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ユマの話

 船が地球を出てから約3000年、行き先であるケンタウルス座α星A星系まで残り3000年、中間点までたどり着いたという。だが俺にはあんまり関係が無い。俺はこの船で生まれ、この船で死ぬ運命にある。地球との通信に、往復4年の時間が掛かると言う現実は、狭いこの船内が俺のすべてということを決定づける。わずか1500人だけの社会、さてどう生きてやろうか、などと勇ましいことも考えないわけではないが、なにしろ俺は本日ハイスクールに入学したばかりのクソガキである。大して良い知恵も浮かばない。ハイスクールは、ジュニアハイスクールのときと街区が変わるので、これまでより早めに家を出ることになる。15分程度の話だが、慣れるまで少し面倒だな。

「よう、ケン、夏休みはどうだった?」

登校の途中でアランと待ち合わせていた。お前とは夏休みの間ずっと、つるんでたじゃないか。

「まあ、そう、ツンツンすんなって」

アランは俺の肩をポンと叩く。

「別街区の女の子で可愛いのがいるかもだぞ、張り切っていこうぜ」

お前は単純でいいな。



 ハイスクールエリアに入る。壁の色などはジュニアハイスクールのときより落ち着いた配色だ。アランとはまた同じクラスなんだな。腐れ縁とでも言うべきか。

「ケン、また後で。俺は日課があるから」

アランは、教室の前に陣取っている同じジュニアハイスクールだった女子の群れの方に向かった。やれやれどんな日課だよ。

 俺はいつでもサボれるように、教室の最後列の窓際の席に座ると決めているのだが、先客がいた。知らない娘だ、もう一つのジュニアハイスクールだったんだろう。頬杖をついて窓の外を眺めている。きりっとした顔だちと黒髪のポニーテール、アジア系だ。

「隣りの席、いいか?」

俺はその娘に声を掛ける。その娘はこちらを横目で俺を値踏みするように見てから、微かに肯く。

「俺はケン。西から来たんだ。これからよろしくな」

一応愛想良く声を掛けてみる。

「私はユマ」

娘は視線を窓の外に戻して、こちらも見ずに自己紹介をする。態度悪い、でも可愛い声だな。

 担任とおぼしき20代後半くらいの女性が教室に入ってきた。さあて新学年の始まりだ。お決まりの自己紹介タイム、半分は知り合いだからやりにくいが、まあ仕方が無い。俺の番になって、普通に自己紹介をする。

「西街区から来たケンジョー・フジタです。ケンと呼んでください。趣味はギターです。よろしく」

おざなりな拍手。ま、そんなもんだ。

 次は隣の娘の番だ。立ち上がった。

「ユマ・グランデです」

一言だけ言って座る。お前は女王様か?なんという愛想の無さだ。

「じゃあ係を決めますね。クラス委員の立候補はいる?」

担任となったサンドラ先生が言う。いるわけないよな、面倒だから。

「ユマちゃん、やれば?」

一番前の席に座っていた娘が、後ろを振り返って言った。

また窓の外を眺めていた隣の席に座る女王様は、その娘を軽く睨み付ける。教室の中に軽い緊張が走る。なんでこいつ、こんなに怒ってるんだ?

「ユマさん、やってもらえる?」

サンドラ先生が声を掛けた。

女王様は、小さく溜め息をついてから

「いいですよ」

と一言答えた。

「あともう一人、男子でいないかな」

先生からの追加注文だ。あんなのと組みたい奴なんかいるわけないだろ。

「じゃあユマさんの隣だし、ケンにやってもらえるかしら?」

えっ、なんで俺?まあひまだし、いいけど。

「お手柔らかに」

俺は隣に座る女王様に小声で言った。女王様はこちらも見ずに頬杖をついたまま小さく肯いた。こいつホントに態度悪いな。


 「ユマちゃん、また一緒のクラスだね」

休み時間に、ユマをクラス委員に推薦した娘が、ユマの席のところに寄ってくる。

「ケン、私はマリアよ、よろしくね」

おう、よろしくな。

「ユマちゃんは、すっごい頭良いんだよお」

マリアが俺に言う。へえ?

「それに美人だし、運動神経も抜群、面倒見も良いの」

え、こんなで面倒見がいいの??

「マリア、余計なこと言わないで」

ユマが会話をするマリアと俺の方を見て、初めて反応する。しかしこの愛想の無さはひどいな。俺から一言言ってやろう。

「あのさあ」

「なによ」

ユマが俺の顔をキっと睨み付ける。

「なんでお前そんなに怒ってるんだよ?クラスメイトになるんだし、もう少し愛想良くした方が良くないか?」

「別に怒ってなんかいないわよ。それにあんたに愛想良くしてなんかいいことあるの?」

おお、いきなり「あんた」呼ばわりかよ、さすが女王様。

「ユマちゃんはね、恥ずかしがり屋さんなんだよ」

マリアがニコニコ笑いながら俺に向かって言う。

「そんなんじゃないわよ」

ユマが怒った口調でマリアに反論する。

「はいはい」

マリアは笑って、じゃあまたあとでと言ってから自分の席に戻った。

ユマの小さな溜め息が聞こえた。


 小規模とはいえ、ハイスクールには自治組織として生徒会がある。クラス委員は自動的に生徒会の委員になる。まあ今のところ放課後はヒマだし、いいけどな。ところで生徒会ってなにやるんだ?優等生とは、ほど遠い俺には初めての経験だ。

 会議室に入る。先に来ていたユマの隣に行く、さすがに知らない奴ばかりだからな。他の学年とおぼしき生徒がユマに声を掛ける、ユマちゃん久しぶり、よろしくね。ユマが軽く肯いている。

 初会議が始まる。

「お前、有名人なんだな」

小声で隣のユマに俺は声を掛けた。

「姉貴が有名なだけよ」

ユマがこちらも見ずにメモを採りながら答える。そうなんだ?

「私なんか、おまけ」

ユマの口調に、はじめて感情を感じる。姉妹の間でも色々あるのかな。

 会議が終わる。やれやれ、さっさと家に帰ってギターの練習をしよう。俺が立ち上がると、ユマも同時に立ち上がった。意外に背が高いな。確かにすらっとした美人だ。

「あんた、背高いわね」

ユマが突然俺に言った。えっ?ユマ女王様でも他人に興味を示すことがあるのか?

俺は答える。

「なんの役にも立たないけどな」

「バスケのときとか有利じゃない?」

一応会話が成立するんだ?!

ハイスクールエリアをユマと並んで歩く。

「昔、俺は膝を怪我したから、残念だけど今はあまりバスケとか得意じゃない」

俺は言う。

「ギター弾くんだよね?」

ユマが尋ねる。へええ、ちゃんと聞いてたんだ。

「ああ、下手だけどな」

楽器はいいわね、隣を歩きながらユマが俺を見上げて言った。

やってみれば?と俺は言ってみた。

「昔、ピアノやってたのよ」

そうなんだ、じゃあ、また始めればいいんじゃない?

