう。
幸せな時間を、存分に味わえない。それが、たまらなく嫌だったのです。
「それともう一つ……」
どうしてもイヤなものが、私の中にありました。
「ベニコ様……私の心を救いとってくれたあなたの手が、夫の死で汚れるのもイヤです。私はあなたとの出会いも、流血と共に刻みたくはないのです……」
言いながら、私は嗚咽を漏らし、涙ぐんでいました。
出会ってわずかしかない時間。長い人生の中で瞬きのような時間で、私を深く理解してくれた。
そんな素敵な神様との出会いと、夫の死を抱き合わせたくはなかったのです。
「私はもう……十分です。あなたのおかげで、私は、自分の足で歩けます。だから……お願いです……私の中にある花を、今のまま、美しいままに……」
しんと静まった空間に、私と鈴虫の鳴き声だけが響いておりました。
ベニコ様は、しばし私を見つめた後、口元に慈愛を浮かべるのです。
「羅刹とは、人々の安寧のために流血を請け負う者です。ゆえに、私がどれほど殺そうが、あなたが悲しむ必要はないのですよ」
「必要かどうかではありません……私の感情の問題です……。私がそうしてほしくないと言う、わがままなのです。あなたとの思い出を、美しい花として……この胸に仕舞いたいのです」
私の懇願を聞き届けると、ベニコ様は片手をご自身の頬に添えました。
「わがままですか……これはこれは……驚きました。なるほど……」
小さく、腑に落とすように呟かれて、
「良き答えです。やはり面白い花ですね。あなたは徹底して、踏み間違える者を救おうとするのですね。その優しき性質が己の欲望まで染みている」
仕方のない娘、と、まるで母のように私の涙を袖で拭って下さる。
「夫に対しての怒りを抱えながら、羅刹である私に寄り添うような花を手向けるとは……いやはや……ふふふっ」
次には、私の額を優しく撫で付けてくれるのです。
「確かに、まだこの町の神でもない私が、町民を花にしてしまうのは筋が違いますね」
ベニコ様が肩を竦めた後、私は決心して口にしました。
「夫を……然るべき場所へ投獄してください。あらゆる者を欺いて盗みを重ねてきたのです。罪を償わなければなりません」
「よろしい。その願い、この女羅刹であるベニコが、しかと聞き届けました」
「よろしくお願いいたします」
私が深く頭を垂れると、ベニコ様は夫を額にツンっと人差し指を当てました。
すると、見る見る内に薔薇が肉体の中へ引っ込み、夫の肉体は何事もなかったかのような、傷一つのない素肌に修復されるのです。
気を失い、畳に崩れるように大の字となった夫。
それを一瞥して、ベニコ様は襟元を整えられる。
「セイシロウ」
「はい」
「私はこの男を然るべき牢獄へ送り届けます」
「ベニコ様、自らですか?」
「はい。アヤカに美しい花を見せてもらいました。散々と追い詰めてしまいましたから、私も労を尽くさないとね」
「かしこまりました」
セイシロウ様の一礼を見届け、ベニコ様は私に向かって微笑まれる。
「アヤカ」
その目元は白布に覆われているため、ちゃんとした表情は読み取れません。
ですが──
「良い決断でした。見事、自分の人生を選び取りましたね」
ベニコ様の声音は、満開の花を見つめるような。
そんな響きでした。
✿
それから、二日後のこと。
夫の投獄のため、ベニコ様の一団は旅立たれました。
いつかこの町に戻って、神の座に座られるのか、と聞いたところ。
『実は、キスケに誘われて訪れはしましたが──』
そう、ベニコ様はただ、大旦那に誘われて立ち寄っただけ。
町に神として君臨してほしいという話は、あの夜初めて聞いたのだとか。
『今は大陸全土を行脚して、修行に明け暮れる身です。一箇所に定住することは出来ません』
改めて、お偉方にそう話され、ベニコ様は夫を連れてこの町を去られました。
いわく──夫はとても過酷な環境に送られるようです。
ベニコ様よりも容赦のない、苛烈な羅刹様の元へ。
「アヤカ殿、準備はよろしいですか?」
さて、私はというと──。
「はい。では、行きましょうか」
まん丸に膨れた風呂敷を担ぎ、私とセイシロウ様は町の出口へと足を運びます。
そう、私はこの町を出て、新天地に移り住むことにしたのです。
生まれ育った思い入れのある地を離れることは、やはり名残惜しいと思う気持ちもありました。ゆえに、この町に居残ろうかとも考えたのですが、
『心ない言葉が、あなたに注がれるかもしれません』
町に残れば、きっと「罪人の元妻」という影を背負うことになる。そんなベニコ様の助言がありました。
確かに、新しい人生を歩むと決めた直後、それは避けねばならぬと私自身も思った次第です。とてもありがたいことに、セイシロウ様が護衛をしてくれるそうなので、女の一人旅という危ない橋は渡らずに済みました。
「なんだか、体が軽いです」
背筋が立つようになったからか、ちゃんと自分の身を守る選択肢を選びとれた。
そんな自分が、今は少しだけ誇らしく感じます。
「ははっ、アヤカ殿はそんな風に笑うのですね」
セイシロウ様が私の顔を見て、口元を緩められる。
