四、武田西上開始
元亀三年十二月、畿内での本願寺、浅井・朝倉を中心とした信長反対勢力による包囲が強まり、織田方の情勢がますます悪化するとみるや、武田信玄は遂に三河・遠江への侵攻を開始した。
世に言う武田の「西上作戦」である。
信玄率いる二万七千の兵は二手に分かれ、驚くべき早さで織田の同盟国である徳川方の支城を次々と攻略していった。
この時、武田軍は攻略に通常一ヶ月かかる支城群をわずか三日で抜いていたと言われる。
恐るべき速度で支城を呑み込みながら、武田軍は徳川家康の居城浜松城のすぐ喉元にまで迫っていた。
当然、織田方もただこの事態を傍観していたわけでなく、すぐさま筆頭家老・佐久間信盛を大将とした援軍一万を徳川方に派遣している。
十二月二十二日現在、浜松城の大広間に徳川の重臣と佐久間率いる織田の武将たちが集まり会議を開いていた。
議題はもちろん、武田軍への対処である。
日に焼けた精悍な顔をした士が中央に陣取り、武田の侵攻具合を記した地図を見つめながら佐久間たちに礼を述べた。
「武田はやはりここ浜松に攻め寄せてこような。佐久間殿、御助力感謝致す。我が軍八千と合わせれば充分に守りきれよう」
彼こそは三河の君主、徳川家康であった。
若き日の家康はまだ、晩年のように太ってはいない。
武田軍は徳川から三日前に奪い取ったばかりの城、二俣城に陣取っていた。
目と鼻の先に武田がいる。
普段であれば肝が冷えそうな戦況であるが、此度は織田の援軍がある。
加えて織田・徳川連合軍には地の利があるのだ。
佐久間はいっそ余裕の笑みを見せながら家康に同意した。
「浜松殿(家康のこと)の仰る通りです。それに私はこういう守り切る戦は大の得意でしてな。更に浜松は徳川の誇る堅城で御座ろう。調子に乗って武田が無理に攻めてくれば守りに乗じて将の首を取る事も出来るかもしれませぬ」
若き日の家康は、戦慣れした浅黒い肌に白い歯を覗かせ、精悍な笑みを見せる。
「うむ、そうでなくとも武田が疲弊して甲斐に引き返してくれればそれで勝ちに等しい」
佐久間は相槌を打ちながら更に続ける。
「上様は浜松殿(家康のこと)に此度の戦は守りきれ、と仰っていました。織田としては武田の兵糧が切れる、もしくは戦線が伸び切ることを狙っておるのです。城を出て敵を迎え撃つ必要はありません」
「うむ、最もじゃな」
守る側の織田・徳川としては武田が疲弊するのをただ待てばいい。
この時点では両者の思惑は一致していた。
しかし、この場に飛び込んできた伝令兵の報告が戦況を一変させることとなる。
「各々方‼︎ ご報告致します! 武田軍が進軍を始めました! その……」
若き伝令兵の慌てた様子に家康は膝を叩き、顔を引き締める。
籠城戦の準備をしなければならない。
「やはりこちらに向かってくるか⁉︎ 来るならこい!」
しかし、続く伝令兵の報告は家康が想定していたものとは真逆のものであった。
「いえ、それがその…… 武田は浜松城を素通りして、堀江に向かいました!」
家康はみるみる顔を紅潮させ、座椅子から立ち上がる。
「……何ぃ⁉︎」
この頃の若き家康にはまだ血気に逸るところがあり、このため晩年の彼からは考えられない大失策を犯すこととなる。
家康は茶碗を手に取ると床へと叩きつけ、拳を握りしめた。
「おのれ‼︎ 信玄は儂を敵とすら見做しておらぬということか‼︎ 舐めよって‼︎」
佐久間は驚いたように激昂した家康を見上げる。
(冷静に見えた御仁であったが、かほどの激情の持ち主でござったか……)
佐久間も側近も家康を宥めようとする。