「気が向いたらね」

じゃあ私はこっちだから。また明日、と片手を挙げてユマは道を曲がって行った。そうか、女王様は人見知りなのか。


「あんたのケンジョーって、珍しい名前ね」

いつものように最後列の窓際の席に陣取ったユマが隣に座った俺に言う。本日は少し機嫌が良いらしい。

「ああ、先祖の名前をもらったんだよ。坊主の名前だそうだ」

俺は答える。

そして逆に俺も言う。

「ユマって言う名前も珍しいよな」

少しの沈黙の後にユマが答える。

「私はアジア系のクローンなの。だからその血筋にちなんだ名前を親が付けたのよ」

へええ、そうなんだ。俺も日本にルーツがあるそうだよ、名前もそう。

「生まれ変わりの素の人は、どんな人だった?」

俺はユマに聞いてみた。

クローンは、ハイスクール入学と同時に、自分の遺伝情報にアクセスできるようになる。同じクローンの先代情報には、普通は興味を持つ。

ユマは答えた。

「興味無いから、見てない」

にべもないお答えありがとう。

「私は私、だから」

ユマはこちらを軽く睨むように見て言った。そりゃそうかもね。

「あんたは、どうなの?クローンなの?」

「ああ、何代か前の兄貴は、大昔、有名なギタリストだったそうだよ。偶然だね」

俺は答える。

へええ、ユマが初めて興味を示す声を上げた。偶然にしては出来過ぎね。

好みとか似ているんじゃないかな、俺は当たり障りのない答えをした。

「ホントのことを言うとね」

ユマは小さな声で俺に言った。

「先代の情報を見るのは、自分の未来を見るみたいで、私は怖いのよ」

なるほど。わからないではないな。

「でも、私は私、じゃないのか?!」

俺は少し意地悪な気を起こしてユマに言った。

「他人が思うほど、私は強くないのよ」

ポツンとユマは言った。


 いつも俺の隣の席に陣取っている女王様は、ある日お休みをした。その次の日も。風邪でも引いたかな?

クラスの女子軍団からうわさが広まる。

 ユマちゃんは、ハイスクールに来ないんだって。そんなことできるの?義務教育じゃん。そもそも、なんであんな優等生が学校に来たくないとか、どうゆうこと?なんかあったのかな。いじめとは無縁だし、別にふさぎ込んでいた様子も無かったし。私なんか先週ユマと一緒に遊んだよ?!なんにも言ってなかった?うん、普段と変わり無かったよ。メッセもスルーされてる。電話掛けても出ないよ。


 ほう?クソ生意気な女王様でも、いないと気になるものだな。もしかしたらほんとにサボりかな?だったら俺の専門分野だし、行けるところは、この船の中で限られている。次の選択授業は休講だし、ちょっと探してみるか。 いくつか候補はあった。美術館、大学の図書館、あとは夜、船内では数少ない飲み屋となる南街区のカフェバー、中央公園の隅のベンチ。まあ、どこも最終的にはバレる場所ではあるのだけど、自分の部屋に引き籠もっているよりはマシだろう。散歩がてら行ってみるか。


 私は自分の殻を破りたかった。いい子、優等生、なにをやらせてもソツが無い。大人の期待を裏切らない、生徒会の委員長。みんな勝手に私のイメージを作って、私に押しつけてくる。もうたくさん。学校?気が向いたら行ってやる。きっかけなんて無いのよ、ずうっと思ってたことを実行しているだけ。


 ユマは大学の図書館に入って、柱の死角になった隅の席に陣取った。ここならしばらく、誰からも話し掛けられないだろう。お姉ちゃんも、午後は実験だから図書館には来ない。

 いつの間にか寝てしまっていた。窓の外を見ると夕方の気配だ。ずいぶん長い間寝ちゃったな。そろそろ帰るか。しかしこんな風に学校をサボっただけじゃ、どうしようもないわね、と私は思った。これじゃあ単なる遅い反抗期というか、典型的すぎよ。しかしどうしたら良いか、いい知恵も浮かばない。参ったな。


「おはよう」

不意に呼びかけられて、私はびっくりして飛び上がった。柱の向こうからケンがにやりと笑いかけてきた。

「随分よく寝てたな、起こせなかったよ」

「なんで、あんたがここにいるのよ」

私はケンに言った、腹立つなあ。

「古いことわざで、『蛇の道には蛇』と言ってね」

ケンが答えた。

「その道の専門家は、その道をよく知っているものだよ、俺はサボりのプロだからな」

サボりのプロってなによ、私は思う。しかしよくここを見つけられたな。

「あんた私を探してたの?なんで?」

私はバツの悪さもあって少し口調を強めて聞く。

「ああ、特に理由はないよ」

ケンがのんびりと答える。

「クラスの女子連中が連絡取れないって大騒ぎしてたし、俺はひまだったから」

ああ、なるほど。

「途中まで一緒に帰るか?」

ケンが机から立ち上がりながら言う。

そうね、もう夕方だしね。

 黙ったまま、大学の外に出てしばらくケンと一緒に歩く。街区の分岐点にさしかかった。

じゃあまたな、ケンは片手を挙げて西街区へと歩いて行った。

なにも私の事情とか聞かないんだ。優しいんだか、優しくないんだか。


  次の日の朝も、登校路の途中で、音声AIに携帯デバイスで尋ねる。

「お父さんとお母さんとお姉ちゃんは、もう出かけた?」

「はい、出かけましたよ」

よし、戻って私服に着替えよう。

部屋に戻って着替える。

「ユマ、遅刻しますよ」

私は、音声AIの忠告を無視する。防犯カメラとかで追いかけるのは簡単だから、逃げ切れないのは分かってるんだけどね。まあ一応言っとくか。

「ねえ、ルイーズ」

「はい、なんでしょう」

音声AIが答える。

「私、今日も学校サボるわ。追いかけないでね」

音声AIは、私の言葉がすぐには理解できなかったのか、黙り込む。

珍しいな。お説教でも始めるかと思ってたのに。

「じゃあ、ちょっと出掛けてくる」


隅のテーブル席に座る。

「いらっしゃい」

ブレンドコーヒーをお願いします。

「はい、ちょっと待っててね」

古い古い古いカフェバーである。地球を出発したときからある、という話を聞いたことがあるので、かれこれ3000年以上の歴史があることになる。恐ろしい。もちろん何度も改装され、店主も何代目か分からないほどだろうけど。

「見かけない顔だね」

コーヒーを持ってきた店主とおぼしき女性が、私に言った。

「東街区に住んでいます」

私は正直に答えた。

「サボリかい?」

その女性が私に尋ねる。

やれやれ。私は無言で小さく肯く。

そりゃまあ、こんな時間に私の年代のガキがウロウロしているのは、学校をサボっている以外に考えられないわよね。

女性は私の顔をのぞき込んだ後に、ふーん、と言っただけでカウンターの向こうに引き揚げた。お、見逃してくれるのかな。


しばらく本を読んでいると、カウンターの向こうから声が掛かった。

「名前はなんていうの?」

ユマと言います。

「ユマちゃんね、よろしく。私はアディティよ」

私はボソボソと、よろしくアディティと呟いた。

「学年は?」

私は溜め息をついてから、第4学年と、答えた。

「あら、私の末の娘と同学年ね」

アディティは言った。え、そうなんだ。

「末の娘は、アイラというのよ」

知らない子だ。ジュニアハイスクールが別だったんだな。

そのように、私は伝える。

「じゃあ、そのうちアイラに会ったら、仲良くしてやってね」

それだけアディティは言って、会話を打ち切った。

やれやれ。


昼飯時になって、ランチの客が来始める。これはあまり居座ると迷惑よね。

私は別の場所に移ることにした。

アディティは、お釣りを私に渡しながら言った。

「あんまり親に心配掛けるんじゃないよ」

私は小さく肯いて、店を出た。


「ねえ、ルイーズ」

家に戻って、部屋の音声AIに話しかける。

「はい、なんでしょう」

音声AIが答える。

「あんたチクらなかったでしょうね?」

AIを脅してもしょうがないんだけど。

「学校から問い合わせがあったので、風邪で寝込んでいる、ということにしておきました」

あらルイーズ、気が利くわね。AIらしくないわ。

「ユマにも色々悩みがあるのでしょうから」

うーん、AIにまで気を遣ってもらって、どうするんだ、私。


 次の日も、予定通り私は学校をサボる。

もう一日くらい、ルイーズも見逃してくれるわよね。

じゃあ出掛けてくる、私服に着替えて、ルイーズに声を掛けて家を出る。

二日続けて、朝っぱらから、面の割れているカフェバーには行けない。

さてどうしたものか。


 中央公園の隅っこに行ってみる。広くはないのだけど、本当の草と土があるというのは、新鮮に感じる。生きているって感じ。木の幹に背中をあずけて座る。遊歩道とは逆方向に足を投げ出す。これなら咎められにくいわよね。午前中はここで過ごそう。

 一時間ほど過ぎた頃だろうか、突然背後からヘッドロックで首を絞められる、苦しい!これは間違いなくベティ姉ちゃんだ。放して!ギブアップ!!

