もし私がゴブリンに敗れても…
以前書いた作品の別視点からのお話です。
同一シリーズの拙著「ゴブリンと女騎士の幸福論」も一緒に読んでいただけるとありがたいです。
「もし魔物風情に敗れようとも、私の心までは堕ちたりしないさ。」
心配の眼差しを送る母に、そんな頼りない、騎士なら誰もが使い古した常套句を述べて私は故郷を発った。『心が堕ちる』、その意味の何たるかも具体的には理解できていないというのに。
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私が生を受けたアレクセン辺境伯家は代々、未開拓域に対する最前線として防波堤の役目を負ってきたと聞いている。数多の貴族子息を従士とし、一人前の騎士へと育て上げる一種の軍的キャリアの登竜門と化した我が家は当然国王からの信頼も厚く、常日頃からそこには戦いという概念が満ち溢れていた。そんな空気に包まれて成長したからか、私自身も自然と騎士というものに憧れを抱き、気付けば兄や父の従士たちと共に剣を振るうことに日々いそしんでいた。
しかし、現実はそう甘くない。女の身で戦いに身を置く、その事実は当然多くの者の嘲笑を買い、それに乗じて私の反骨精神は強まっていった。否、母の話ぶりから察するに元々負けん気が強い性分だったのだろう。ともかく、私は己以外の全てに否定された自分の生き方を貫くために、ひたすら努力を続けた。誰をも納得させられる猛き力を求め、ひたすらに血の滲む研鑽を繰り返したのだ。自分で言うのもなんだが、それこそ実力なら周囲からも抜きんでているという自負もある。
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世には人類とは根本から異なる『魔物』と呼ばれ存在がいる。洗礼を受けることもなく、ただ純粋な悪意の元生まれ落ちる獣、その総称を人はそう呼ぶのだ。野山や森林、果ては鉱山まで、およそ人の手から少し離れた所には無限に奴らは湧いて出る。人々の安寧のため、知らせがあれば直ちにそれらを討伐しに赴くのもまた騎士の務めだ。故に我々は齢14で騎士の見習いとして初陣に挑んだが、その戦いにおいて私は初めてゴブリンというものと対峙した。
出立の前の晩の母の悲壮的な顔が目に浮かぶ。私が生まれる少し前、この領内に住まうある女騎士がゴブリンに囚われ、子を孕まされた事件があったそうだ。だからこそ母は私が同じ化け物に挑むと聞いて気が気ではなかったようで、出立の直前まで泣きつきながら引き返すように懇願してきた。母の気持ちも分からなくはない。全ては子を思うが故の行動であり、それは同時に愛情の裏返しでもあるのだ。ただ、私自身の本音を言うなら彼女には胸を張って送り出して欲しかった。ああ、それ程までに頼りないのかと、いくら努力を重ねても信じてはくれないのかと、そんな漠然とした悲しみが胸の内に染みわたっていった感覚が今も焼き付いているのだ。
さて、肝心の初陣についてだが、結論から言えば母の懸念は杞憂に終わった。同輩たちとの連携を前にゴブリンの群れは敢え無く総崩れとなり、任務は滞りなく決着した。幼き日からの訓練、その意味をやっと私は実感できたのだ。
父は、兄は、私を褒めてくれるだろうか。騎士として民たちの平和を守る、そんな生き方も認めてくれるだろうか。そんな淡い期待と希望を抱き私は帰路についた。さながら心中は英雄の凱旋のそれであり、満面の笑みで馬を駆る姿は傍から見ればさぞ滑稽だったのだろう。そう、所詮私は女なのだ。どれ程力を求めても、どれ程華やかな生き様を望んでも、それは当世では受け入れがたい理想なのだ。
「これで気が済んだだろう。さあ、騎士の真似事などは辞めて、明日からは立派な淑女を目指しなさい。」
父は目を合わす暇もなくポツリと一言呟き、忙しそうに部屋を出て行ってしまった。
「父上はお前の愚かな猿真似に付き合ってくれていたのだ。次はお前が我が家の為に良い縁談でもお受けしてくる番だろう。」
