七、逃げろ家康
家康は次々と上がってくる徳川軍の将の戦死報告を聞きながら、怒りと武田の脅威に頬をますます紅潮させて打ち震える。
「おのれ……! 武田め‼︎ 何という強さだ……‼︎」
恐るべきは武田軍ばかりではなく、それを率いる信玄であった。
家康の思考を先読みし、合戦しやすいここ三方ヶ原に誘い出し完全に徳川軍を手玉に取っている。
武田の矢が陣奥まで届き始め、もはや家康は恐怖に震えるしかなかった。
本多忠勝は刻々と悪化する戦況を見つめながら、冷静な口調で具申する。
「個の武勇もさることながら、この三方ヶ原へ殿を誘導した手際も見事でしたな。思えば最初から我らは信玄の手の平の上だったのです」
「……くっ!」
家康は歯噛みしながら、床几にどしりと腰掛け苦々しい表情で足を組む。
そんな家康を見つめ、忠勝は傍にいるもう一人の忠臣、夏目吉信と共に厳かな声で自らの胸を叩く。
「大丈夫、私が、いや我々が殿を死なせません」
家康は二人の目を見る。
それは失敗した敗軍の将を見るものではなく、温かく希望を見つめるような目であった。
「平八郎……! 夏目……!」
裏切りが横行するこの戦国の世にあって、彼らはこのような窮地に陥っても家康を見捨てることは無かった。
しかし、家康が感動の余韻に浸る間もなく、ふらりと現れた織田木瓜の旗を差した騎馬武者がいきなりぶっきらぼうな物言いをした。
「その通り、アンタに死んでもらっちゃ儂が藤吉郎さまに大目玉を食らうんじゃ」
「何だ? 織田方の兵か?」
忠勝がその不審な男に問いかけると、若侍は馬を降り不敵な笑みを浮かべた。
「ああ、ワシは仙石権兵衛秀久っちゅうモンじゃ。羽柴藤吉郎の一の家来である‼︎ そのうちでかい戦をやらかす男じゃから覚えておいて損はねえぞ!」
もちろん、仙石は秀吉の一の家来などではない。
大軍を率いる軍才も残念ながら無いことが、後世明らかになる。
いきなり現れて盛大に吹いている仙石と名乗る若侍に呆れながら夏目は更に問いかけた。
「さような冗談はさておき、何をしに来た。仙石とやらよ」
「なーーに、藤吉郎さまがの、家康さまを死なすな、ちゅうて此度の戦にワシを送り出したんじゃ。だから逃げる為の策を授けちゃろうと思うてな」
家康は藤吉郎と聞いて顔色を微かに取り戻した。
家康と秀吉との関係は深い。
金ヶ崎の撤退戦では、浅井・朝倉と背中合わせに共闘したことがあり、両者とも終生その時のことを忘れたことはなかったという。
「……羽柴どのが? いや、儂はまだ逃げん‼︎ 兵を見捨てて逃げたとあっては徳川の名折れぞ!」
頑固な態度を取り続けるらしい家康に密かにため息を吐きながら、仙石は忠勝と夏目に手招きする。
「ああ、はいはい。やっぱりの。おい、平八郎どん、夏目どん、こっちへ」
「なんだ、仙石」
怪訝そうな二人は始めは不審そうに眉を顰めていたが、仙石の話を聞いて頷いた。
……元々考えていた策ではある
「……そうか」
「ええの?」
「わかった」
三名がひそひそと話しているのを不愉快そうに家康は遮る。
「おい! 大将の儂に隠れて何をこそこそ話しておるか⁈」
太々しい仙石は少年のような間抜けな笑みを浮かべ、家康の肩を軽くポンと叩いた。
「ああ、済まん済まん。では、家康さま、皆んなで騎馬に乗って武田に突っ込みましょう」
いきなり持ち出されたその思い切った策に家康は一瞬たじろぐが、一度引かぬと口にした以上引くに引けない。
「あ、ああ……! 望むところだ!」
「さあ乗った、乗った‼︎」
そう言って何故か陣羽織をいつの間にか剥がされ、忠勝と夏目が引いてきた馬に乗せられる。
家康は不審に思いながら武田軍の方を振り返った。
「おい、方向が逆では……」
そう、馬は襲い来る武田軍に尻を見せていた。
「では、おさらばです、殿」
そう言うと夏目は思い切り馬の尻を蹴飛ばす。
家康の乗った駿馬が勢いよく陣を離れるように駆けていった。
「な! なんじゃあ〜〜〜‼︎」
ぐんぐんと遠ざかる家康と騎馬を見つめながら、仙石は忠勝と夏目に軽口を叩く。
「おうおう、いい駿馬じゃのう。帰ったらあれ儂に貰えんか?」
夏目は家康の陣羽織を着ながら呆れたように仙石の馬鹿面を見つめた。
大体は仙石の立てた計画通りに家康を逃す事が出来た。
しかし、こいつは見た目や話し方とは真逆に機転のきく男のようだ。
「馬鹿こけ。仙石よ、お前はこれでもう真面目に戦う気はないんだろう?」
ふはは、と笑いながら仙石は武田の迫りくる方を見る。
「ああ、家康さまを逃がせたことだし、危なくなったら逃げちゃるわ」
陣羽織を纏った夏目は頷き、覚悟の決まった目で合戦の様子を見つめた。
武田はしらみ潰しに徳川の諸将を討ち取っている。
間もなく、騎馬隊がこちらになだれ込んでくるだろう。
「それでいい。傍で我らの死に様をみてゆけ」