 私の隣に座ったベティ姉ちゃんが尋ねる。

「ユマ、なにサボってんのよ?」

まあ、当然の質問だな。

「放っておいてよ。それよりなんでお姉ちゃんがここに来たの?」

と、私は答えた。

ベティ姉ちゃんが言う。

「ルイーズが、私に相談してきたのよ」

あのポンコツAI、部屋から放り出してやろうかしら。

「まだ父さんにも母さんにも、学校にもサボりはバレていないのだから、ルイーズに感謝なさい」

ふむ、感謝はしないけどな。

「で、ユマ、どうしたのよ?」

どうもしないんだけど。

「黙ってないで、なんか言いなよ?」

再び、姉ちゃんがヘッドロックをしてくる。わかった、わかった、放して!


「あのね、つまらなくなったのよ」

私は言った。

「全部先が見えてしまったというか」

うーん、姉ちゃんは唸る。

「別に学校や友達が嫌いになったとかそういうのじゃないの」

ベティ姉ちゃんは黙り込み、足をあぐらに組み直して、頭をボリボリ掻いてから、膝に頬杖をついて私の顔を見つめる。そして大きな溜め息をひとつついた。

「わかるんだけどね」

姉ちゃんは言う。

「私もそう思っていたから」

へえ、そうなんだ。

「ありがちというか、この狭い船の中だと当然の感想よね」

でしょ。

「わかった」

ベティ姉ちゃんは、そう言って、服に付いた芝生を払いながら立ち上がった。

「じゃあ、もう少しサボってな。私も色々考えてみる」

お姉ちゃん、見逃してくれるの?

「見逃すと言うか」

少し間をおいて言った。

「執行猶予というか」


 ユマちゃんずっと来ないのかと思った、良かった。髪どうして切っちゃったの?ユマはショートってイメージじゃないよ。なんで学校来なかったの?風邪?大丈夫?うるさい、うるさい。私は私。全然変わってないのに、なんで表面だけで私を判断するの?


「意外に元気そうじゃないか」

俺は数日ぶりに隣の席に戻ってきたユマに話しかけてみた。こちらには視線を向けず、ふん、と声にもならない音をユマは出した。まあこれなら大丈夫だな。

「なんか面白いことあったか?」

俺は聞いてみた。経験上、あまりないものだが。

窓の外を眺めながらユマは、別になにも、と言った。ま、そうだろうな。

「ま、なんかあったら言えよ。俺はサボりの先輩だからな」

と言ってみた。反応は当然ながら無かった。


 放課後、ユマは、再び南街区のカフェバーを訪れる。「ボヘミアン」というカフェバーの入口に設置された看板をちらりと眺めながら、本当に放浪者=ボヘミアンみたいね、と私は思う。ドアを開ける。お客はいない。鈴がチリリンとなる。いらっしゃいませ、との声が掛かる。あれ、若い声だ。今日はアディティじゃないのかな。私と同じくらいの年齢の女の子がカウンターに居た。


 「ブレンドコーヒーをお願いします」

私は、その子に注文をして、本を読み始めた。ここは居心地が良いな。

「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」

しばらくしてから女の子が、コーヒーを運んできた。

「ありがとう」

私は答えた。

「あなたユマ、だよね?」

コーヒーカップを私の前に置いてから、女の子が私の顔をのぞきこんで尋ねた。

私の名前をアディティから聞いたのかな。

「私はアイラ。お母さんから名前は聞いてるでしょ?あなたとはハイスクールで同学年よ。よろしくね」

くりくりとした大きな黒い瞳を悪戯っぽく輝かせながらアイラは私に言った。

「私はユマ」

私はアイラに答えてから、また読書に戻った。。


 アイラはしばらく黙ってカウンターの中で仕事をしていたが、あっそうだと小さな声を挙げてから、私に言った。

「ユマは純アジア系に見えるけど、クローン?」

ええ、そうよ。

「先代の情報とか見た?」

いや、興味ないし。

「見てみたら?私は天然物なので、そもそも先代がいないから羨ましいよ」

え?なんで?

「自分にどういう可能性があるかわかるじゃん、遺伝子レベルで同じなんだから参考になるでしょ」

でも、別人格じゃん?

「だからやり直しが利くというか、輪廻転生みたいなものよね」

そう言うと、アイラはニコッと笑って立ち上がり、コーヒーのおかわりいる?と尋ねた。


 ユマちゃん、おはよう。風邪大丈夫?熱とか出たんでしょ。先生がさ。演習室行かなくちゃ。次は体育だよ、ユマちゃん見学?ねえ、ここ教えて。明日、遊びに行かない?隣のクラスのアイラの占いって当たるのよ。じゃあね、ユマちゃんまた明日。


 図書室の閲覧ブースで自分の遺伝情報を見てみる。私の前に4人の「私」が存在したことを知る。気が遠くなるくらい昔に生きた人達だ。第一印象は、みんな私に顔がそっくりだということ。まあ当たり前ね、双子だもの。髪型はさまざま、でも制服はあまり変わっていないのね。みんなこの船で生まれ、死んでいった。私と同じような悩みを持っていた子もいるのかな。一番最近で1000年前か、その前は2000年前、本当に眩暈がするほど昔ね。データベースの無味乾燥なプロフィールだけからは、あまり多くの情報は得られないが、検索をする手がかりにはなる。


「ねえ、ルイーズ」

「はい、なんでしょう」

音声AIが答える。

「『私』は、随分いろんなことができるのね」

音声AIは、黙って聞いている。

「なにが言いたいか、って言うと」

私は続ける。

「私と同じ遺伝子を持っていた人たちは、いろんなことにチャレンジしてたっていうこと」

ベッドに寝ころんでユマは思った。学校サボっているだけじゃあつまらないし、自分の納得いくものが見つかるまで、色々試してみようかな。


「お姉ちゃん、部屋入っていい?」

「いいよお」

ベティが、答える。

「どした?」

「なんというか」

私は部屋に入って言う。

「心配掛けてごめん」

ああ、とも、うう、とも言えない音をベティはソファの上から発する。

「私、色々やってみようと思うの」

私は、椅子の背を抱えながら脚をぶらぶらさせて宣言する。

「『私』がやったことのないことを試してみようかなって」

「いいんじゃない」

ベティの答えは簡潔だった。


「今日も来たんだ」

俺は、隣の席に座っている女王様に声を掛けてみる。

「来ちゃ悪い?」

相変わらず窓の外を眺めながらだが、速攻で怒り口調の返事が返ってきた。

「俺は、隣りに美人がいると素直に嬉しいよ」

と軽く言ってみる。

ユマはパッとこちらを向くと俺の顔を睨みつけて、

「バカじゃないの」

と一言言って、また窓の外を向く。

おお、元気でなにより。


 午前中の授業が終わった途端女王様は、速攻で姿を消した。午後はサボるつもりだな。若干気になるな。アランのおしゃべりを受け流しながら、昼飯を喰った後、俺も授業をサボることにした。南街区の「ボヘミアン」に行ってみることにする。だいたい居場所のない奴は、あそこに行くから。