兄は吐き捨てるように貴族としては当たり前の責務を説き、席を立ってしまった。
結局はそんなものなのだろう。母も、父も、兄も、誰一人として女の、しかも大貴族の娘でもある私の今の生き方を認める気にはなれないのだ。それが本来は当たり前の風潮であると、そこに異を唱える私こそが間違っているのだということも私は理解している。
それに真っ向から歯向かう勇気など当時は持ち合わせておらず、私は渋々家族の言を受け入れ、貴族令嬢としての礼節を学ぶ日々を送ることとなった。それでも私の心はあの眩く輝く騎士たちの雄姿を追い求めてやまなかったのだ。人目を盗んでは剣技を磨き、暇を見つけては兵法書を読み漁った。その行いが実際には家族にも薄々勘ずかれ、白い眼差しで見られていようとそれを投げ出そうとは微塵も考えられなかった。
悔しかったのだ。女に生まれた、ただそれだけで己の夢を奪われることが。
別段男として生を受けたかった訳ではない。私だって殿方と恋をしたいと思うし、美しい装いには憧れを抱きもする。ただ、そんなありのままの自分を貫きながら騎士として民の、そして国の為に戦いたい、それだけを私は切に祈り続けていた。
だからこそ私が17の歳を迎えた頃に始まった魔王軍の侵攻、その知らせは私の人生の大きな分岐点となったのだ。
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それまでは雑多に、自然のまま生きていた害獣程度でしかなかった魔物の突然の組織立った軍事行動、その発端は魔王と呼ばれる強大な統率者の登場が関係していた。軍隊を成し、戦略を身につけ、知性を手にした彼らは、最早1つの国家のようなものと化したのだ。
かつて大地を切り開き、都市を植え付けていった王国側としてはその土地を奪取されることは容認出来るものではなく、陛下は直ちにこの未知の外敵を制圧せんとした勅令を発した。各地から傭兵や食い扶持目当ての義勇兵、その他諸侯や同盟国の率いる軍が集結し、この長きにわたる争いの火蓋が切って落とされたのだ。
辺境の地を預かり、常に魔物との戦いの最前線に立つ我がアレクセン辺境伯家も当然この命に従い、父や兄は数多の臣下を率いて出陣することとなった。美しく磨かれた甲冑を纏い、煌めく槍の穂先を誇らしげに掲げた騎士の一団の壮麗さに、私の鼓動が高まる音が聞こえてくる。憧憬と羨望、そして滾る闘志の綯い交ぜにされた感情がふつふつと湧き上がってきた。そうだ、私は今度こそ国の役に立ちたいのだ。
幸いとして今回に至っては父も寛容な思考を有していた。未曽有の大厄災の到来に人手はいくらあっても足らず、彼は仕方なしに私の従軍も求めてきたのだ。その時の歓喜などは口で表せるものではなく、私は二つ返事でそれを了承した。ずっと憧れてきた理想の勇士、騎士として国家に貢献できるまたとない機会に私の魂は大いに打ち震えていたのだろう。
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一大勢力たる辺境伯軍は激戦区たる西方へ派兵され、私も一部隊を指揮する身となった。幾度もの小競り合いが続き、王国と魔王軍は一進一退の攻防を繰り返す。私がそのゴブリンに出会ったのも丁度そんな小規模な戦闘の一幕だったと記憶している。
森林から襲い来る魔物たちのゲリラ攻撃、それらに指示を飛ばしているゴブリンの王、即ちゴブリンロードに私は遭遇したのだ。奴を倒せば敵の西方支部の戦力を大幅に削れる、そんな軍事的優位性を選択し私は彼との一騎打ちに挑んだ。広大で、しかして入り組んだ木々の生い茂る戦場を縦横無尽に駆け回る彼に私は翻弄され、徐々に形勢は悪化し始める。互いの得物がぶつかり合い、生傷ばかりが増えていく、そんな久方ぶりの強敵との戦いに私は1つの理解を見出した。