「落ち着かれよ、浜松どの」
「お館さま、お怒りをお鎮めください……」
しかし、家康は聞く耳を持たずますます顔を赤らめ拳を振り上げた。
「これが落ち着いていられるか‼︎ ここで黙って信玄を見逃せば徳川は物笑いの種になろう! 佐久間殿‼︎ 儂は打って出るぞ‼︎ もちろん加勢してくれような⁉︎」
これはまずい、と佐久間は立ち上がり家康を説こうとその目を見つめるが、怒った時の主君と同質のものを感じ取り、この時点で半ば説得を諦める。
だが、出来ることはせねばならんと必死で説き伏せようとした。
「……な⁉︎ お、お待ち下され! 浜松殿……! 今のあなたは冷静さを欠いておられる!」
家康はふん、と鼻を鳴らし佐久間に背を向け、側近に指図する。
「加勢を惜しむなら結構! これは徳川の戦にござる‼︎ おい‼︎ 兵どもに下知せよ‼︎ 城を出て武田を討つぞ! 信玄をここで首にしてくれる‼︎」
家康の号令一つで徳川の重臣や兵は会議室から引き上げ、去っていく。
残された織田方はあまりの成り行きに呆然とし、佐久間は膝を打って悔しがった。
「……くそっ! 徳川が何度武田に負けたと思っている……! 出来るはずがないではな
いか…… 何故このようなことに……」
その時、太々しい面構えの若侍が佐久間の肩をぽんぽんと叩いてきた。
「はっはっは! やべーな、佐久間のとっつぁん! 俺たちは徳川の巻添えでやられるかもしれんぜ⁈」
佐久間信盛は織田家の筆頭家老である。
織田家広しといえど、このような不躾な真似をする男は一人しかいない。
鼻の大きい浅黒い肌のその若者の馬鹿丸出しの表情を見て、佐久間はかっとなって拳をその頭に落とす。
「何を笑うておるか! この馬鹿たれが‼︎」
ごん、と鈍い音がしてその若侍は頭を抱えてうずくまった。
そして恨みがましい目で佐久間を見つめ、その態度に佐久間も毒気を抜かれる。
「あいてっ‼︎ だーから! 退く準備も必要じゃと言うとるんじゃ! アンタ退き佐久間じゃろ? 逃げるのは儂もアンタも大得意というわけじゃ。危のうなったらアンタと儂で家康様を蹴飛ばしてでも逃すんじゃ!」
馬鹿に見えてこの若僧は本質を突いた言を発しよる……
佐久間は生意気なその若き侍を見つめ、気を取り直した。
「……相変わらず礼儀を知らぬ奴じゃな、お前は。のう仙石よ」
「はっは! 礼儀? そんなもん戦の役に立たんわ! 犬にでも食わせとけ!」
この慇懃な若き侍の名は仙石権兵衛秀久。
美濃陥落の際に斎藤から織田方に臣従した、ルイスフロイスには「まるで山賊のようだ」と評された不躾な男である。
羽柴秀吉の配下であったが、秀吉の命により佐久間の与力としてこの場に付き従っていた。
佐久間は気を落ち着かせる。
こうなっては仕方ない。
あの鬼とも呼ばれる武田軍と一戦交える覚悟を決めなくては、家康が討ち取られてしまうかもしれないのだ。
内心では嫌々ながらも佐久間は部下たちや他の織田方の将たちを見回しながら、声を張り上げた。
「やれやれ…… まさか徳川殿を見殺しには出来ぬ。行くぞ! 皆の者‼︎」
そう言って佐久間は、突然の成り行きに呆然としている平手汎秀や水野信元といった織田方の武将たちに指示をだした。
短い軍議を済ませると、先程の慇懃な若侍をふと見つめる。
ぼうとしなから鼻をほじる相変わらず太々しい仙石を見て、呆れながら佐久間は不思議な感覚にとらわれた。
(やれやれ…… 案外、此奴のような者の方が此度の戦では役に立つやも知れぬ……)
この場で、これ程舐め腐った態度をとっているのはこの馬鹿そうな若者ただ一人であった。