 図星だった。やっぱりユマはアディティの店に居た、行動が分かり易い。

ユマは隅のテーブル席で反対側を向いて本を読んでいる。俺はカウンターでアディティにブレンドをブラックで、と注文する。

「最近は真面目にやってるのかい?」

アディティが俺に尋ねる。

「俺はいつだって大真面目だよ」

とコーヒーを持ってきたアディティに小声で俺は答える。

「真面目の定義が違うようだね」

とアディティが言った 。


 しばらく時間が経つ。相変わらずユマは俺には気がつかないようだ。カウンターで俺は、いつもの立体パズルをしてヒマをつぶす。BGMが途切れた。空調の音だけ低く響く。故障かな?アディティが俺の方に近づいてきて小さな声で言った。

「久しぶりにギター弾いてみてよ。随分上手くなったって聞いたよ」

ん?いいけど。

「どんな曲がいい?」

そうだねえ、アディティが小首をかしげてからにやりと笑って囁いた。

「あそこのお嬢さんを振り向かせられるようなのを、弾けるかい?」

やれやれ女王様のお気に召す曲ですか。がんばってやってみましょう。

アディティに手招きされて、カウンター裏にアコースティックギターを取りに行く。ここで弾くのは久しぶりだな。

 軽くチューニングをしてから、カウンター横の小さなステージにある椅子に腰掛ける。

 

 まだ夕方前の中途半端な時間なので客は来ておらず、聴衆といえるのはアディティと、こちらに背を向けているユマだけだ。古い古いジャズのスタンダード ”It’s only a paper moon” を弾き始める。

 ユマが、後ろを振り返ってこちらを見てから目を大きく見開く。俺はにやりと笑い返して演奏を続ける。

二番からは歌も付ける。“・・・How happy I would be, if you believed me.”


 さて次はなにを弾こうかな。これまた古い古いBeatlesの曲と行きますか。

「では、Beatlesのナンバーで”Black bird”です」

ユマはこちらに向き直っている。俺はイントロを弾き、低く歌い始めた。

”Blackbird singing in the dead of night, ・・・”

演奏が終わるとパチパチとアディティが拍手をしてくれた。

「上手くなったじゃない」アディティがカウンターから声を掛けてくれる。

ユマは黙ってこちらを見ている。


「ええと最後は、この船での俺の遠い遠いご先祖様のヒット曲から ”Trick”。インストで行きます」

 静かなイントロから、煽るようなAメロ、転調から静かなBメロへ、サビの繰り返しのメロディはゆっくりとしたテンポで。不器用な男女の物語。弾き終わるとユマからも小さな拍手が送られた。