彼の戦いは生きるために身についたものなのだ、と。我々のような騎士、即ち職業軍人の鍛え方とは根本から異なる彼らなりの我流闘法、それが今目の前に暴れるゴブリンの力の原点なのだろう。そこに至るまでにどれだけの地獄を這いずり、辛酸を舐めたのか、それは私の想像では到底及ばない範疇だ。だからこそ私は悟ってしまった。生きるか死ぬか、そんな瀬戸際を永劫繰り返してきた彼らに対し、己が威信の誇りくらいしか覚悟を持ち合わせていない自分が及ぶはずがない、と。
そして刃と刃が打ち合うこと数百合、ついに私の刀身が砕け散った。
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気付いた頃には私は牢の中に居り、意識を取り戻した時視界に映ったのは鉄格子越しにこちらを見据える件のゴブリンの双眸であった。
母には笑ってごまかしたが、いざこうして面と向かって向き合えばその恐怖は計り知れないものだ。嬲られ、犯され、穢され、この歳まで守り通した純潔を無残に散らされながら、孕み袋として飼われ続けるであろう未来に私は恐れおののき、知らず知らずのうちに全身は小刻みに震えていた。
あちらはあちらで狼狽えたような、不安げな表情を浮かべるばかり。ただ、こんな微妙な悪印象から始まった関係も、後にはすっかり通じ合えるようになるとはこの時はまだ知る由もないのだが。
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魔王軍の捕虜となって数週間、いつの間にやら私の日常はこの地に駐屯する魔物たちとの語らいの日々に変わっていた。
魔王本人の方針として捕虜の待遇もそこまで悪くはなく、拷問の類も執り行われないのだが、一応元指揮官として私は情報の開示を求められた。勿論安々と祖国を売る訳もなく、私は頑として口をつぐんだがそれでも形式上の緩い尋問は毎日続いている。やがて質問は対話となり、尋ねられるだけでなく私は聞き手の側にも転じ始めた。
彼は言った。昔は人の都市で逃げ隠れしながら生活していたと、人の近くだからこそより多くの知識を得てゴブリンの王になるまでの足掛かりを稼げたと。辛く、悲惨な、血みどろの彼の前半生には成程どうして、その実力を裏付ける確かな説得力があった。そしてそれと同時に、恵まれた環境に生まれ、その癖にあえて茨の道を選ぼうとしている私の憧れなど所詮ただの我儘でしかないのだと、そう強く思い知らされもした。
つまるところ、私が目指した生き方は偽善的な独りよがりでしかなく、家族の言う通り児戯にも等しい、薄っぺらな騎士道だったという訳だ。
しかし、うつむく私の自嘲を彼は否定した。
「周囲の一切から認められずとも、自分の選んだ生き方を貫こうとする者の姿は美しいものだ。誰にでもできることではない、その困難を乗り越えたのだからあなたはもっと己を誇るべきだろう。」
力強く、真っすぐな視線で彼はそう力説する。
魔王の掲げる理想に賛同し、次の世代の魔物たちのために戦う己には自分自身の今世の望みがなく、それと比べれば確固たる自己を持った私はまだ幾分か『人間らしい』のだと、彼はそう言っていた。互いに自分自身の在り方を肯定できない、そんな奇妙な共通点がこの二人の間にはあったということだ。
やがて私の元に訪れる魔物が一人、また一人と増え始めた。力自慢のオークや恋に悩むサキュバス、果ては魔王直属の竜まで、多種多様な者たちとの面会が続いたが、そのどれもが皆一様に人間という別存在に興味深々な様子だ。そして彼らは己の内に秘めたる信念を容易く打ち明け、言葉を繰りだした。それ程までに魔物は人を気安く感じているのだろうか、いいや、むしろ逆だろう。おそらく、彼らは今まで敵対者でしかなかった人間が相手だからこそ、より多くの言葉を交わし、そしてその在り方を理解したいと考えているのだろう。
