三、岩村城陥落
元亀三年(1572年)十一月、織田方の支城であった岩村城が武田方の手に落ちた。
岩村城とは、後に日本三大山城と呼ばれるほどの堅城である。
城主であった信長の叔母おつやが、武田家武将秋山虎繁と婚姻する事で、城兵の助命を約束されたため、岩村城は武田家へと寝返ったのだ。
岐阜の東南部にある岩村城は織田家にとって重要な拠点であり、この寝返りは内外に激震が走った。
この際、おつやの養子となっていた名目上の城主であった信長の五男御坊丸は武田方の人質となり、甲斐へと送られている。
急報を受けた信長は小姓衆が狼狽するほど怒り猛ったという。
「おのれぇ‼︎ 武田め‼︎ 相変わらずこそ泥のような汚い真似をしてくれる‼︎」
信長は机や箪笥を蹴倒し、飾ってあった高価な壺を掴み叩き割った。
顔を紅潮させ、怒りに震える信長は、真っ青になりながら見守る小姓たちを他所に、遂に刀の柄に手をかけようとする。
「……それにしても一番腹立たしいのは、あの女狐よ! 泣いて頼みよるからわざわざ息子をくれてやったのに何たる様か‼︎ 武田を滅ぼした際には逆さ磔にしてくれるわ‼︎」
女狐とはおつやのことである。
信長の怒りも無理はない。
叔母であるおつやが是非にと言うので、無理に御坊丸を養子にやったのである。
ますます怒り猛る信長に誰も手をつけられない。
しかし、雷鳴が轟くような恐ろしい空気を割いて信長の前にすっと現れた者がいた。
「上様、どうか落ち着きください。御坊丸様も岩村も一時的に武田に取られただけにございます。織田信長であればいずれ必ず武田を滅ぼし、信玄坊主にこのツケを払わせることが出来るでしょう」
穏やかな顔に不思議な迫力を秘めたその男は武井夕庵であった。
武井夕庵は斎藤家三代に仕えた後、信長へと臣従し、戦国の動乱を生きた気骨のある文官である。
信長相手にも怯まず意見を述べたと言われている。
信長は刀の柄から手を離し、部下たちに向き合う。
「……夕庵」
武井夕庵という士はいつでも斬られる覚悟は出来ている。
平伏したまま、夕庵は淡々と具申した。
「もちろん、復讐戦を為すには上様の冷えた頭から生み出される神の如き戦略が必須に御座ります。今現在の猛った織田信長ではあの信玄に勝つことは出来ませぬ。どうか癇癪をお納め下さい」
信長は暫く考え込むように扇子を開いていたが、やがてパチリ、と扇を閉じると愉快そうに笑い声をあげた。
いっそここまで言ってくれた方が心地よい。
「言うてくれるのう、夕庵」
「それが私の役目でございますので」
平伏する夕庵に頷くと、信長は畏まる吏僚たちを見回す。
「皆の者! 取り乱して済まなかった! では冷えた頭で今後の戦略を練ろうぞ。夕庵の言うた通り、武田には必ずこのツケを払わせてくれよう」
夕庵は安堵の笑みを浮かべ、顔を上げた。
織田信長ならば、戦国最強と名高い武田騎馬軍団でさえ、必ず退けてくれるであろう。
夕庵はそう信じていた。
だからこそ、この男は斎藤家を見限り信長についたのだ。
「それでこそ、上様でございます。先刻の非礼は平にご容赦を。まずは武田と領国を隣接する徳川を援護してやらねばなりませんな」
拠点を取られた代わりにすぐに国境と岩村城付近の防衛を固めなければならない。
そして武田との争いの際に真っ先に矢面に立つのは、織田家の同盟国である三河の徳川家であることが予想された。