 立ち上がってお辞儀をして、ギターをアディティに手渡す。良い演奏だったよ、とアディティが言う。俺は思わず照れ笑いをして頭を掻く。

「なんでケンがここにいるの?」

ユマが俺に声を掛けてきた。

お?「あんた」から名前呼びに昇格だな。

「そうだな、サボり仲間がいないかなと思って寄ってみた」

俺は答えてみる。

ユマが渋い顔をする。

アディティが、ケーキをカウンターに2つ運んできた。

「ケンに演奏のお礼だよ、ユマちゃんもこっちに来て食べなよ」

「生ギターの演奏って初めて聞いたわ」

ユマが俺の隣にきて、ケーキをつつきながら言った。

「ギターを弾く奴自体が少ないからな」

俺は言う、「絶滅危惧種だよ」

「良いものね」

ユマがにっこり笑う。おい、その笑顔は結構反則だぞと、俺はケーキを飲み込みながら密かに思う。

「今日もサボりかい?」

アディティがユマに言う。ユマは、今度は決まり悪そうに笑う。

「そこの坊主みたいな不良になっちゃダメだよ」

俺の方にあごをしゃくってアディティは言う。不良って俺のこと?「そうそう」ひどいな。

「それより、ケンはなんでギターをやろうと思ったの?」

ユマが俺に尋ねてきた。

「女の子にモテるために決まってるじゃん」

と俺が即答すると、ユマがイヤそうな顔をして言った。

「なんでケンは、いつも他人に嫌われそうな軽い言い方をするの?」

「ケンは照れ屋なんだよ」

アディティが助け船を出してくれた。

「そうそう俺は照れ屋なんだよ」

俺が続けると、ユマはちょっと間をおいてから、おかしそうに笑った。


 アディティは空いたケーキ皿を片付けると、

「コーヒーのおかわりはいる?」

と俺とユマに聞いてきた。

ユマと顔を見合わせた。そして俺がお願いします、と言った。

「じゃあ二人分ね、ちょっと待ってて」とアディティはカウンターの奥に引っ込んだ。


「ケンは、よくサボるの?」

とユマが俺に聞いてきた。

「最近は、昔ほどサボらないよ」

俺は答える。

「サボるとアランがうるさいしな」

「アランは面倒見が良いのね」

ユマが笑った。

「あと、今、学校で隣に座ってる美人に会いたいからな」

と俺はユマの方を見ずに言う。

ユマは俺の軽口を受け流して、俺に聞いてきた。

「なんでケンはサボるの?」

正面からユマの顔を見る。真剣な表情だ。ここは真っ直ぐに答えるところだな。

「すべて予定調和なのが不満で、退屈だからだよ」

俺は答えた。そしてユマに尋ねた。

「お前はどうなんだよ?なんで急に優等生を辞めたのさ?」

「お前、じゃなくて私の名前はユマよ」

ユマは少し怒り口調だ。

「おお、悪い」俺は言い直した。

「改めてきくよ、ユマはなんで最近になってサボってんだよ?」

「フワフワした感じがイヤになったのよ。ちゃんとした居場所が無いというか」

ユマは頬杖をついて言う。

「なにかきっかけとかあったのか?」

俺は尋ねた。

「別にない」

ユマは答える。

「イヤになったのよね、なんか全部ウソばっかりで」

「ウソ?」

俺は聞き返す。

「全部よ、全部ウソ。地球もケンタウリも全部、幻みたいな存在。結局、私もいつか結婚して子孫を残して死ぬだけ」

ユマは呟くように言ってから、コーヒーを一口飲んだ。

「生きている意味が欲しい、ってことか」

俺は尋ねた。

ユマは、パッとこちらの方を見て肯いた、そう生きる意味が知りたいの。

真面目な子だなと、俺は思った。自分の生き方にいい加減でありたくないんだな。

じゃあ、俺なりの考えを正面から真摯に答えよう。

「決められた『生きる意味』なんか無いと思う。自分で自分の生きている意味を作るんだよ、たぶん」

少しの沈黙の後、ユマは

「難しいことをいうのね」

と呟いた。

「簡単なことだよ」

俺は答えた。

「どういうこと?」

ユマは俺に尋ねる。

「俺と付き合えば、生きている意味がわかるよ」

俺は軽く答える。

ユマは穴が開くほど俺を見つめてから、顔をしかめて

「ケンのそういう軽薄なところ、私嫌い」

と言った。

俺はわざとらしく肩をすくめる。ま、そりゃ、当然だろうな。

アディティがコーヒーのおかわりを持ってきた。

「さあ、コーヒー飲んだら二人とも家に帰りなよ。あと、これからはあんまり学校をサボっちゃだめだよ」


「アイラ、占いするんだって?」

科学の時間で一緒になったアイラの隣に私は陣取って小声で尋ねる。およそ科学の時間に似つかわしくない話題だわ。

「うん、するよ」

と、アイラは答える。

「当たるの?」

間抜けな質問と思いながら私は聞く。

「当たるわよ」

アイラは私に黒い瞳を向けて自信たっぷりに言う。

ふうむ。

「今度、私を占ってよ」

私はアイラに囁く。

「じゃあ放課後、店に来て」

と、アイラはニコッと笑って答えた。


 放課後、ユマは「ボヘミアン」に寄った。店には、年配の女性客が一組いるだけだった。カウンターにはアディティがおり、

「ユマ、いらっしゃい」

と声を掛けてくれた。

「ブレンドコーヒーをお願いします」

ユマは注文をして隅のテーブル席に腰を掛けた。アイラはまだかな。


「そろそろアイラも戻ってくるよ」

アディティおばさんが、コーヒーをテーブルに置きながら言った。

そうか学校から一緒にここに来れば良かった、とユマが思ったときに、アイラが現れた。どこかの民族衣装に身を包み、ベールで顔を覆っている。ユマの前の席に座った。なんだか本格的だな、いつか動画で見た魔法使いみたいだ。

「着替えていたの、遅れてごめんね」

アイラがユマに言う。

「いいけど、その衣装必要なの?」

ユマは尋ねた。

「こうすると雰囲気出るでしょ」

アイラは少し笑ってから、真面目な顔になって、じゃあ始めるね、と言った。


アイラは、様々な絵が描かれたカードを一揃い取り出す。

「これはね、タロットカードよ。聞いたことはあるでしょ?これでユマの過去、現在、未来を見定めるの」

アイラは深呼吸をしてカードに集中する。ゆっくりとアイラはカードをシャッフルを始める。時々カードを3つの山に分けてから再びまとめたりした。店の空調の音が低く響く。そうこうしているうちに、アイラはカードを切る動作をやめて、3枚のカードを選び、順番に左から表へ返して並べた。カードの絵柄を見入る。やがて、アイラが語り出した。


「一番左のカードは過去を示すの。「死神」の逆位置ね。ユマの願望は、抜本的な変化。逆位置は、再生、生まれ変わりを意味するわ。クローンのユマには、なんだかぴったりな過去ね」


おお?!


「真ん中のカードは現在を表すの。カードは「太陽」の逆位置。ユマの願望は、自分の活動分野で認められたいという気持ち。逆位置は、行き当たりばったり、計画性無し。我が儘、当面なにも解決しない、という意味」


わああ、私の現状をピタリとあらわしているな、ユマは心底驚愕した。アイラは続けた。


「一番右のカード未来を暗示するの。カードは「恋人たち」の逆位置。ユマの願望は、ジレンマから脱したいという気持ち。逆位置は、暴走、アンコントローラブル、逃避、失敗を意味するわ」


参ったわね、とユマは思う。私は、一体どうすればいいんだろう?


「まあ、この方法で占える未来は、せいぜい1ヶ月先くらいまでなので、とりあえずカードの教えに逆らわないように、無茶をせずに大人しく過ごせばいいんじゃない?」

アイラはベールの奥からユマの目をじっとのぞき込み、静かに微笑みながら言った。


「ケーキ食べるかい」

アディティがふたつのケーキをユマとアイラの席に持ってきた。

「占ってもらって、どうだった?」

アディティがユマに尋ねる。

「あまりにも言い当てられている気がして」

ユマは言葉に詰まる。

「ま、占いは当たるも八卦、当たらぬも八卦っていうからね」

アディティは小さな声で笑いながら、ユマの肩をポンと叩いて、カウンターに戻っていった。

ユマはアイラに尋ねる「八卦ってなあに?」

「さあ?私も知らないわ、でも」

アイラは答える、

「占いは当たったり、当たらなかったりする、っていう意味だと思う」

ふうん。

「占いは当たっても、当たらなくてもいいんじゃないかなって、私は思うの」

アイラは続ける。

「占いで告げられた情報を活かすように、その後を過ごせばいいんじゃないかなって」

占いをしておいて無責任なのだけどね、アイラは、ベールを外してケーキを一口食べながら笑って言った。


「ねえ、お姉ちゃん」ユマはベティの部屋の椅子に腰掛け、脚をブラブラさせながら尋ねた。

「どした?」

ベティは、ベッドの上に寝っ転がりながら携帯デバイスを弄くっている。

「占いって信じる?」

ユマは尋ねる。

ふん、という音を立ててからベティは断言する。

「私は信じるね」

え、そうなの?エンジニアとか科学者の卵なのに??

「彼氏ができるって占いが出た次の週に告られて、裏切りってお告げが出た翌日に二股されているのを知ったら、そりゃあ信じるよ」

生々しいな、どうも。

「で、どうしたの?」ユマはベティに尋ねる。

「ひっぱたいて、別れたわ」

ベティはそう言ってから、携帯デバイスを横に置いてベッドの上で、ううんと唸りながら伸びをした。

「私ね、色々試してみようと思っていたんだけど、迷走しているだけだって占いに出ちゃったの」ユマは小首をかしげる「私、どうしたらいいかわかんなくなっちゃったよ」

ベティは、起き上がってベッドの上であぐらをかき、左手で頭を掻いてから、ユマに向き直って言った。

「別に迷走したっていいんじゃない?それをどう活かすかは、ユマにかかっているんだから」

ベティはさらに続けた。

「一生懸命、迷走すればなにか得られるものもあるでしょ」

「まあ、そうなんだろうけど、一生懸命やるには根拠が欲しいのよ」

ユマは宙を眺めながら、半分独り言のように言った。

「『禅マスター』なら、今、この瞬間を生きるしかないね、とか言いそうだわ」

ベティが応じる「でも、それが一番難しいのよね」

え、お姉ちゃん『禅マスター』のところへ相談に行ったことがあるの?

「私だって、色々悩むのよ」

そう言って、照れくさそうにベティは、また頭を掻いた。


 当初、船には夫婦者以外は乗り組まなかった。250組、500人のアダムとイブである。なにしろケンタウルス座α星A星系まで、6000年以上命を繋いでいく旅であるから、独身の聖職者が乗り組む隙間はなかった。しかし、船内の長い歴史の中では、様々な宗教の指導者が生まれた。ユマの生きるこの時代にも、『禅マスター』として知られる老指導者がいた。人々に瞑想法を教えており、悩み相談などを引き受けるカウンセラーでもあった。ユマは、その『禅マスター』に相談を申し込んでみた。


 「いらっしゃい。どうかしましたか?」

剃髪した老人がにこやかにユマを迎える。

名前を名乗ってからユマは質問をした。

「私がこの船の中で生きる意味ってなんでしょうか?」

老人はユマの顔を覗き込んでから、ゆっくりと答える。

「船の中だろうが、どこであろうが、生きていることに意味なんてないですよ」

なんとまあ、ユマは思う。じゃあ、私はどうしたらいいわけ?

