五、三方ヶ原開戦す
後世、この時の浜松城より打って出るという家康の決断は日本史に残る失策として現在も尚、語り継がれている。
しかし、家康の視点に立ってみればこの決断も致し方ない面もある。
居城に織田の援軍を迎え二万近い兵を擁しながら更に支城を見殺しにしたとあっては家康は三河の地侍の信を失い、武田が去った後に三河の統治がままならぬ、といった事情もあったとも言われる。
徳川軍は武田軍の尻に追いつこうと、勢いよく馬を飛ばしていた。
日は落ちかけ、夕陽が紅く丘陵を照らす。
家康は馬上で側近に檄を飛ばす。
「いいか! 祝田の坂で武田を討つのだ‼︎ 縁起が良いではないか! 信玄の首塚にしてくれようぞ‼︎」
騎馬の上で意気込み、進む家康の黒馬に乗り黒い甲冑で身に包んだ精悍な士が隣に競りかける。
立派な鹿角を兜につけたその士は注意深く辺りを見渡した。
「血気に逸っておりますな、殿。此度の出撃、私は感服しております。あの武田を相手にお見事です。ですが時期を見誤りまするなよ」
その男を振り返り、家康は紅潮した顔で自信に溢れた笑みを浮かべる。
「分かっておるわ! 平八郎‼︎ 武田もまさか尻に噛みつかれるとは思ってもおらんだろう! お前もこの戦で武田の名のある将を討ち、武功を上げるがいいわ!」
その威風堂々とした黒甲冑の侍、本多平八郎忠勝は馬上で前方を睨みながら呟く。
「……目論見通りにいくといいのですがね」
実際に勝算はあった。
徳川を舐めきって進軍する武田軍の後方に奇襲を掛けられれば大打撃を与える事は不可能ではないだろう。
日の暮れかける山岳地の草原は紅く染まり、徳川軍は順調に進軍を続けていた。
暫く行くと、先行させていた斥候が慌てた様子で家康の元に駆け寄り、地に膝を突き進言する。
「殿‼︎ 先行隊から報告‼︎ 三方ヶ原台地に到着したところ、武田軍の後方部隊を発見した模様です!」
家康はその報告に頷きながら、もうすぐぶつかるであろう武田軍の後方への攻撃命令を周知させる。
「よし‼︎ 武田の尻を見つけたか! いいぞ‼︎ 三方ヶ原に急行し、陣を敷け‼︎」
しかし、本多忠勝は浮かない顔で血のように染まる前方の丘陵を見つめた。
「……あーあ きな臭いのう」
「どうした? 平八郎! 急ぐぞ!」
「了解致しました」
佐久間の了承と協力を得られぬまま、進軍してきたが報告によると織田軍もすぐに家康を追って合流しつつあるらしい。
家康は予定通りに事が運び、にんまりとしながら密かに拳を握りしめる。
これで総勢一万八千で武田約二万七千に対し、後方から奇襲をかけられる事になるはずである。
長年、家康は信玄の侵攻にその命を脅かされてきた。
遂にその積年の恨みを晴らせると思うと自然と頬が弛緩する。
「織田方も付いてきてくれておるな、この戦もらったわ‼︎」
しかし、徳川軍の勢いもこれまでであった。
丘陵地を上りきり、最初に見たものに家康は驚愕する。
「……なんじゃあ、これは⁉︎」
そこにはびっしりと陣を張り、攻撃態勢が整った武田菱の旗が翻っていたのだ。
物見の兵が家康の前に進み出て膝をつく。
「……申し上げます‼︎ 武田軍、魚鱗の陣にて我々を迎撃する模様……!」
家康は持っていた扇をばきり、とへし折り投げ捨てるとみるみる顔を紅潮させ、夕焼けに叫ぶ。
「何故じゃ⁉︎ 先行部隊からの報告では武田の後方の一部の隊を発見したとあったはずじゃ‼︎ 我々は戦陣が伸びた武田の尻に噛み付けるはずではなかったのか⁈」
そう、家康の計画では態勢の整っていない武田の尻に噛み付けるはずであった。
しかし、恐ろしい武田軍は真っ直ぐにこちらを見据え今にも襲い掛からんばかりである。
本多忠勝は開けたこの丘陵を見つめ、静やかな声で主のその問いに応える。
「……その先行部隊が報告を送った後で殲滅されたようですな 我々は武田に偽情報を掴まされ、ここへ誘い出されたようです」
一方、武田の陣奥では床几に腰掛け甲冑を纏った信玄が側近を周りに固めて伝令兵からの報告を受けていた。
「法性院さま(信玄のこと)。家康と佐久間が三方ヶ原台地に着陣した模様」
信玄の隣に控える山本勘介はその報告にニヤリと笑みを浮かべる。
「見事にかかりましたな。殿。此度は家康と佐久間を首に出来ますぞ」
信玄は無表情のまま、采配を手に取り夕陽に紅く染まる三方ヶ原を見つめた。
間もなく、この地は更に紅く紅く染まるであろう。
「左様か。愚かな事よ。では一斉にかかれ」
信玄は手にした采を徳川軍の方に振り下ろした。
「はっ‼︎」
駆けて行く伝令を見つめ、信玄は表情を変えることなく呟いた。
「ここで家康と佐久間を討ち取れば、信長へのいい土産になろう。他愛のない事よ」