「初めて見たときは、花が萎れてゆく様を見ているようで痛ましかった。しかし今、ひまわりのように笑われている。安心しました」
言われて、なんだか少しだけ、恥ずかしい気持ちになりました。
「私はそんなに、萎れていましたか?」
「はい。私が医学を修める身であるから、そんな風に見えてしまっただけかもしれませんが」
「あら、セイシロウ様はお医者さんだったんですか?」
「そうなんです。書物では知り得ない、ベニコ様の豊富な知識を授かりたいがために、従者として後ろを付いて回っていたのですが、先日、お役御免を言い渡されしまいました」
「まあ……どうしてそんな……」
「危険のその一歩先へ、と、ベニコ様は常日頃おっしゃられておりました」
語るセイシロウ様の瞳に、私が首を傾げると、
「自分が危険であると思ったその先に、一歩踏み出すべきであると。そう……滲むように言葉をくれるのです」
セイシロウ様は輝くような顔で、そうおっしゃられる。
何か、セイシロウ様に対して深いお考えと敬愛があったのでしょう。
神に袂を分かたれたにも関わらず、セイシロウ様の瞳には、強い光が宿っておりました。
ちらほら、そんな話をしながら歩いてゆくと──
町の出口の前に、大旦那が立っておいででした。
「すまなんだな……アヤカさん。全部、俺が悪かった」
私の姿を捉えるや、駆け寄ってそんな謝罪を口にされるのです。
やつれた顔に、それでも誠意と、静かな哀しみが滲んでいました。
「己の考えが浅いばかりに……あんたに辛い思いばかりさせてしまった」
「いえ……私は深く感謝しております。親の借金の件もお力添えくださいましたし」
「それも、謝らないといけない。あんたの働きに対して、安いもんだった」
言うと、大旦那は懐から分厚い封筒を取り出して、私の手に握らせるのです。
店の勘定をしていたので、その厚みの価値を私はよく知っています。
「そんな……これほどの莫大な金銭を受け取るわけには……」
「今回の迷惑料もある。人様の娘さんに多大な迷惑をかけたこと、俺が親として不出来だったこと……あの大馬鹿者がしてしまった仕打ちの数々……本当にすまなかった……」
大旦那の下げられた頭を見て、私はうるっと目頭に込み上げるものがありました。
「喜老園で働いていた時間は、私にとって、とても幸せな時でした。色んな人が喜ぶ顔が見れた上に、学門の手解きも大旦那が……本当に心から感謝してるんです。どうか最後は、あなたの笑顔で見送ってください」
大旦那の手を握り、私が願いを口にすると、
「アヤカさん、最後にこれを」
その手に小さな桐箱を乗せられました。
蓋を開けてみると、そこには思い入れ深い品が。
長年、扱ってきた喜老園の煎茶。その茶葉です。
「実はな、この煎茶の製法は、ベニコ様の助言をもとに編み出した品なのだ」
「まぁ……そうだったのですね」
「浅学であった俺に、あらゆる植物の知識を授けてくださった。羅刹様の旅路は過酷なものであったから、従者として長くは務まらなかったが……それでも、あの方の助言で今の商いがある。一端の商人となって、あの方を歓待するつもりだったが、また俺はベニコ様に救われてしまった」
そう、我が身を鑑みて、染み入るような声音を落とす。
大旦那の目には、深い敬意が宿っておりました。
「お元気でいてください。私も、楽しく健やかに生きてゆきます」
「ああ、あんたがそう言ってくれるのが、何よりの救いだ」
厚く手を重ね合わせて、互いに労りを交換しました。
私にとっては第二のお父さんです。どうか、この先も健勝でいてほしい。
最後に深々と頭を下げてから、私たちは大旦那の姿を背に、町の外へと歩き出しました。
そうして、しばらく進んだ後──
「本当に、馬車か牛車を使われなくてよろしいんですか? 今からでも手配できますが」
隣を歩くセイシロウ様が、歩幅を緩めてそう問うのです。
「ええ。自分の足で歩きたいんです」
私は一歩、しっかりと地を踏みしめました。
その足裏の感触が、まるで新しい世界を告げているようで。
胸の中から童心が弾み、踊って参りました。
「そうですか」
ふと視線を上げると、セイシロウ様がほのかに頷いておりました。
それは、どこか自身に言い聞かせるようなものでした。
危険の、その一歩先へ。
そう、幼き神が彼に告げた言葉が、私の胸奥にも過ります。
ベニコ様らしい、魂を問うような言葉であると、私は思います。
私も、歩いてゆける。危険の、その一歩先へ。
もう、「今だけ」なんて、耐える花はいりません。
一歩先、勇気で開くその道で、新しい花を咲かせてみせます。
命輝く、鮮やかなる花を。
読了いただき、ありがとうございました。
日も経ったので、こっそり宣伝させてください。
こちらで存分に活躍してくれた幼き羅刹であるベニコ。
彼女が大人となった姿で登場する作品『花の羅刹』が現在連載中です。
下にリンクを貼っておきますので、興味があれば是非ともご一読お願いします。
私自身、花の羅刹を描くことそのものが生きる目的となりました。
なので、長い作品ではあるのですが、物語を途中でやめることはございません。
どうか見守って頂ければ、幸いですm(_ _)m