「じゃあ、生きていても仕方がないと言うことでしょうか?」

ユマは尋ねた。

老人は、不思議そうな顔をしてから、ユマに言った。

「そんなに短絡的にならなくて良いのですよ。それよりなんで生きることに意味が必要なんですか?」

真っ正面から、そう言われると困るんだけどな、ユマは思う。

「なんか根拠が欲しいんです」

少し考えてからユマは答えた。

老人はにこりと笑って、ユマに答えた。

「教科書的に答えれば、根拠となるべきものはない、諸行無常、諸法無我ですから」

そして続けた。

「でも、それはユマさんが求めている答えではないのでしょうね」

そうなの、私は納得したいの。

老人はユマに言った。

「しばらくユマさん自身で探してみてから、またここに来てみてください」


「最近なんか面白いことあったか?」

俺は、隣の席に陣取って窓の外を眺めている女王様にお伺いを立ててみた。

「ない」

短い答えが返ってきた。そりゃそうだろな。

「あのさ」

ユマがこちらに向き直って俺に聞いてきた。「ケンはどうなのよ?」

どうだろう?俺は自問自答してみた。特に面白いことは無いが。

「ユマと会話をしているのは、少し面白いな」

と言ってみた。

「どうしてよ?」

なんかユマ様は少しお怒り気味だ。

なんでだろうな、なんて答えようか。

「よくわからないけど、なにかを変えたがっている奴は、話していて面白いからな」

俺は正直に答えた。ユマは視線をそらして、ふうん、と呟いた。


 「アメリアは、この船で生まれて、この船で死んでいく人生に不満は無い?」

ユマは隣に座ったアメリアに聞いてみた。放課後のだらだらした喫茶店での話題には似つかわしくないのは承知の上での質問だった。

「そりゃあ、不満よ」

アメリアは、ジンジャーエールを飲みながら即答する「でもしょうがないじゃん」

そうか、やっぱり不満なんだ。

「ユマちゃん、どうしちゃったの?なんかあったの」

前の席に座ったシャーロットが尋ねる。

いや、特になにがあったわけでもないんだけどね。

「ユマちゃんは可愛いんだし、良さげな男子でも引っ掛けて、あちこち遊びに行けばいいじゃない?気が紛れるよ。ケンとかどうよ?結構格好いいし、ユマ仲良さそうじゃん」シャーロットの隣に陣取るマリアからのアドバイスである。やれやれ。

「そうだ、なんでユマちゃんは髪切った?長い方が絶対似合うよ」

シャーロットからの突っ込みが入る。

「でも、ま、ユマちゃんのショートはショートで、美少年っぽくて需要はありそうだけど」

誰のどんな需要だよ、なんと反応したらいいものやら。


「ねえ、ルイーズ」

ユマは日記を書くのに飽きて、落書きをしながら音声AIに声を掛ける。

「はい、なんでしょう」

音声AIは答える。

「みんな不満と折り合いを付けながら生きてるみたいよ」

ユマは言う。

「そうですね」

音声AIは言う「でもユマは納得していないみたいですね」

そうなのよ。

「正解は無い、とは思いますけど」

音声AIは続けた、「走りながら考えてもバチは当たらないのではないでしょうか」

およそAIらしくない回答ね。


 「おい、ケン」

アランが寄ってきた。

「ちょっと相談に乗ってもらいたいんだが」

なんだよ。アランは外を指さす。ん?ここじゃだめなのか?

 「ストレートに言おう」

アランは喫茶店の隅で話し始めた。

「俺はマリアが気に入った。付き合いたい」

いいんじゃないか、明るい可愛い娘だし。で、なんで俺にその話をする?

「まずはダブルデートを申し込みたい、いきなり一対一で告って断られるのはキツい」

ほお、軽薄なアランが 珍しい。本気なんだな。

「ああ、結構本気だ。だからまずは慎重にお友達からだ」

アランが厳しい顔つきで言う。

わかった。でも再度問おう、なんで俺にその話をする?

「ユマとマリアは仲良いだろ?そういうことだ」

なるほど、マリアはユマのところに来ておしゃべりをすることが多い。そこにアランが行って、俺を巻き込んで遊びに誘うということだな。

「断る」

俺は言った、どう考えても面倒だ。ユマは常に御機嫌斜めだぞ、酷い目に遭うこと必定、なぜユマ女王様を誘わねばいけない、他の娘じゃダメなのか?

「ケン頼むよ」

アランが懇願する。

「マリアはユマが好きだから、一緒に遊びたがってるんだよ。そんでユマが話す男子といったら、お前くらいしかいないだろ」

そう言えばそうだな。あの仏頂面と毒舌に恐れをなして、他の男子は寄り付きもしない。やれやれ、わかった。俺に失うものは無いしな。


 マリアがユマのところに寄ってきておしゃべりを始める。新しくできたパンケーキ屋がどうのという他愛もない話題である。女子はどうして甘い物が、ああも好きなのか。アランが近づいてきた。おい、パンケーキ屋はよしてくれよ、俺は甘い物は苦手なんだから。

アランがマリアに尋ねる。

「そのパンケーキ屋、どこにできたの?」

あちゃあ、やっぱりその話題から始めるのかよ。

「北街区よ」

マリアが愛想良く答える。

「先週、開店したの。いつも行列ができているって」

「へええ、美味しいのかな?」

アランが続ける。その流れ、やめてくれ。

「みたいよ。ユマ、今度行かない?」

マリアがユマに話を振る。ほう、女王様は甘い物食べるのか、意外だ。

「俺も行きたいな」

アランが全力で絡む。やめてくれ。

「へえ、男子なのに甘い物に興味あるの珍しいわね」

マリアが少し驚いた様子だった。

「もちろん、私はいいけど」

「ケンも興味あるよな」

すかさずアランが俺に話を振る。ここで興味ないと言ったら、一生恨まれそうだ。しかたない、ああ、とも、うん、とも付かぬ音を出してみる。

「ユマはどうする、一緒に行く?」

マリアがユマに聞く。

「いいよ」

ユマが簡潔に答える。アランの顔が一気に輝く。

「おう、じゃあ、いつ行こう?」

やれやれ。


「ケン、甘い物なんか食べるの?」

生徒会の会議後の帰り道、ユマが俺に尋ねる。

まあね、とあいまいに俺は答える。

「なんかイメージと違うわね」とユマが俺に言う。

「ケンがパンケーキを食べている姿なんか想像できないわ」

ユマはそう言って、こちらを見上げてちょっと笑った。

「そうか?」

笑うと可愛いんだな、俺は少し焦ってしまった。


 パンケーキ屋の近くにあるコミュータのターミナルが待ち合わせ場所だった。土曜日のお昼時ということで、それなりの人出があった。

「恩に着る」

アランが俺に拝まんばかりの感謝をする。

「いや、別に俺はなにもしてないし」

俺は言った。

「ただし後で埋め合わせはしてもらうぞ。俺は甘い物は苦手なんだ」

俺は小声でアランに言った。


「お待たせ!」

マリアがコミュータから降りてきて、明るく声を掛けてきた。

「あれ、ユマは?」

アランがマリアに聞く。

「もうすぐ着くって、さっきメッセがあった。歩いてくるって」

マリアが答える。

私服はずいぶん可愛くしてるな、マリアを見て俺は思う。随分制服のイメージと違うな。ユマはどうなんだろう、私服姿は、ほとんど見たこと無いからな。

「ごめん、待った?」

後ろから、ユマの声が掛かる。

デニム生地の服で身を包んだボーイッシュな出で立ちだ。へえ、普段こんな格好してるんだ。この前、ユマがサボっていたときに図書館で見た感じと随分違うな。まあ、あのときはユマの髪長かったしな。これはこれで似合ってる。

「じゃあ行こう!」

マリアが元気よく先導する。

「なんか、ユマ、男の子みたいだな」

俺はユマに言う。

「今、髪短いからね」ユマはこちらを軽く睨んで答えた。

「スカートとか似合わないし」

そして付け加えて言った。

「それより、ケンは売れてないバンドのギタリストみたいよ」

売れてない、は余計だな。


「思ってたよりも混んでなかったわね」

席に着いたマリアが笑う。

いや、30分以上待ったんですけど。

「しかし、待った甲斐があったというもんだわ」

山積みになったパンケーキを見ながらマリアはご満悦である。いやはや。

「すごい量ね」

ユマは圧倒されている。脇に盛られた生クリームの量もすごい。

「美味しそうだね」

アランはマリアが前に座っていればなんでも良いんだろうよ。

「こりゃ、デブ製造システムだな」

小声で俺が言うと、目の前のユマが睨んできた。ごめん、もう言わない。

「じゃあ、いただきまあす!」

マリアが元気よく宣言してパクついた。んー、美味しい!