その姿の何が醜いのだろう?かつての私を含め、王国の人間は皆揃って彼らを穢れた獣と罵り、忌諱してきた。血と欲に彩られ、知性も正義も持ち合わせない未開の住人、それが今までの私の中での固定概念だった。否、否、否。それらは全て私の勝手な解釈であり、己の正当性を信じて疑わない傲慢からなる独善だったのだ。人も魔物もその中身は大して違わない。恋もするし、友情も持っている。悪事だって働くが、同じように善行も成す。十人十色に各個人でその内面も様々なのだ。今まで知りもしなかった隣人たちのそんな姿をどうして醜いと言えるだろうか。少なくとも今の私には彼らを侮辱することなど出来るはずもない
だからだろうか、私は彼らの求める平穏への挑戦、その大偉業に力を貸すと決めてしまった。些か短絡的で、極端な行動のような気もするだろう。私自身これはチョロ過ぎるとも思ったさ。だが、他の捕虜となっていた兵士の何割かの後押しや魔王からの歓待もあり、事態はとんとん拍子に進んでいった。数度重ねられた人類と魔王軍の停戦交渉の席に私は担当として配置されたのだ。あちら側の事情にも精通する辺境伯家の元令嬢としての経験が、まさかこんなところで役立つとは当時の私は微塵も思わなかっただろう。
魔物を見下して止まない王侯を相手に舌戦を繰り広げ、一度戦があると聞けば例のゴブリンと共に戦場を駆ける。それが私の新たな日常だった。幼き日に思い描いた夢想とはかけ離れた、正に売国奴と呼ぶに相応しき姿ではあったが、不思議と私の心は満たされていた。嬉しかったのだ。私の生き方を肯定してくれる者に出会えたことが、そんな男と轡を並べて共に戦えることが、それが何よりも幸福に感じられたのだ。
幾度もの死線を潜り抜け、勝利の喜びを分かち合い、多くの時を共に過ごすうちに私はそのゴブリンに心惹かれるようになっていた。己の出自を恥じ、自身を肯定も出来ないその悲壮的な横顔がたまらなく胸を締め付け、愛しく感じてしまうのだ。分かっている。憐れみ程おこがましい感情はないと、それは理解している。だが、手を差し伸べたいと、彼の苦しみを取り払いたいと、どうしてもそう感じずにはいられないのだ。
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だがそれでも、現実というものは非情だ。
勇者をもねじ伏せ、人類をあと一歩というところまで追いつめた我々魔王軍。それに相対するは持てる限りの力を絞り出し、最後の決戦に挑まんとする王国の兵たちだった。戦端は開かれ、両軍の衝突は激闘の混戦へと進んでいく。
襲い来る刀剣を捌き、前線へ指揮を送る傍らにふと彼の方向を仰ぎ見た瞬間、私はその光景を見てしまった。
敵も味方も綯い交ぜな戦況、その混乱の一瞬を突いた一撃が彼の胸に達しているのを。
血反吐を吐き、膝から崩れ落ちる彼の元へ私は一目散に駆け出していた。仰向けに倒れ臥し、息も絶え絶えなその胸元には深々と剣が突き立っている。誰が見ても分かる、これでは助かる見込みが薄いことなど。
戦場に身を置く以上戦死者が出るのは当たり前のことだ。それがたとえ知り合いであろうと、仕方ないと、そう割り切るのが肝心なのだろう。だからこそ覚悟もしてきた。こうなることもあり得ることだと、そう乗り切る用意もしてきた。してきた、つもりだ。だがいざ現実として目の前にしてみればどうだ、私の心は何一つそれを受け入れられないではないか。
ああ、畜生、視界が霞む。辛いのは彼の方だというのに、私は無様に嗚咽を漏らし始めているではないか。だが、そんなことなどもはや眼中にもない。今はこの涙より、なおその胸から溢れ続ける彼の血潮の方が止まってくれないと困るのだから。
脈打つ鼓動と共に零れる紅き流血、その流れと反比例するように彼の体温は低くなり始めていた。嘘だ、嘘だ、噓だ。お願いだから止まってくれ。何度も心中で懇願しても状況は変わらない。応急処置も焼け石に水であり、彼の手を握り返す力は既に僅かばかりしか感じられなくなっていた。
せり上がる血の塊にむせながら、彼は今際の際の如く言葉を紡ぐ。