 この甘い山を全部俺が喰うのか?絶望的な思いに駆られながら、目の前にある皿の上のパンケーキを眺める。一口食べる。一口目は美味しいわな。問題はそれが継続するかだ。

 目の前のユマは、結構嬉しそうにどんどん食べている。すごいな、信じがたい。女性は甘い物に対しては底無しの胃袋を持っているのか?!


 「美味しかったぁ!」

マリアとユマが顔を見合わせて笑う。アランも御機嫌である。俺はパンケーキの山を半分、マリアとユマに輸出することでその場を凌いだ。やれやれ、死ななくて良かった。

 「中央公園でも行こうよ。腹ごなしの散歩ね」

マリアが提案する。

それは良いな。消化を早めそうだ。自然に俺とユマ、アランとマリアの組み合わせで歩き始める。アランとマリアはずっと話し続けている。よくもまあ、あんなに話すことがあるもんだ。

 一方、俺たちはというと、

「ケンは、ホントは甘い物が苦手でしょ」

「俺は女が苦手なんだよ」

「あきれた、女性の前でそういうことを言うのはハラスメントよ」

といった罵り合いを続けていた。ま、いつもの調子だな。

 ユマが小声で聞いてくる。

「ケン、なんでパンケーキ屋について来たのよ?」

「前を嬉しそうに歩いている奴を見れば察しが付くだろ」と俺は答える。

ユマはアランを見やってから溜め息を付いて

「なるほど、そういうことだったのね」と呟いた。

「可能なら」俺はユマに言った、「応援してやってくれ」

「友達思いなのね」

ユマは俺を横目で見ながら言った。

「俺は恋のキューピットなんだよ」

俺の軽口を、ユマはスルーした。


「やっぱり公園はいいわね」

芝生に寝転んだマリアは伸びをする。

確かに作られた自然とはいえ、本物の芝生は心地が良いだろう。

俺もユマも、もちろんアランも寝転んでみる。

「生きてるって実感するわね」

ユマがポツンと言った。

ほお、こいつがこんなことを言うのは珍しいな。

上を見上げると抜けるような青空、もちろん映像なのだが本能的に気分が明るくなる。いいものだな。しばらく我々は黙って芝生に寝転んでいた。


「じゃあ、また一緒に遊びにいこう!」

マリアがアランとユマに声を掛けて、俺と同じコミュータに乗り込む。アランが手を振る。ユマは小さくこちらに肯いた。おう、またな。

二人の姿が見えなくなってから、マリアは俺に言った。

「ユマは寂しがり屋だから頼んだよ」

え?いきなり俺に頼まれても困るんだが。

マリアは明るく笑ってから、こちらの顔を覗き込んで真顔になって言った。

「アランの面倒は、私が見るからさ」

やれやれお見通しかよ、でも俺にどうしろって言うんだ?

「ユマと一緒にいてあげてよ」

俺はあいつのこと好きだから良いけど、向こうが嫌がるだろ、と正直に俺は言った。

「ケンはストレートね」マリアは言った。

「そこをユマは気に入っているんだろうけど」

はあ?今、なんて言った?

「ケンは鈍いわね」マリアは笑った。

「ユマは、もっと鈍いけど」


 日曜日の朝、ユマは早起きしてハイスクールの施設を使って行われている女性のための格闘技教室の体験クラスに参加してみた。古来、アジアの日本で行われていた武術である合気道を基本としたクラスだった。

 師範は大学で体育学の教官をしているコバヤシ教授だった。背の高いがっちりした初老の紳士。民族衣装がよく似合う。ユマも道着と呼ばれる、ごわごわした布地の薄いベージュ色の服に着替えた。なかなか新鮮ね。

 全員で挨拶をした後、ひと通り柔軟体操を行い、畳の部屋に15人ほど集まった生徒へ、コバヤシ師範は声を掛けた。

「まず、いつもの通り受け身から練習を始めます」

最初に師範が手本を見せる。前転をして手でパンと畳をたたいて動きを止める。

ユマもやってみる。これくらいは余裕ね。往復で5回受け身をとった。

「次は二人一組になって」

師範が生徒を二組に分ける。ユマの相手は、中学生と思われる可愛らしい小柄な女の子だった。見かけない顔なので別の街区の子なんだろうな。

「よろしくね、私はユマ」

ユマは小声でその女の子に言う。女の子はにっこり笑って、

「私はメイヴィスっていうの。でもティティっていつも呼ばれてるから、そう呼んでね」と言った。よろしくティティ。

師範が見本を見せる。相手方になった生徒の一人が師範の手首を取ったときに、師範は相手を自分の懐に引っ張り込んでバランスを崩させて、背中を軽く押す。相手は前転をして受け身を取る。一連の動きは流れるようだった。もう一度、今度は師範が受け身を取る。動きが美しいな、とユマは思った。

 「ではそれぞれの組みで、真似してやってみて下さい」

師範が生徒に声を掛けた。

じゃあ行くね、ティティ。私がティティの腕を掴む。身をかわしてティティが私のバランスを崩す、おっとっと。前転で受け身を取る。ちょっと痛かったけどできたわ。

 師範が全員に声を掛ける。

「何回か、役割を変えたり、右と左を入れ替えたりして、同じ組でやってみて」

じゃあ、今度はティティが私の腕を摑む番ね。ティティが私の腕を摑む、引っ張り込む。あれ?ティティのバランスが崩れないよ。

 「んーとね」ティティが言う「重心を下げるの」

なるほど。もう一度やる。今度は上手く行く。綺麗にティティが受け身を取る。上手いわねぇ。何度かティティとやってみる。だんだん慣れてきたわ。

 コバヤシ師範が、生徒全員に声を掛ける。

「今度は隣の人と組んでみて」はあい。

ティティに手を振って別れる。またね。次の人はすらっと背の高い20代前半とおぼしき美しいポニーテールの女性だった。

「私、ユマです。宜しくお願いいたします」ユマは挨拶をする。

「ナオミよ、よろしくね」その女性はユマに微笑を返して答える。

「このクラスはじめて?」

はい!

「じゃあ、いくね」

ナオミはさっとユマの腕を取る。早い。強引に引っ張るが、ナオミのバランスは崩れない。「身体全体で重心を落とすのよ」

ナオミが言う。

こう?

「そうそう」

華麗に受け身を取る。

「じゃあ逆にやってみようか」

今度は私がナオミさんの腕を摑む。

あっという間に、バランスを崩される。うまく受け身が取れず、私は単純に転んだ。

あ、痛たた。

「大丈夫、ごめんね」ナオミが声を掛ける「ちょっと強引だったね」

いえ、私がトロいだけで。

もう一度お願いします。少しゆっくりナオミさんが動く。今度は上手く受け身が取れた。二人で役割を変えながら何度か繰り返す。相手の背の高さで随分対応が違ってくるのね。ときどき、師範が廻ってきて指導をする。

「もう少し腰を落として、そうそう」

なかなか難しいものである。

 その後、今度は後ろに倒れる場合の受け身の練習を終えたところで、本日の稽古はおしまいになった。最後に二人一組でうつぶせになった相手の背中を押す「整体」をおこなう。ユマも見よう見まねでやる。ありがとうございました。

 ティティが別れ際に

「ユマ、また来る?」と聞いてきた。

うーん、まだわかんない。ちょっと考える、とユマは答えた。

どうしようかな。ナオミがユマに軽く会釈をして去る。

「ユマ、またね!」なんかナオミさん、格好いい。

では師範ありがとうございました、皆様、お疲れ様でした。


「ねえ、ルイーズ」

「はい、なんでしょう」

音声AIは答える。

「身体を動かすというのは、良いものね」

ユマは言った。

「健全なる精神は、健全なる身体に宿れかし」

と音声AIは言った。

「なにそれ、どうゆう意味?」

ユマがAI尋ねる

「古代ローマのデキムス・ユニウス・ユウェナリスという人物の言葉です。意味は、『あんなに素晴らしい肉体を持っているのに、ひどいことばかりしていて困ったものだ。肉体は健全なのだから、その中にある魂も健全であるべきではないのか』という意味です」

「ルイーズらしく、なんか、ちょっとずれた受け答えね」

ユマが呟いた。

AIは笑い声を交えながら言った。

「そうですね、ずれていますね。でも身体を動かすことは、心にとって善いことだと思いますよ」

そうね、私、色々やってみるわ、ユマは思った。


ベティが夕食後、ユマに声を掛ける。

「ユマ、今度のクリスマス、教会に行かない?」

なにかあるの?

「オルガンのミニコンサートがあるのよ。友達が演奏するの」

おお、オルガンって聞いたことがないや、行く行く。


オルガンの音が教会に静かに響く。似たものの無い音だ。弦楽器の音ではもちろんないし、ピアノの音とも違う。風の音?なんだろう、温かい訴えかけるような音色。フルートに近いかな?配布された資料から、最初の曲は、大昔の作曲家バッハの「目覚めよ、と呼ぶ声あり」だとわかる。純粋に美しい。このオルガンは500年ほど前に、一人のエンジニアが地球の楽器の設計図をもとにして作ったポジティフオルガンというものだそうだ。パイプオルガンだがグランドピアノよりも小さいくらい。すらっと背の高い女性が弾いている、背を向けているのでどんな表情かはわからない。

続いて、同じくバッハの曲でインベンション第一番と第八番。単純な旋律だが心に響く。最後は原曲がテレマンの、やはりバッハの曲でトリオ ト長調BWV586。

 曲が終わり、教会に集まった観客から拍手が送られる。良いコンサートだったなあ、ユマは思う。演奏者がこちらに向き直り、お辞儀をする。あ、この人知ってる、格闘技教室で会ったナオミさんだ。なんだベティ姉ちゃんの友達だったんだ。


「ナオミ、良い演奏だったね」

ベティがオルガンに近づいていき、ナオミに言う。

「頑張って練習したからね」

照れ笑いを浮かべながらナオミが答える。ナオミがベティの横にいる私に気がつく。

「あれ、合気道で一緒だったよね?」

「妹だよ、ユマっていうの」

ベティが私を紹介する。

「そうだ、そうだユマだったね、久しぶり」

ナオミがにこりと笑う。

「ご無沙汰してます」

私は言った。

「素晴らしい演奏でした」

「オルガン触ってみる?」ナオミが私に言う。

「ピアノに少し触ったことがあるくらいですけど」

鍵盤は一段だけ、本当に小さい。インベンションの第一番のさわりを弾いてみる。

「あれ、弾けるんだ?」

ナオミが笑顔を見せる。

「ほんのちょっと」私は答える。

ピアノより鍵盤が軽く、音の出方が随分違う。難しい。

「ジュニアハイスクールの時、ピアノ習うのやめたんだっけ?」

ベティが私に聞く。うん、そう。1年前に、ちょっと忙しくてレッスンを止めてしまった。

「私、大学院でこれから忙しくなるから、後継者を絶賛募集中よ」

ナオミが私に言う。

「やってみる?」え、そうなの?どうしよう。


「やってみれば良いじゃん」

俺は答えた。

「うまくいかなくなったら、辞めりゃあいいし」

「ケンのそういういい加減なところ、嫌いだわ」ユマが答える。

「引き受けるっていうことには、責任が伴うじゃない?」

「じゃあ、辞めなきゃいい」

俺は答えた。それ以外、解は無いだろ。

「あきれた。だから私は迷っているんじゃないの」ユマ女王様はお冠である。

ここは譲れないところだな。俺はユマに言った。

「ユマは、先を読みすぎて混乱してるだけだ。現在の考えは、現在だけのもので、上手く行かなければ、そのとき考えても遅くはないだろ?」

「そういうのを無責任って、言うのよ」

ユマが俺を睨みつける。

「違うな。それはユマの覚悟が足りないんだ」

つい、俺も喧嘩腰になる。

「覚悟して始めて、後でどうしようもなくて辞めるのは仕方の無いことだ。全部現在の自分に責任は取れないだろ。未来になにが起こるか、すべてコントロールなんかできないのだから」

ユマは黙ってしまった。ちょっと言い過ぎたな、悪かった、と俺は言った。

「いいえ、ケンが正しいわ」

しばらくして、ポツンとユナが呟いた。


「ねえ、お姉ちゃん」

私はベティの部屋の椅子に腰掛け、脚をブラブラさせながら言った。

「結局、覚悟の問題なのかもって思うようになったよ」

「どしたの?」ベティは、ベッドの上にあぐらをかいてこっちを見た。

「色々迷ってたら、ある人に言われたんだ」

私は答えた「覚悟の問題だって」

ああ、厳しい言葉ね。ベティは頭を掻きながら言った。そこまで私は徹底できないな。

「お姉ちゃんでもそうなの?」

「私は、そんなに強くないよ」ベティは笑った。


「あのね」コーヒーを一口飲んでから、ユマが俺に言った「この前は、アドバイスありがとう。私、オルガンやってみることにした」

「偉そうなこと言って悪かったな」

俺はユマに言った。

「自分でもできていないことを説教して」

「そんなことない。ちゃんと言ってもらって嬉しかったわ」

ユマが真っ直ぐ俺の顔を見て言う。なんか照れるな。

「急に喫茶店に呼び出されたから、カツアゲでもされるのかと思ったよ」

俺は冗談めかして言ってみる。

ユマがキッとこちらの顔を睨む。

「私は真面目に感謝してるのだから、茶化さないで」

はいはい。

「ケンのそういう軽いところ、嫌い」

「俺はユマのそういうクソ真面目なところが好きだよ」

え?今、なんて言ったの?

「俺は、ユマのことが好きだと言ったんだよ」

ユマはポカンとした顔をしてこっちを見た。沈黙の後、ユマは言った。

「私は男の子と付き合ったことないから、どうしたら良いかわかんないよ」

「俺は、好きだと言っただけで、付き合ってくれとは言ってないぞ」

「あ、ケン、ズルいよ!」

ユマが焦り気味に言った。

「ユマ、これからもよろしくな」

俺はユマに言った。

長い沈黙の後、ユマは照れ臭そうに笑ってから、小さく肯いた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

5代目クローンのユマちゃんは、色々悩んでいました。

視点を変えて、ユマちゃんの心の揺れを客観的に表現してみました。

楽しんでもらえたら、嬉しく思います。


しばらく更新が止まりますが、連載はあと3話続きます。

更新が止まっている間、別の短編シリーズを毎日リリースします(全10話)。

そちらは、短くてさくっと読めると思うので、隙間時間にでもどうぞ。


では縁がありましたら、またお会いしましょう!

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