魔物という禁忌の存在を肯定してくれたことこそが彼らにとっての最大の救いになったのだと、故にこそ彼は私を愛していた。悲痛な叫びで愛を謳い、感謝の言を言祝いで、彼は1つの願いを声にした。
「そっと抱きしめて欲しいんだ。せめて死ぬ前くらい誰かの温もりに包まれていたいのだ。」
冗談めかしてそう言う彼の眼はすでに生を諦めたものだった。きっと期待はしてないのだろう。誰よりも、何よりも、自分自身をこの世で最も卑下する彼ならば無理もないことだ。
だが、恋をしていたのは私も同じだ。
ああ、応えてやるとも。こうして誰かに愛してもらえることが、どれ程幸福なことか。ならば私も同じ想いを返してやらねばなるまい。ギュッと抱きしめて、冷えゆく彼の僅かばかりの温もりを感じ取って、そして伝えてやるんだ。「私もあなたを愛しいと感じているのです。」って。
言葉で言い表せぬほどにに悲しく、苦しいだろうに、それでも彼は満足そうに笑い、静かに目を閉じた。
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先の戦い、後に『トゥルカンティエの戦い』とも呼ばれるこの一大決戦は魔王軍の圧勝により幕を閉じた。王国側の兵士のおよそ半数が捕虜となり、反撃の余力も失われた国王は遂に白旗を上げ、降伏することを選んだのだ。結果として人類は捕虜の返還を条件に、魔王軍の国家としての独立を承認したのである。
終戦、それがやっと訪れたのだ。
あの戦いを無事に切り抜け、独立宣言の場に居合わせれたことも有り難いことだ。こうして彼も私も五体満足で生還出来たのだから。
そう、生き残れたのだ。駆けつけた救護班による治療魔法がどうにか間に合い、彼は一命を取り留めたのだ。術師が言うには要因は私と彼の想いが通じ合えたこと、その一点に重要な意味があったのだと言う。
「貴方様と抱擁を交わしたからこそロードは強く生きたいと、そう願ったのです。ほんの数刻でもこの生を噛み締めていたいと、そんな未練があったからこそ彼は少しの間ばかり命の瀬戸際で踏み止まり続けたのでしょう。その少しの間があったからこそ、我々の治療が間に合った訳ですな。」
あまり鵜呑みにはできないが、それが事実ならば嬉しいことだ。愛だの恋だのと世の人は言うが、人の想いで奇跡を起こせたのならそれは素晴らしいことじゃないか。
我々は今、魔王による都市建設計画の補佐をしている。国家としてはまだ生まれたての魔族連邦、その取り舵も担わなければならない大役故に緊張も感じるが、それでも日々喜びを感じながら暮らしてゆけるのはやはり隣に並び立つあのゴブリンの存在が起因しているのだろう。
終戦後こちら側に残ることを決めた幾らかの元兵士たちと同じように、私たちは互いの想いの内をぶつけ合い、やがて結ばれることとなった。今にして思えばこれが『心が堕ちる』、という瞬間だったのだと私は最近になって理解した。
気恥ずかし気な彼の手をそっと握り、自宅の戸を開けば、二人の幼子が飛びついてくる。一人はゴブリンの、一人は人間の姿をしたその双子、彼らこそ己が腹を痛め、ようやっと産み落とした愛しい我が子たちだ。同じ血を受け継ぎながら、種族さえ異なる兄弟。その存在に不安を覚えることもある。容姿の違いから迫害を受けるかもしれない。あるいは種族の隔たりを受け入れきれず、骨肉の争いをしてしまうのかもしれない。それでも、私たちは彼らの将来が明るいものであることを期待したくなる。
今まで狩るか狩られるか、そんな関係だけが全てだった人と魔物はようやく国という枠組みによって対等になれたのだ。そんな新しい時代の足音が迫る今、二人にはその幸福を心の底から享受してもらいたいものだ。
ああ、だから私は祈るのだ。どうか愛しい我が子と、そして私たち夫婦の未来に幸あらんことを、と。
ここまで読んでくださったことに感謝です。
ご意見、ご感想お待ちしております。